出血
暇をもて余した和人は、調理器具の入った棚を一つずつ開いていた。
「シャキーン」
効果音と同時に取り出したのは、よく研がれた刃渡り三十センチの出刃包丁だった。それを和人が持って構えている。
「おい、そんなもの持ってると危ないぞ。仕舞っておけ」
見張りをしていた孝一が扉の所から小さな声で忠告するが、和人の暇潰しは終わらない。剣を振り回す勇者のように包丁を振り回す――。
「危ないだろ」
安彦はそう言いながら、同じ棚から同じような包丁を取り出した。和人が羨ましかったのだ。
「シャキーン、安彦は聖剣エクスガリバーを手に入れた!」
同じように出刃包丁と……鍋の蓋を手にしている。
「アホ! 大きな声を出すな!」
孝一の声も少しずつ大きくなる。年下の二人が包丁を握って構えているのだ。
「怪我をしても知らないからな」
園庭側に目を移した直後だった――。
「痛っ!」
「あ、ごめん」
孝一がとっさに振り向くと、最悪の事態が起こっていた――。
和人が指から血をポタポタ流し、調理室の床に赤い斑点を作っている――。
「――馬鹿野郎! だから止めろって言っただろ!」
孝一が駆け付けて血が出ているところを直ぐさま確認する。右手人差し指の第一関節から真っ赤な血が垂れている。
「傷口を抑えて心臓より高い位置に上げろ」
「大丈夫だよこれくらい」
和人はそう言って指を口で舐めたが、傷口からは直ぐに血がジワッと滲み出てくる。
「ごめん。当たるとは思わなかったんだ」
「平気平気」
そう言って指をくわえた。
「わしが絆創膏を持ってくるから、しっかり指を押さえとけ。安彦は包丁を片付けておけ、いいな」
「うん。でもどうやって絆創膏を取りに行くんだよ。窓の外から見付かるぞ」
ブランコを立ちこぎして高くまで上がると、美弥子の身長でも廊下の床まで見えるかもしれない。
「もし、わしが見付かったら……、深雪ちゃんと美弥子の気を引いておくから、お前ら二人は調理室の勝手口を開けて逃げろ」
二人は開いた口が塞がらなかった。
悪いのは包丁で遊んでいた自分達なのに、孝一が自分一人で危険を冒そうとしている。深雪に見付かれれば、孝一の事をいったいどう思うのだろうか――。好きや嫌いといった感情ではなく、間違いなく軽蔑される――。
「もし、孝一君が見付かったら、僕達も一緒に出るよ」
「うん。悪いのは包丁で遊んでた僕達なんだから」
孝一は聞く耳を持たない。扉から素早く飛び出すと、芋虫のように廊下に這いつくばって、匍匐前進を始めた。
「――!」
残された二人は息を殺してそれを見守るしかなかった。
和人は今日殺した芋虫の……芋虫のモゾモゾ進む姿を思い出していた。
「あああ、見付かりませんように。見付からなかったらもう二度と芋虫は殺しません!」
息を潜めて唸る。安彦が園庭に目をやると、美弥子と深雪が並んでブランコを立ちこぎしていた――。
キー、キー、キー、キー……。
錆びたブランコの軋む音が、心臓を直接かきむしるように二人を苦しめた――。
職員室まで辿り着いた孝一は、戸棚の前でサッと立ち上がり、直ぐにガラス戸を開ける。
ブランコの位置からは見えないが、動く気配は磨りガラスの向こうから気付かれてしまうかもしれない。それに、表や見る角度からでは完全に丸見えになってしまう。
「絆創膏――、どこだ、どこにあるんだ! 昔はここにあった筈なのに!」
孝一の探す手が震えている。焦りから額には汗が吹き出す。
絆創膏は戸棚の一番下にある木製の救急箱に入っていた。孝一がそれを見つけ出すのに数分間を要した――。
「あった、あったぞ!」
小さい声でそう言うと、また芋虫のように伏せて廊下の壁を蹴りながら滑って進んだ。
調理室へと滑り込むと、孝一は絆創膏を和人の指にしっかりと張り付けた。
「これで大丈夫だ」
「ありがとう、孝一君」
孝一の手には数十枚絆創膏が握られている。それを全部和人のポケットへ詰め込んだ。
