紙工場廃墟
安彦は必死にかがんで身を小さくする――。
窓の外から聞こえる足音はどんどん大きくなり、確実に近付いて来る。覗かれれば一瞬で見付かってしまう――。
今は動けない。額を汗が伝い、木の床へと落ちると小さな滲み跡をつくった。
部屋の奥では、同じように孝一と和人が息を潜め見守り続ける。
もし警察に見つかり、逮捕されれば、少年院という場所へ送られてしまい、一生真っ当な生活が出来ない。
誰かがやって来ることは簡単に想像できた筈だ。それなのに対策を怠っていた……と嘆いても、それは後の祭。今は息を止めて見つからないようにと祈るしかなかった。
悪者の祈りを聞き入れてくれるような神様なんかがこの世にいるとは思えないが……。
――五時間前――
運動会の振替休日、安彦は自転車を立ちこぎして川沿いの農道を駆けていた。
町外れにある紙工場廃墟の閉ざされた門の前では、孝一と和人が待っている。
「安彦遅いぞ」
「ごめん。昼御飯のうどんが熱くて食べるのに手間取ったんだ」
「じゃあ行くぞ!」
孝一が身軽に門をよじ登って侵入し内側から掛けられている止め金を外すと、和人と二人で重い鉄製のゲートを動かした。
ズズズズズ……。
鉄製の油が切れた車輪は、引きずられるように錆びたレールの上を動く。
少しだけ開いたところで素早く乗ってきた自転車を中に入れ、外から見えない位置へと停めた。
ズズズズズ……ガシャ。
紙工場廃墟は僕達の秘密基地だった。秘密基地といっても、僕達三人だけの物ではない。他の小学生や、時には中学生や高校生がタバコを吸いにやって来る。
入り組んだ構造の工場内には隠れる場所がたくさんあり、猿梯子でしか上がれない天井裏には、中学生や高校生は滅多に上がって来ない。
そこに隠してあるお宝……。それは、湿気を吸って波状に変形した成人雑誌だった。
遠くの国道を車が通る音がする度に、僕達は顔を上げて周囲を見渡す。
自転車のブレーキ音は、それ以上に警戒する必要がある。
「すげえ。この女の胸、見てみろよ」
「デカ! でも、大き過ぎて気持ち悪いや」
雑誌のページを次々とめくりながら、二人の選んだ雑誌とも見比べる。山のように積まれた成人雑誌の中から、いかに「当たり」を見つけられるかを競うのだ。
「うーん、これもボツ。やっぱり安彦君のデラベッピンに敵うやつは見つからないなあ」
「そうだろ、あれはギリギリまで見えてるからなあ」
安彦は自慢げに言う。それを背に孝一は次々とページをめくり続けていた。
波型スレートの天井床にずっとしゃがんでいると次第に足が痺れてくる。座ってしまうと、埃と汚れが酷すぎてズボンが真っ黒に汚れてしまう。
三十分くらい経っただろうか。急に和人が立ち上がった。
「もう飽きたや。どこか別の所へ行って違うとこしようよ」
和人の意見に賛成だったが、孝一だけは立ち上がろうとしない。立ち上がっていて立ち上がれないだけなのかもしれない……。
「何冊か持っていくか」
孝一はそう言うと、落ちていたナイロン紐でまだ読んでいない雑誌を数冊縛り始めた。
「持って帰るのか? 親に見つかるぞ」
「それに中学生とかにバレたら怖いよ。殴られるかもしれない」
安彦と和人の忠告も聞かずに孝一は、巧妙に分厚い雑誌の束を作り上げた。
「なーに、こんなにあるんだから数冊くらい無くなったってバレやしない。自転車のカゴに入れてこれを橋の下の秘密基地へ隠しておいたら、わざわざこんな所までこなくても、いつでも見れるだろ」
「そうか、さすが孝一君は賢いなあ」
岸辺孝一は一番年上で小学五年生。賢いと誉めた高橋和人は三年生で、三谷安彦は四年生だた。
近年、過疎化が急速に進む富山県の南に位置する桑川小学校は、とうとう全校生徒数が五十人を切り、十人以下の二年生と三年生は複式学級が導入されていた。
同級生の友達もいるのだが、年齢の違う三人はよく一緒に遊んでいた。年下にとって年上のやることは常に新しく、スリルに満ち溢れていたからだ。
紙工場の出口周辺に人影がないのを確認すると、鉄製のゲートを少し開けて一斉に自転車を立ちこぎする。
孝一の前カゴには分厚い雑誌の束が入っており、和人と安彦の前カゴには、見つけて隠していた「お気に入り」が入っていた。
「もし途中で女子に会ったらどうする?」
笑い話にもならない。安彦の一言に皆、一斉に自転車を止めた。
「絶対、先生に告げ口するだろう」
スケベだとか変態だとか軽蔑されるだろう。男子と女子の仲は悪い。
「そしたら……また怒られるや。この間も宿題の答えを写していたのがバレて怒られたとこなのに」
孝一は顎に手を当て少し考えると、安彦に上着を脱ぐように言った。
