2-7
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「やってやりましたね。師匠」
雪道に足を取られまいと、細心の注意を払って中央通りを駆け下る左文字。それに追随する斉場少年は、息を弾ませながら声を掛ける。
「上手く行って何よりです」
左文字も上々の結果となった先ほどの『喰い』に、思わず顔を綻ばせる。
「しかし、修行を付けると言われてウキウキしていたら、天ぷらを揚げる練習をさせられるなんて思いもしませんでしたけどね」
喰い逃げ屋の修業を付けて貰えるとばかり思っていた斉場少年だったが、蓋を開けてみれば天ぷらばかりを揚げさせられる毎日。
まさか長野に来てまでそんなことに成ろうとは。
これには少々不満気に口を尖らせる斉場少年だが、左文字は「それは仕方がないですよ」と取り合わない。
「今回の作戦の胆なのですよ。天ぷらを揚げるのは。この作業を頼めるほど信用が置ける人なんて、斉場君くらいしか居ませんからね。おかげで最後まで美味しく料理をいただけました」
「うへへ…。そうですかぁ?」
師匠の左文字に褒められて、先ほどの不満は何処へやら。照れた様子の斉場少年を見て左文字も安心する。
「しかし、あの奥義書の意味がまさかこんな事とは思いませんでしたね」
「確かに、思いもよらないことでした」
今回の喰い逃げ屋。その『喰い』に左文字が用いた秘策。それこそが先代左文字が森将軍塚古墳に残した第三の奥義書の内容だった。
その手口、それを簡潔に言うなれば、入れ替わりである。
本来、喰い逃げ屋の敵である店側の人間。その調理を担当する人間を、丸々喰い逃げ屋の手の者に入れ替えてしまう。
そうすることで、本来店側がコントロールする筈の料理に対して、食い逃げ屋側がコントロール権を奪取する事となり、圧倒的有利を作り出せるという仕組みであった。
「一人で食い逃げをやっていた頃は思いもつかない戦法でしたね。それに今回これを実現するだけの人数が居た事は、大いに追い風となりました」
この奥義に二つ返事で協力をしてくれた辺馬教授の研究生たちに感謝の意を示す左文字は、彼らが後ろから来るであろう後ろを振り返る。
自分たちの足が早すぎるのか、それとも彼らが逃げることに慣れていないのか、未だにその姿が見えないことを左文字は気に掛けるが、斉場少年にぶつかりそうになって慌てて前に向き直る。
「ところで、師匠。この奥義の名前って何かあるのですか?」
「名前…? 特には知りませんね。先代に聞けば解るかもしれませんが」
「だったらそれまでの間は愛称で呼ぶことにしましょうよ。名前があったほうが解り易いですし。師匠は何かイイ案がありますか?」
「急に言われても…。まあ、『曼荼羅』でイイのではないですか? 私としては前々からそんな風に見えていましたし」
「シンプルですね。イイと思いますよ」
その命名が気に入ったのか、斉場少年は朗らかな笑い声を上げながら左文字の前を走ってゆく。
―――マッタク、注意して走らないと危ないでしょうに。
ただでさえ滑りやすい雪道なのに、調子に乗っている斉場少年に危なっかしさを感じる左文字は、なんともヒヤヒヤしてしまう。
そして、言っている傍から斉場少年が何かに躓いて転んでしまう。
「危ないですよ。気を付けて下さい…」
助け起こそうとした左文字だが、斉場少年の妙な様子に気が付いて、思わず手を引いてしまう。
倒れ伏した斉場少年が、足の裏を庇うような仕草をしている。
そして、よくよく見てみれば彼の靴の裏。そこに何か金属片が突き刺さっている。
―――これは⁉
思わずたじろいでしまいそうになる左文字だが、寸でのところで足を踏み止まる。
それが正解だった。
周りをよく見渡してみれば、斉場少年の足に突き刺さった金属片と同じものが、辺り一面に敷き詰められていた。
「ほう、マキビシを見切ったか」
唐突な危機的状況にタラリと冷や汗が垂れる左文字の耳に、不意に聞き覚えの無い声が響いてくる。
それに釣られて天を仰げば、曇天に踊る黒い影がいくつも飛び交って左文字の前に降り立った。
「まさか⁉ 戸隠忍軍!」
黒い覆面、黒装束。鎖帷子を纏い、手には印を結んでいる。
どの角度から見てみても、一目で忍者だと解る集団が、ヒタリヒタリと足音一つ立てずにジリジリと詰め寄ってくる。
「フフフ…嬉しいな。そうとも! 我ら戸隠忍軍五人集。蕎麦屋『アクタガ』の追っ手組として参戦致す!」
忍者五人集。その中心に立っているのが彼らの頭目なのだろうか。
頭巾の端から覗く双眸は小皺が目立ちながらも猛禽のごとき鋭さがあり、体躯は周りの忍者と比べても小柄でひ弱そうに見えるが、立ち姿からして実力の違いが彼らとは一目瞭然である。
まさに歴戦の老兵。その実力は他の忍者とは一枚どころでは無い差で上手なのだろうとハッキリと解ってしまう。
「…? ってあれ? 貴方はあの時の」
その頭目と思わしき忍者の立ち姿を見た左文字は、それが数日前に『忍者大門』にて出会った忍者と同一であることに気が付いた。
「やはり覚えていたか、喰い逃げ屋『左文字』。その節はお買い上げいただき有難うございました」
敵意を剥き出しにしながらも、丁寧にお礼の言葉を述べる忍頭に、調子を狂わされた左文字も「滅相も無い」と場違いな返答をしてしまう。
「されど、それはそれ、これはこれ。これから我らはどんな手を使ってでもソナタを捕まえる。お覚悟召されよ」
そんな彼が不敵に笑いながら、驚愕する左文字の様子を楽しげに眺めている。まさに強者の余裕である
―――ここで、彼らが出張って来るとは。
現に左文字は相当の危機を感じていた。
今回の喰い逃げ屋に於いて『喰い』に関しては苦戦することを予想していたものの、逆に『逃げ』に関しては楽勝だろうと高を括っていたのだ。
しかし、追っ手として現れたのは予想だにしない強敵。これは苦戦が必至である。
「ククク…それにソナタを捕まえれば『アクタガ』から蕎麦を振る舞って貰えるように話を付けている。奴は大分渋っていたが、ソナタが頑張ってくれたおかげで我々に頼らざるを得なくなったのだろうよ」
左文字の必死の頑張りが、彼らの封印を解いてしまった。そう言う事だと忍頭は豪語する。左文字を追い込んだのは自分自身だ。そう言われているように感じてしまう。
―――しかも多勢に無勢。分が悪いですね。
左文字が思うように人数の差も大きなディスアドバンテージである。