「これだけあれば大丈夫だろ。婆ちゃんにもバレずにすむ」
「うん」
「……でも、ちょっとヤバイかも。美弥子がブランコから降りて近付いてくるぞ」
壁を蹴る音に気付いたのか、園庭から遊戯室の窓に一歩ずつ近付いてくる――。
安彦も調理室の奥へと移動する。角度的には見えないが、三人は調理室の一番奥へと移動し、身を屈めた。
「……神様……」
誰かが小さく呟いた。
美弥子は遊戯室内に出しっ放しにしてある遊具を不審に思い、他の教室も窓から覗いて歩いた。
「どうかしたの美弥子?」
深雪の呼び掛けに直ぐに答えない。シールが剥がされていたり、車の玩具が出しっ放しにされていたり、そんな散乱した様子を見ても、この保育園では日常茶飯事だと思ったのだろう。
「なんでもない。中から音がしたから誰かいるのかと思ったけど、誰もいないわ」
深雪も窓から教室の中を覗く。背が高い分、中の様子がさらによく見渡せる。
「うわあ、散らかってるね。美弥子の部屋と一緒ね」
「おねえーちゃん!」
美弥子は怒って姉を叩きはじめた。
「アハハ、冗談よ。それより、もうそろそろ帰って宿題しようよ。お母さんに怒られるわ」
「……ああー宿題か。やりたくないなあ……」
「教えてあげるから大丈夫よ」
深雪は優しく美弥子と手を繋ぎ帰っていった。
保育園の表から二人が帰っていくのを確認すると、三人は一斉に息を吐き出した。
「ぷはー、ああ、助かった」
「もう駄目かと思ったよ」
「やっぱり見張りをつけないと駄目だな」
孝一は深雪の姿が見えなくなるのを惜しみながらそう言った。
「それよりもう出ようよ。また誰か来たら大変だ」
安彦は今度こそ見付かってしまう気がしてならなかった。やりたいことは全部やった。さっさと外に出て新鮮な空気が吸いたい。
「まだ職員室とかを調べていないだろ」
「そんなところを調べても何もないって」
時計の針は四時を回っいてた。山際にある保育園はすっかり日陰になり、肌寒さを感じさせる。
「安彦君、小心者だね」
「なんだと! 年下のくせに」
小心者という言葉を年下の和人に使われ安彦は怒った。
「僕は小心者なんかじゃない。これ以上ここにいて見付かったら、なんにもならないから早く出ようって言っただけじゃないか。取り消せ!」
「――それを小心者っていうんだよ! 怖かったら怖いっていえばいいじゃないか」
「なんだと――!」
安彦は両手を握り拳にしたが、決して和人を叩いたりしなかった。
喧嘩は弱い方で、いつも兄に泣かされていた。兄のように本気で人を叩けない。和人も孝一もそれを知っている。
「まあまあ、喧嘩はその辺にしておけ。安彦が出たいなら園庭で見張りをしていてくれればいい。誰かが来たらブランコでも鉄棒でもいいからカンカン叩いて音を出してくれたらいい」
「でも……、たった一人で遊んでるのは怪しくないか」
「ここでわしらと待ち合わせしていると言えばいいさ。くれぐれも見付かるような事だけはするなよ」
遊戯室の扉の鍵を孝一が開けた。
今なら簡単に外に出られる――。
「出たらすぐに鍵を掛けるからな。もし入りたくなったらまた合図しろよ」
「……分かった」
安彦は脱いで置いていた靴を外に出すと、座って靴を履き始めた。
「でも……早く出てきてよ」
「分かってる。心配するな。あとは職員室と更衣室だけ調べたら直ぐに出てくるから待っとけ」
孝一が扉を閉めようとした時、安彦は腕を挟んでそれを阻止した。
「更衣室って、もしかして……先生の更衣室の事かい?」
「ああそうだけど」
なぜそれを早く言ってくれなかったのかっ! 安彦はまた靴を脱いで遊戯室へと上がると、表で見張りをしながらその様子を見ていた和人が呆れてため息をついた。
「安彦君ってスケベだなあ」
「男はみんなスケベだろ。……前に保育園の新しい先生を見たけれど、凄く若くて綺麗だったんだ」
「……やれやれ」
孝一はまた鍵を掛け直した。