「全部わしの自転車に入れて、安彦の上着で隠しておいたら絶対に大丈夫だ」
安彦はチェック柄のネルシャツを脱いで、雑誌で盛り上がる自転車の前カゴに被せた。孝一は誰の影響かは知らないが、ずっと自分の事を「わし」と呼んでいた。
「完璧だろ」
「おおー」
こうして他の二人は、また一つ賢くなる。
安彦はジーパンに白のランニングシャツ一枚という……変な姿を気にもせず、自転車を走らせた。
幸か不幸か、小学生の誰ともすれ違わずに橋の下にある秘密基地へと辿り着いた。
草むらに自転車を倒して隠す。こうするだけでも遠くからは見つかりにくい。橋の下は独特のコンクリートや埃の乾燥した臭いが漂っていた。
三人はあぐらをかいてまた雑誌を読み始めた。
和人が川に小便をすると、他の二人に「立ってる」と馬鹿にされた。
「自分らも立ってるくせに」
なにも言わずにニヤニヤしながらまた雑誌をめくった。
ここなら気兼ねなく読める。全部読んでしまったらまた取りに行けばいいと考えていた。しかし、その安心感が「雑誌を隠れて読むスリル」を奪ってしまい、十分も経たないうちに飽きてしまった。
「……せっかくの連休なのに、暇だなあ……」
安彦がため息交じりに呟くと、孝一の腹が鳴った。
グーキュルルルル。
「それより腹減ったなあ」
さっき昼飯を食べに帰ったはずなのに。
「孝一君は昼飯を食べなかったのかい?」
その通りだった。
「ああ。休み中は小遣いを五百円貰ったけど、お菓子を買ったから無くなった」
孝一はそう言うが、そのお菓子を孝一が食べているところを見ていない。
「朝ご飯の代わりにお菓子を食べたんだ」
朝ごはんが……お菓子。
「いいなあ。朝からお菓子を食べられて」
安彦が素直に羨ましがると、孝一も自慢気に言う。
「いいだろ。しかも好きなお菓子だぞ。何を買って食べてもいいんだぞ」
玩具付きのお菓子でも、コーラや色の濃いジュースでもいいというところが、安彦には羨ましかった。親が選んだお菓子しか食べたことがなかったからだ。
和人はおにぎりを二個食べてきたと言った。だから二人は待ち合わせ時間に遅れなかったのだ。
遅れた安彦はというと、熱いうどんにネギを沢山入れられ、全部食べなければ遊びに行かさないと祖母に言われ、必死に食べてきた。腹など空いている筈がない。
振替休日の月曜日。平日の昼間に親が仕事で居ないのは当然だが、孝一と和人の家は別であった。
孝一の家は古くて汚い。桑川町は新築が建ち並ぶような住宅街ではないが、孝一の家だけは壁の一部が黒ずみ、剥がれているところもあった。孝一には母親も祖父母も居ない。離婚をしたのか、亡くなったのかを聞いた事もなかった。昔は、建設会社の社長をしていたという孝一の父親も、今では家の二階に引きこもり、参観日などでも見たことはなかった。
孝一はいつも同じ服を着ており、冬に孝一が安彦の家のコタツに入ったあと、孝一の臭いが一時間くらい取れなかったこともある。
そのせいでかは知らないが、孝一は女子から避けられていた。
和人には両親が居なかった。祖母と二人暮らしをしているが、その経緯は知らない。孝一とは異なり、服装はまともでセンスも良い。勉強も学年の中で一番良く出来た。
二人の昔の事について、根掘り葉掘り聞く友達はいなかった。保育所からずっと一緒にいる友達の間には、家族構成や秘密ごとなど関係無いのだ。それに、同じような境遇の家庭が桑川町には少なくなかったからだ。
安彦の家はそれに比べ、裕福であった。本人にはその自覚はなかったが、町内で初めてプラズマ大型テレビを買った噂は、一日のうちに広まっていた。両親と祖父母と兄という、当たり前のような家族構成だった。
他の二人と違うところといえば、兄がいる事くらいと安彦は思っていた。
安彦は兄と仲が悪い分けでもないが、四六時中一緒に遊ぶのを拒まれていた。今日はどこで誰と遊んでいるのか、知らされてもいない。
「何か食べ物無いかなあ」
安彦はヨモギやツクシといった食べられる道草を口にした時のことを思い出す。
小学生にとって「食べられる草」は、サラダのような錯覚があり……それが悲劇を招く。安易に「食べられる草」と教えられれば、興味本意で口に入れてしまうからだ。
生の竹の子、ウド、わらび。たらの芽はトゲで断念したのが救いだったのかもしれない。渋柿などは、食べた途端に口が開かなくなった。
三人は道草などでは腹など膨れない事を承知していた。
「お菓子でも買って食べようか」
安彦のポケットにはお金など入っていない。他の二人も同様である。結局三人は近くの公園で水をガブ飲みし、腹を満たした。
ブックマークだけは今すぐ忘れずにお願いします!?