忍者一人を相手にするにしても相当厳しいと言うのに、それが5人がかりで向かってくるのだから絶望的である。
だからこそ、こちらも頭数を揃えるべく、後ろから来るであろう研究生たちの到来を待っていた。
「ところで、ソナタの待ち人はこの者たちか?」
すると、忍頭は部下に命じて後ろに置いてあったズタ袋を解くと、中からワラワラと5人の若者が、辺場教授の教え子たちが零れ落ちてきた。
流石忍者、プロの技。縛り方がエグイ。
みんな丹念に、念入りに、身動き一つとれないほどにシッカリと荒縄で縛り上げられており、逃れようともがくほど縄がキツく締まっていく縛り方をしてあった。
これでは彼らの斎木は望むべくも無く、頭数として期待できないではないか。
―――それに、斉場君が…。
負傷した斉場少年を庇ったまま戦うことはまず無理だろう。
そうなると頼れるのはこの身一つの成るわけだ。
「コッチです!」
即座に状況を判断した左文字は、踵を返して元来た道を走り出す。
それにすぐさま反応した忍者たち3人が、左文字の後を正に影の如く追い縋る。
「頭目。此奴等はどうなさいます?」
その場に残ったのは忍頭と一人の平忍者。そして、左文字の協力者たち。
斉場少年たちの処遇について尋ねる忍者に、忍頭は捕虜たちの顔をシゲシゲと眺める。
「イイ、捨て置け。どうせ左文字を捉えなければ成らないのだ。此奴等など捕まえたところでどうしようもない」
だが、意外なことに忍頭は彼らを放置するという。この対応には平忍者も意外だったらしく、思わず聞き返してしまう。
「しかし、人質として使えるのではないでしょうか?」
確かに平忍者の言うとおり、人質として使えばさらにこちらの有利となる。
その利を手放してしまうのは如何なものかと思っての疑問であったが、平忍者の問いかけに忍頭は「それは無駄だ」と切り捨てる。
「お前は左文字を知らないからそのような考えに至るのだろう。しかし、左文字という喰い逃げ屋は外道の一言にすぎるのだぞ」
「外道…ですか?」
「そうとも。血も涙もない、奴らは鬼にも畜生にも劣る外道だ。例え家族や愛する人を人質としたとしても、左文字はゴミでも捨てるかのように彼らを見限るぞ」
「そこまでなのですか…」
忍頭の左文字に対する評価を聞いて、平忍者がドン引きしたように青い顔を見せる。
そんな奴の喰い逃げ屋に関わってしまったことを軽く後悔しながらも、平忍者は捕虜たちが逃げられないように改めて電柱に彼らを括り直した。
「これでもう大丈夫でしょう。頭目の指示通り、奴らはもう逃げられません」
「よくやった」
身動き取れない捕虜たちを見つめて、納得したように頷く忍頭に、平忍者は頭に浮かんだ素朴な疑問を問いかける。
「頭目はどうして左文字のことをそこまで知っているのですか? 確か聞いた話では、10年前の左文字の喰い逃げ屋では、逃げにまで行かなかったはずですが」
自分の聞いた通りだとすれば、追っ手組として忍者の出番はなく、忍頭が左文字と関わる事がなかったはずだ。
それではイッタイ何故そこまで左文字のことを知っているのか? それが疑問でならなかった。
「俺と左文字が戦うのは初めてではないだけだ」
その答えはシンプルであり、それでいて不可思議であった。
確かに左文字との交戦経験があるならば、その特性を知っていても不思議ではないが、先ほども言ったように、10年前の左文字は逃げていないのだ。
では、どこで戦ったというのだろうか。
「左文字といっても今の左文字ではない。あれの先代と戦ったことがあるのだ」
「そう言う事だったのですか」
意外な繋がりに驚く平忍者だが、それよりも語るたびに険しい表情に変わっていく事に気が付く。
「忘れもしない。アヤツは…先代の左文字とはまだ俺が若い頃に戦ったが、手段を選ばぬダーティー戦法に翻弄されて、手も足も出なかった」
「そこまでの強敵だったのですか」
「思い出したくもないほどにな。散々やられた後に見せしめとして善光寺山門に裸で磔にされた時は―――」
「⁉」
「今のは忘れろ。イイな…」
有無を言わさぬ忍頭の圧力に、間違ってでも逆らったのなら命はないとを理解した平忍者は無言で何度も頷いた。
「さて、弟子の不始末は師匠の不始末。そして、その逆も然り。よもや逆恨みとは言わせない。キッチリこっちがスッキリするまで償ってもらおうか」
悪い笑顔を浮かべている。
覆面に素顔を隠していながらも、その雰囲気を感じ取った平忍者。しかし後が怖いから、そんな心中をおくびにも出さず、消えるようにその場を立ち去った忍頭の後に続いた。
一方その頃、左文字はピンチに陥っていた。
逃げても逃げても、そして隠れても、どこまでも付いてくる忍者たちの追跡に次第に追い詰められていたからだ。
直線を全力で走っても、数秒もしない内に併走され、曲がり角でフェイントをかけたとしても、次の曲がり角に先回りされる。
挙げ句の果てに振り切ったと思い、路地で一息吐こうものなら、壁がハラリと捲れては、隠れ蓑から忍者登場。
このような具合で、左文字を休む間もなく走らせる忍者達の猛追は既に1時間を越していた。
―――もう勘弁してくれませんかね…。
彼らが闇に潜む者らしく、宛ら自分の影のように切り離せず付いて回る様は、次第に左文字の心と体力を疲弊させてゆく。
息も絶え絶えに成る左文字。どんなに左文字が優れた喰い逃げ屋であっても、どれほどの鍛錬を積んでいたからと言っても、これほどの長時間を全力疾走し続ければ体力の底が見えてきてしまう。
その点忍者は狡猾で、3人でローテーションを組んで追いかけてくるものだから、疲れの度合いがそもそも左文字と比べようも無い。
現に苦し紛れに建物の中に飛び込んだ左文字は汗まみれで息切れしているのに対して、迫り来る忍者たちは誰一人として苦しい顔一つせず、余裕綽々といった様子なのだから。
そして、何より拙かったのは、その逃げ込んだ建物であった。
あまりに追い詰められており、気が動転していた左文字は、目の前に扉を開けていた一軒家に無条件で飛び込んでしまう。
しかし、よくよく考えてみると忍者たちは左文字の事をここへ誘導するように追いかけていたことに気が付いた。
「ようこそ『忍者大門』へ」
混乱の極みからようやく我に帰った左文字の耳に、先ほどの忍頭の声が聞こえてくる。
姿が見えず声のみが響くのが何とも忍者じみている。
―――天井裏…? それとも床下…?
何はともあれここがあまりに危険だと理解した左文字だが、既に入口は固く閉ざされており、店の奥にしか進む道は残されていなかった。
―――退路は、無しですか。
意を決して恐る恐る前へと進む左文字。
先日にも来た通、この『忍者大門』は忍者に関するアイテムショップらしく、おもちゃの手裏剣や忍者等を模したペーパーナイフなど、観光客に向けた忍者グッズが所狭しと並べられている。
しかし、それに手を伸ばそうにも、左文字が店に入った途端、地面から生えた槍の格子による一本径が出来てしまったため、届かず目に見るだけになる。
「店のものは触れるんじゃないぞ。店主に無理言って使わせてもらっているのだから」
どうやら天の声もそのことを気にしているらしい。なんとか一矢報いてやりたいが、どうにも触れることができないならば仕方ない。
戻ることも逸れることもできない格子の道を進んでいけば、天井裏へと続いている縄梯子の前まで辿り着く。
―――これを登れというのですか。
明らかに罠が牙向く顎へと足を踏み入れるような所業だが、毒を食らわば皿までと、覚悟を決めて左文字は登る。
そうして登りきった先、天井裏は暗闇だった。小さな明かり窓から漏れる陽の光はあるものの、常人には何も見えない暗さだった。
「そう、見えないよな」
耳元で聞こえた声に驚いたのも束の間、左文字は縄梯子から無理やり引き上げられると、暗闇広がる天井裏に放り出されてしまう。
イッタイどっちがどっちなのか。放り出された拍子に前後不覚になった左文字は、出口さえも解らない状況に立ちすくむ。
唯一見える明かり窓は、天井にあるのみで、そこへ行こうにも手が届かない。
まるで紙袋に詰め込まれた猫のようだと感じる左文字は、追い詰められた獣のように気を張って周りの様子に感覚を張り巡らせる。
先日来た時も入ったが、この屋根裏部屋の空間はからくり屋敷となっており、何処からどんな仕掛けが飛び出してくるのか全く予想がつかない。
しかも、記憶を頼りに対処しようとも、前回とは屋敷の構造からして変わっているらしく、それも役に立ちはしない。
実際に少しでも進むたび、虎バサミが発動したり、上から投網が襲い掛かったりと、明らかに敵意が前の比ではない事に気が付く。
これほどの逆境の中、頼りになるのは自分の直感。そして、反射神経だけだった。
―――イッタイ次は何が来るのでしょう? 上か? 下か? それとも背後からでしょうか?
正に手さぐりで狭い廊下を進む左文字。不意にその手が壁に沈む。
――― ッ!
一瞬の出来事だった。
伝うために体重を預けていた壁が倒れ、支えを失った左文字もつられて倒れ込む。
強かに床へと体を打ち付け、苦悶の声を噛みしめる左文字。だが、直ぐに自分を取り囲む気配に気が付き、素早い動きで身構える。
―――気配が、5つ。
左文字が入り込んだのは、あまりに薄暗く、それでいて広い空間だった。
取り巻く闇があまりに深く、底の知れないこの部屋で、視覚は頼りに成りはしない。
そのため耳を澄ませ、肌で空気を感じ取り、香りの方向を辿って行くと、この暗闇の空間には左文字の他に5人いることに気がつく。
「そういうことは揃い踏みのようですね」
強くは言ってみたものの、左文字に表情に余裕は一切ない。
伸ばした手の指先さえもハッキリと見えないような暗闇で、敵の忍者五人衆に囲まれている。これほど危機的な状況はない。
「フフフ…恐怖が隠しきれていないぞ」
しかも、さらに分が悪いことに、敵の方は左文字の位置を完全捉えているのか、こちらが動き回ってみても、声が真っ直ぐ飛んでくる。
―――どうにかここを抜け出さなければ。
このまま手を拱いていても、ジワジワと嬲り殺しにされるだけ。逸早くこの窮地を抜け出すために辺り構わず触れて回るが、床と壁の感覚があるだけで、出口の様な切れ目は見つけられなかった。
しかし、左文字の手に何かに触れる。これは、と藁にも縋るつもりでそれを掴んだが最後、それは左文字の腕に絡み付いて離れない。
「馬鹿な奴だ。自分から囚われに行くとは」
左文字の腕に絡みついた物。それはどうやら組紐らしい。
何本もの糸を幾重にもより合わせた組紐は、力任せに引っ張っても引き千切れる物ではなく、足掻けば足掻くほどにキツく締まっていく。
それでも悪戦苦闘している左文字だが、それを嘲笑うような忍頭の声がまたしても頭上から響いてくる。
「フハハ、無様だな喰い逃げ屋。ならばそのままコレを食らうがイイ」
忍頭がそう言うと、部屋の奥から何か大きな物が動いてコチラへ近づいてくる気配がする。
ヤバイ、その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間にはもう遅かった。
けたたましい駆動音と共に送り出された風は氷のような冷たさを纏い、目に見えないながらも左文字の肌にぶつかる塊は雪であるとハッキリと解る。
「白馬のスキー場から引っ張ってきた『降雪機』だ。存分に味わえ」
外の豪雪を遥かに上回る人工の吹雪を受けて、左文字は成す術無いまま芯から熱が冷えてゆく。
―――ダメだ、忍者は強すぎる!
そんな思いが脳裏を過ぎった頃には、左文字は雪に押し潰され、一体の氷像と化してしまっていた。
「フム。不細工な氷像が出来たな」
勝ち誇ったように氷漬けになった左文字をシゲシゲと眺める忍頭は、氷の硬さを確かめるように片手でコンコンとノックする。
「ここまで見事に凍ってしまえば、もう逃げられまい」
響いた音に満足した忍頭が、満足したよう安堵の表情を浮かべる。
それに釣られて周りの忍者たちも、張り詰めていた緊張の糸を緩めた。
「さて、後はコレを立会人に見せれば我々の勝利だ。ここまで見事な氷漬け、よもや文句も付くまいよ。誰か、あの玉藻とかいう女性を読んでこい」
「その必要は無いわ」
平忍者たちの何人かが、勇んで飛び上がろうとした矢先。それを静止するかのように暗闇の中から形が浮かび上がる様に、石神井 玉藻が現れた。
気配なく音もなく、この忍者顔負けの登場の仕方にその場にいる忍者たちの誰もが驚愕するが、気を取り直して忍頭が勝ち誇る。
「丁度イイところに来てくださった。特とご覧あれ。見事喰い逃げ屋左文字を捉えて見せたぞ」
居丈高に見栄を切り、左文字の氷像を指さす忍頭に導かれ、玉藻は氷像の前までゆっくり進んでゆく。
このまま立会人玉藻に見届けられてしまえば、左文字の敗北が確定してしまう。
しかし、左文字は文字通り、身動き一つ取れず、手も足も出ない状況であるのだからどうしようもない。
そして、遂に左文字の眼前までやって来た玉藻は、氷像の天辺から足元まで徐に視線を流した。
それから一分ほど眺めていただろうか。若干業を煮やし気味の忍びガシラの方へと振り返った玉藻。その様子に遂に勝利を確信した忍頭に彼女はこう言ったのだった。
「暗くてよく見えないわ」
「―――⁉ いやイヤいや! チョット待て!」
肩透かしを食らって開いた口が塞がらない忍頭だが、事の次第を理解すると、それは無いと食って掛かる。
「そんな見えないからと言って、問題ないだろう⁉ 左文字はちゃんと此処に居るんだ。氷漬けに成って逃げられないのだから」
まさか玉藻が左文字に肩入れしているのではないかと疑心を抱く忍頭だが、そんな意志など関係ないとばかりに玉藻は首を横に振る。
「それは通らない話よ。これだけ暗くては私が本人確認できないじゃない? やっては無いと思うけれども、最悪の場合、替え玉を使っている可能性も有る訳だから」
「そんな馬鹿な事するわけないだろう! もっとよく見ろよ! そうすれば顔だって解るだろう?」
逆に疑われかけたことに気分を逆撫でされた忍頭が、強く玉藻に迫るのだが、対する玉藻は呆れたように、溜息一つ吐いて言う。
「あのね、それは貴方たちが忍者で、薄明りでも大丈夫なように、夜目が効くように訓練を積んでいるから見えるのでしょう? そのアドバンテージを利用して喰い逃げ屋を追い詰めたのでしょうけれども、私も左文字さんと同じように夜目の効かない一般人なのよ。見える訳が無いじゃない」
ここまでハッキリと言われてしまえば、忍頭の口からはグウの音一つ出て来ない。
ならば明かりで照らせばイイと、平忍者たちにライトを持ってくるようにと指示するが、その場にいる誰一人、明かりになる物を持ち合わせていなかった。
「だったら外に運び出せばイイじゃない。これが本当に左文字ならば、後ろめたく無いならば、別に何一つ隠すことは無いのでしょう?」
どうしたものかと考える忍頭に、まるで試すかのような玉藻の言葉が降りかかれば、余計に気に障って自棄になる。
「解ったよ。それで納得するんだろう」
不承不承といった体で、仕方なしに左文字の氷像を店の外まで運び出す忍者たち。
最前までの雪は止み、空が厚い雲に覆われているものの、屋根裏部屋の暗闇から外に出れば目が眩みかけてしまうほど明るく感じる。
「さあ、これで文句はないだろう?」
忍頭も外の眩しさに目を細めながら、啖呵を切るように玉藻に言うと、サッサと検分してくれと、手を振って彼女を促す。
そんな素振りも意に介さず、自分の仕事を楚々として熟すべく、再度左文字の氷像に近づく玉藻。
だが、彼女はふと、その足を止めると、坂の上の方へと目を向けた。
―――何をグズグズしているんだ。
動きを止めた玉藻を見て苛立つ忍頭だが、彼女が坂の上を見た理由が、そちらの方から猛スピードで近付いてくる爆音にあるのだと、気が付いた時にはそれが既に目の前に迫っていた。
けたたましいエンジン音。かき分けた雪は排ガスと混ざって煙り、赤いボディーが景色を切り裂いてゆく。
「スノーモービル⁉ あぶなっ!」
突如として忍者たちの群れに突っ込んでくる赤いスノーモービルに、咄嗟に体を躱した彼らだが、それに跨っている少年の姿を認めて目を丸くする。
―――あれは、左文字の弟子の…⁉。
乗っていたのは確かに拘束していたはずの斉場少年であった。
彼は二人乗りのスノーモービルの後ろ座席に跨っており、振り落とされないように必死でありながらも、決意に満ちた表情で忍者たちを睨みつけている。
それならば、スノーモービルを操っているのは誰なのか? その顔は玉藻にとって見知ったものだった。
「斉場君! 首尾はどうだい?」
斉場少年にそう語りかけたのは、ゴーグルとヘルメットの隙間から除く白髪が寒風に靡く老紳士。
跨るスノーモービルは大型バイクの様でいて、思わず似合って見えてしまう。
「上手くいきました! 辺場教授!」
そんな老紳士の名を読んだ斉場少年が、したり顔を返してやると、辺場教授もサムズアップで返答する。
「イッタイ何がどうなった?」
想定外の出来事が怒涛の如く立て続けに起きたため、頭が処理落ちしかけた忍者たちだが、瞬時に現状を把握して、全員揃って青褪める。
ついさっきまで自分たちの目の前に在った左文字の氷像。それがいつの間にかスノーモービルの上に移動していたからだ。
―――してやられた!
そう思った時にはもう遅い。エンジンを全開まで回したスノービルのテールランプが残像するのが見えるばかりで、既に手の届かない所まで行ってしまっている。
「あらら、仕方がないわね」
そんな風に宛ら他人事の様に言う玉藻。
彼女が氷像を外に運び出せと言ったからこうなったとの考えが口を突いて出そうになる。
しかし、これまでの彼女のことだから、例え言ったところでどうしようも無いと諦めた忍頭は、その場で即座に切り替えて「イイから全力で追い掛けろ!」と檄を飛ばした。
「御意! ―――ッ!」
返答一つで矢の如く逃げ去ろうとするスノーモービルを追いかけようとした忍者だが、一歩踏み出そうとした瞬間に、足の裏に激痛が走り蹲る。
「これは⁉ マキビシ!」
のたうつ忍者の足裏に、そしてスノーモービルの轍の上に、鋭利な金属片が無数に突き刺さる様を見て、忍頭が悔しそうに歯噛みする。
「斉場君、考えたわね。こうなる事を見越してきっと拾っておいたのでしょう」
マキビシを一欠片拾い上げながら、彼の機転を称賛する玉藻。
一方、忍頭は仲間の足からマキビシを引き抜きながら、スノーモービルのテールランプが消えて行った先を睨みつけていた。
「追ってきますよね。アイツ等」
後ろを振り返る斉場少年が不安げに呟くと、「シッカリ捕まっていなさい」と辺馬教授に注意される。
「幾ら忍者が超人だからといって、雪上でスノーモービルに適うはずもないよ。それよりも、サッサと左文字さんを何とかしてやらなければ」
真っ直ぐ前を見ながらも、心配そうに左文字に気をやる辺馬教授の言葉を受けて、斉場少年も氷像をシッカリと抱える。
左文字が氷漬けにされてからそれほどの時間が経っていないとはいえ、このままでは命の危険すら考えられる。
そのために早々に氷を溶かしてやる必要があるが、この空気まで凍りついたような長野では自然解凍など望むべくもない。
だったらどうすればイイのだろうか?
考え倦ねた斉場少年に、辺場教授が「イイ考えがある」という。
「今から向かっている先がその場所なんだ。兎に角、時間が欲しい。アクセルを全開にするから振り落とされないようにね」
そう言って辺場教授がスノーモービルのコンソールを叩いたその瞬間、ウィーリーするほど勢いを増した赤いマシンが雪上を駆け抜けていった。
「着いたぞ。ここだ」
スピードに酔っ払い、目が回っている斉場少年を叩き起こした辺場教授。二人が辿り着いたのは、町外れのとある施設だった。
「裾花峡…温泉…?」
斉場少年が回る眼差しで読んだ通り、看板には温泉施設と書かれている。
「そうとも。長野は温泉が至るところで湧き出ているからね。こういった公共浴場も街中に在ったりするんだよ」
思えば自分達が宿泊している戸倉上山田温泉もまたその一つであった。
「つまり、ここで師匠の氷を溶かせばイイという事ですね?」
理解を示した斉場少年に、辺場教授が「その通り」と頷く。
「ささ、早く左文字さんを連れ込むぞ。グズグズしていたら追いつかれる」
いくら巻岸で足止めを行い、スノーモービルが速度において分があるとは言え、轍と言う雪道に目立つ跡を残してきている。ソレを辿ってゆきさえすれば、追跡なんて簡単に出来てしまう。
だから、追いつかれることは避けられないのなら、ほんの僅かな時間すら無駄にはできないのだ。
善は急げと、エントランスで3人分の料金を払い、いざ風呂場へと乗り込もうとする。
しかし、急いでいるにも関わらず、斉場少年も辺馬教授も風呂場の扉の前で足を止めた。
「…素朴に疑問に思ったのですが」
「私も多分同じことを考えている」
「師匠って、男湯ですか? 女湯ですか?」
「それは私も知らないよ」
男なのか女なのか、どちらかよく解らない左文字をイッタイどちらのお湯に着ければいいのだろうか?
一瞬躊躇う二人だが、直ぐさまその足は男湯の方へと向く。
「よくよく考えてみたら、私たちが女湯には入れないんだよね」
「マッタクその通りでした。それに師匠は服を着ているから大丈夫でしょう」
服を着たまま、その上に謎の氷像を抱えた二人が入ってきたことに驚く客を尻目に、斉場少年と辺馬教授は左文字を湯船へと投げ入れた。
「チョット! 何してくれてんだ」「温泉が薄まるだろうが!」「飛び込みは禁止だって親に習わなかったのか?」
二人の暴挙に客たちも文句をぶつけてくるものの、事はそれどころでは無いのだと、意に介さず二人は湯船の左文字を見守った。
そしてそのまま数分の時間が経過して、溶けた氷の中から無事に左文字が浮かび上がってくる。
「…何ですかこの水。随分と温いですね」
状況が飲み込めず、周りの様子を伺って、素裸のオジさんたちに囲まれていることに気がついて左文字は狼狽える。
「師匠! 良かった、生き返ったのですね!」
左文字が復活した喜びに、形振り構わず湯船に飛び込んだ斉場少年が抱きついてくる。
「そうですか。どうやら助けられたみたいですね」
「ああ、大変だったんだよ」
流石に紳士な辺馬教授は湯船には入ってこないが、それでも左文字を気遣う心は洗い場にいても伝わってくる。
「それで、現状はどうなっていますか?」
和む心も束の間に、真剣な面持ちに戻った左文字は、事の経緯を二人から聞いて少し思案した顔になる。
「成程、現状は芳しくないようですね」
湯船から上がり、体を乾かす左文字は余裕のように見えながら、不安げなセリフを口にする。
「それにもうすぐ忍者がここを嗅ぎ付けてやって来るはずだ。ノンビリしていられないぞ」
その通り。三人が温泉施設に入ってから、それなりの時間が経過している。
忍者の足ならば既に辿り着いていても可笑しくはない。
「しかし、イッタイどうすればイイのでしょう? いくら師匠であっても、あれほどの強敵、逃げきれないと思うのですが」
不安を口にする斉場少年だが、その気持ちは左文字もよく理解できる。
左文字自身全力を以て逃げを打っていたのだが、それでも忍者には先回りされて追い詰められてしまったのだ。
何の策もなく無闇に飛び出していったのなら、きっとさっきの二の舞と成ってしまうことだろう。
「でも、ちょっとイイ案が思い付いたんですよ。私」
ところが、左文字にはこの状況を覆す妙案があるという。
「いや、何。『忍者大門』の屋根裏の暗闇で、氷漬けにされる一瞬に思いついたのですが、それを実行しようと思いましてね」
自信ありげな左文字の様子に、興味を惹かれた二人が耳を傾け、左文字もそれに応えて掻い摘んだ説明をする。
「成程、相手が自身に利があると思っていることこそ隙だという事だね」
「その通りです。教授」
大いに納得し、頷く辺馬教授に左文字も嬉しそうに合いの手を打つ。
「だったら、そこまで行かないと。でもどうやって行きます?」
「ならばこれを使いな」
左文字の秘策を叶えるためには、とある場所へと移動しなくてはならない。
しかし、いま外に飛び出せば、必ず忍者たちが襲いかかってくるだろう。
果たしてそれを躱しきれるだろうか?
不安を口にする斉場少年に、辺場教授がスノーモービルのキーを手渡す。
「スノーモービルに乗っていけば、忍者の追跡も振り払えるだろう。そうすれば安全に辿り着ける」
「けれども、アレって二人乗りが限度でしたよね? さっきは師匠を荷物としていたからな何とか成りましたが。今度はどうするのです?」
「それは喰い逃げ屋の二人が行けばイイんじゃないかな? 私は確かに手を貸したけれども、根っこの部分は部外者だからね。まあ、折角『裾花峡温泉』まできたのだから、一風呂浴びてノンビリしているよ」
ここで別れを切り出す辺馬教授に「私もそうしたいですね」と左文字が言う。
「師匠が逃げなきゃ誰が逃げるんですか⁉ サッサと行かないと本当に追いつかれてしまいますよ」
「マッタク、冗談ですって…」
冗談にしても呑気なことを左文字の背中を押して外へ出そうとする斉場少年。
その背中を呼び止めた辺場教授が「序にこれも渡しておこう」とカバンから大量の赤い包み紙を取り出した。
「これって、確か教授の御土産じゃないですか?」
「そう、それ。だいぶ買い込んだから余っていてね。さっき聞いた作戦にコレを加えれば、きっと更に効果的だと思うんだ」
「おぉ…エグい事思いつきますね」
渡された物を確認した左文字が、顰め面をしてみせるが、辺馬教授は笑って「何を今更」と払いのける。
「アナタはどんなに着飾ったところで外道なのだから、特にこれを使うことに躊躇いもないだろう?」
「その通りなんですけどね」
先程までの怪訝な表情は何処へやら。辺馬教授に合わせて笑う左文字の様子を、斉場少年が引き気味で眺めている。
「さあ、張り切って行きなさい」
テンションが正反対の二人の背中を押し出した辺馬教授は、手を振りながら風呂場の扉の奥へと消えてゆく。
押し出された勢いのまま左文字と斉場少年が表に出ると、丁度の到着した戸隠忍者五人衆と駐車場で鉢合わせる。
「やっ! 喰い逃げ屋が蘇っている」
氷漬けにして勝利まで確信していた忍頭は、左文字が自由に動いていることに憤りのような驚きを感じた。
「皆様随分と余裕あるお越しで。それでは、さようなら」
しかし、時既に遅し。どんなに忍者たちが俊敏であったとしても、左文字たちの方がスノーモービルに近く、駆け寄る間もなくアクセル全開で、ゴーグルとメットを身に付けた喰い逃げ屋二人組はその場を走り去ってしまう。
「おのれぇ! 追え! 追うんだ! 今度は絶対逃がすんじゃない」
煽るような左文字の捨て台詞に、怒髪天を突く勢いの怒りを覚えた忍頭が、同じく怒りを顕にした忍者たち後ともに全力で左文字を追いかける。
「ちゃんと追ってきていますね」
「イイ感じですね」
後ろを振り返って忍者の様子を伝える斉場少年に、左文字が計画通りだと頷いて、更にスノーモービルのスピードを上げる。
やはり機械と人の足。どんなに全力で追いかけたとしても、その差はジワジワと開いてゆく。
それでもスノーモービルに追い縋るのは、流石忍者と言うべきか。
左文字が目的地に到着してから然程の合間も開けずに到着した忍者たちは、目の前に佇む巨大な門を見上げた。
「善光寺…」
その山門の荘厳さに昂ぶっていた感情が落ち着いた忍者たちは、門の奥へと駆けて行く『㊧の印半纏』が見える。
左文字はイッタイ何でこんな所に逃げ込んでいるのか?
不思議に思う所ではあるものの、逃げる左文字の後ろ姿が見えなくなってしまう方が余程問題である。
そうして、本堂の中まで追いかけた忍者たちが目にしたのは、地下の『胎内巡り』へと続く階段を下りる印半纏。
「隠れてやり過ごすつもりだったのか?」
しかし、そこから先は袋小路。入口と出口を抑えてしまえば逃げられない。
「お前たちは出口から。俺たちは入り口から行く。それと、同士討ちになると拙いから、合言葉を決めておくぞ」
そうして入口と出口、それぞれの階段から忍者が『胎内巡り』の地下通路へと左文字を追いかけてゆく。
地下通路の中は一度角を曲がってしまうと光の全く届かない、無限にも暗闇が広がっている。
そう、全くの暗闇。一条の光すら差し込まない黒の一面が其処を満たしている。
幾ら夜目に成れる訓練を積んだ忍者であっても、これには目を頼ることができず、壁の感覚のみを頼りに通路を伝ってゆけば、前の方から人の気配が近づいてくる。
「…山ッ」
そして気配が目の前まで迫る。果たしてそれが左文字なのか? それとも反対から来た忍者なのか?
その問いかけも兼ねての合言葉に、相手は「川ッ」と返答する。
「お前達だったか…。そっちで喰い逃げ屋は見つかったのか?」
「いいえ。こちらには。そちらも居なかったのですか?」
挟み撃ちの形にしたというのに、先に潜り込んだはずの左文字を捉えることが出来なかったのはどういう事なのか?
一瞬不思議に思うものの「そうなれば」と可能性は一つに絞られる。
そう、『極楽の錠前』のその扉である。
善光寺の『胎内巡り』。その地下通路には一箇所だけ壁に窪みがあり、その窪みには扉が設けられている。
その扉には『極楽の錠前』と呼ばれる鍵が掛けられており、その錠前に触れることができれば極楽行きが約束されるとの謂れがある。
このような地下通路の一本道で、挟み撃ちをしたのなら、逃げられる場所は唯一つ。
「急げ! まだそこに隠れているはずだ」
そうと解れば一目散に、忍者たちが扉の前まで取って返す。
そして、壁伝いに扉の前までやって来た忍者たちが、その周りを囲うように陣取って、何者も抜け出す隙がないように構える。
扉の前には人の気配が無い。ならば扉の奥なのか。
「行くぞ…」
これで大詰めだと、意を決して『極楽の錠前』に手を掛ける忍頭。そして、力を込めて錠前を引っ張った。
その瞬間。ポンッ! と小さな破裂音がしたかと思えばその次に、目に刺すような刺激が忍者たちを襲い出す。
「ぅ…あああああぁぁぁああぁ!! 目がぁぁッ! 痛ッ! 焼けッ!」
「ゲホッゲホッ!! 喉がァ… ぁあ!」
耐え難い目と喉の苦痛にのたうち回るのは忍頭だけでなく、周りを取り囲んでいた平忍者たちも同様であった。
そんな中、この空間で平気なのか、一人だけ忍者の間を避けて出口へ向かう気配がある。
そうして、その気配は地上の本堂まで出てくると、近くにあったベニヤ板で入口を塞いでしまった。
「上手くいったようですね。師匠」
同じように入口側をベニヤ板で塞ぎ終わった斉場少年が駆け寄ってきて、振り返った左文字は顔を覆っていたゴーグルとマスクを取り払う。
「流石に賭けではありましたが、結果オーライですね」
一息吐いて胸を撫で下ろす左文字だが、それに混じって何発かの咳をする。
「ヤッパリ防御はしていましたが、それでもノーダメージとはいきませんね」
左文字は咽び、目尻に涙を浮かべながら、手の中の『唐辛子』と書かれた赤い紙袋に目をやった。
「流石は『八幡屋礒五郎』。ほんのチョットでココまで効く」
「それって、さっき辺場教授から渡された唐辛子ですよね。それを目潰しに使うなんて…。正直ドン引きです」
食べ物を非人道的な兵器として使う左文字に嫌悪感を明示する斉場少年に、左文字もバツが悪そうにする。
「けれども、こうでもしなければ、忍者は倒せませんでした。勿論悪いと思いますけども、私は既にこの手の汚れた外道です故」
だから、良い子の斉場少年は真似してはダメだよと、注意を込めて教え諭す。
「ですが、忍者たちに気付かれなくて本当に良かったですね。近付かれなければ、上手くいかなかったでしょうし」
これ以上、唐辛子のことに突っ込めば、師匠の沽券に関わってくる。そう感じた斉場少年が話題を変えると、左文字も咳払い一つして居住まいを正す。
「確かに、忍者達は夜目が効きますから、暗闇での戦いは有利です」
「それで『忍者大門』では師匠が遅れを取ったわけですよね?」
「その通り。ですが、それは薄明かりの中の話。実際にあの屋根裏部屋も真っ暗というわけではなく、小さな明り窓があったから、ほんの少し薄暗い空間が出来ていたわけです」
『忍者大門』の屋根裏部屋は表と比べて暗い空間ではあったのだが、それでも時間を置き、目を慣らしさえすれば、漸く周りの様子を見ることが出来るくらいの明るさはあったのだ。
「ですが、この善光寺の『胎内巡り』は混じり気の無い本物の暗闇です。目に光が少しも入らない空間ならば、どんなに夜目が効こうとも、どんなに訓練を積んだとしても、視覚に頼る事は出来ないという話です」
真の暗闇であるならば、食い逃げ屋も忍者も平等である。視覚情報の全てを奪われ、残った4つの感覚だけで世界を捉えなければならない。
そうなれば、感覚の鋭い左文字の方にも分があるという寸法である。
あとは唐辛子の爆弾が炸裂すればイイ。そうして強敵『戸隠忍軍五人衆』は一巻の終わりと成ったのだ。
「なるほど、無茶苦茶ですね」
懇切丁寧に噛み砕いて説明してもらった斉場少年は、改めて左文字の卑劣極まりないやり口に素直な感想が口を吐いて出てしまう。
「その台詞は聞き飽きましたよ」
そして、自らを外道であると弁える左文字は、斉場少年の心根に触れても、眉の一つも動かさずにそう一笑に伏してしまった。
「さて、これで大きな障害は取り除けましたし、後は駅まで一直線ですね」
左文字がその目で見据える先、遥か遠くその先に今回のゴールである長野駅がある。
ここに辿り着いて、電車に乗り込めば、喰い逃げ屋の勝利となる。
今まで忍者の執拗な妨害にあってきたため、長野駅への道路は困難を極めていたのだが、それさえ無ければどうということもない。
なにせ、善光寺中央道りは駅と善光寺とを繋ぐ真っ直ぐで緩やかな坂道。これほど走るに容易い道はない。
「それに、スノーモービルもありますからね。仮に走って追いかけてきたとしても、追いつけ無いでしょう」
既に勝利を確信し、余裕綽々といった様子の左文字は、スノーモービルに跨って、ブロロと一つエンジンを嘶かせる。
「まあ、大丈夫だとは思いますよ。蕎麦屋の店員たちも僕と一緒に教授に救ってもらった研究生の皆さんが抑えているようですし。邪魔者は居ない筈です」
斉場少年に至っても、安心しきっているようで、以降は動画の撮影に専念するべく、ここで左文字と別行動を取るという。
「それではお気を付けて。ご武運を」
斉場少年の言葉に見送られて、左文字はスノーモービルを走らせる。
最前まで止んでいた雪が再び降り始めた空模様。白い天幕を切り裂くように二色のライトを前後に光らせて、赤いマシンが宛ら吹き荒ぶ風のように、長野駅へと続く緩い下り坂を走り抜けてゆく。
―――静かですね。それに更に積もってきました。
降り積もった雪が音を吸い込んでしまうため。そして、この荒れた天気の平日に表に出る人が少ないため、街全体を凍ってしまったかのような静けさが包んでいる。
それ故、左文字の耳に届くのは、その身で切る風の音と、スノーモービルのエンジン音のみである。
…である、筈であった。
―――ザッ…。
その一瞬、今まで左文字が耳にしていなかった音が聞こえてくる。
―――ザッ ザッ…。
空耳かと思ったそれは次第に近づいて、ハッキリとその輪郭を顕にしてくる。
―――ザッ ザッ ザッ ザッ!
その音が幻聴でも思い込みでもなく、真横まで迫ったその時に、漸く音の主をその目に捉えた左文字は、声も出ず、思わず息を飲んでしまった。
蕎麦屋がスキーで併走している。
思いもしなかった現実に、思わず二度見をしてしまった左文字は、雪道にハンドルを取られて事故りそうになる。
「そんな!? 時速60キロですよ!」
「雪国のウィンタースポーツを甘く見るな!」
この高速の世界に機械の力を借りず生身の人間が乗り込んでくる。
やはり蕎麦屋『カタクナ』店主も只者ではなかったのだ。
しかし負けてなるものか。意地を見せる左文字がアクセルを全開に吹かし、これに店主が負けじと追いすがる。
数百メートルに及ぶデッドヒート。一直線のその道を直滑降に突き進む二つの影が、残像のみをその場に残して過ぎ去ってゆく。
きっとその影をハッキリと捉えられるのは走り抜ける二人、そのお互いのみだろう。
だからこそ逃げる左文字をシッカリその目に捉えていた店主は、意を決してスピードを載せて踊りかかった。
「⁉」
丁度長野駅前ロータリーに差し掛かった辺りだった。不意に店主に飛び掛られた左文字は、体を躱す事等叶わず、そのままバランスを失って、横転衝突してしまう。
―――う、うぅ…。どうなってしまったのでしょうか?
あまりの事が一気に起こり、何が何やら解らないまま、左文字は地面に突っ伏して動けないでいる。
衝撃で頭が空っぽになる。打ち付けた体が痛みで動かない。
―――腕が…。
足は立ち上がることができても、振る腕がない左文字は、ヨタヨタと覚束無い足取りで、それでも駅へ向かって足を進める。
視界の端に煙を上げるスノーモービルが入り込むが、それには全く目もくれず、一心不乱に駅を目指す。
そして、なんとか駅前の階段の下まで辿り着いた左文字だが、階段の上から伸びてくる影に気が付いた。
左文字が影を追って見上げると、階段の上、そこに『アクタガ』の店主が仁王立ちをして待ち構えている。
しかも拙い事に満身創痍の左文字とは対照的に、傷一つない店主は万全の状態で居るのだから、状況は絶望的だった。
―――ああ、これは厳しいかもしれません。
流石の左文字も思わず苦笑いしてしまう。
ここまで頑張ってきたのに。かなり無茶苦茶やったのに。様々な手を尽くしてきたのに。十年越しのリベンジさえも、あと一歩届かずに、左文字は再び蕎麦屋によって苦杯を舐めさせられようとしている。
―――それは、ヤッパリ嫌ですね。
言葉にしたのか、それとも思っただけなのか。左文字はその言葉を胸に、ユックリと、一段ずつ踏みしめるように階段を上ってゆく。
―――登ってくるのか…。
それを見下げていた店主が、相手の状況を推し量りながらも、真っ向こちらにやって来る左文字に驚いていた。
あんな立っていることも侭成らない様な状態で、それでもこちらにやって来る。
イッタイ何が左文字をそこまで突き動かしているのだろうか? 執念めいたその前進に、店主は薄ら寒ささえ感じている。
それでも状況は、地の利は自分にある。これは勝ったなと思っている。
左文字は不安定な階段の上、店主は階段を登りきった先の踊り場に立っている。
逃げるにも避けるにも不自由な左文字を捉えることは、店主にとって容易いことで、後はどうやって彼を拘束したものか、手持ちの道具で何とかなるか。そのくらいしか不安要素がなかった。
だから、左文字があと数段先に迫ったとしても、特段店主は慌てるような素振りは見せなかった。
「ご主人? 『粋狂』とは何だと思います?」
突如登る足を止め、唐突な質問を投げかけてくる左文字に、店主は改めて警戒の色を顕にする。
「何なんだ? その質問は。イッタイ何の関係がある?」
「解りますか? イイから。その意味が」
店主の反問にも耳を貸さず、只管に左文字は粋狂について問い質す。
「私はこの喰い逃げ屋という職業柄、『粋狂』とは切っても切れない関係にありましてね。よく人から言われるのですよ。だから、常に心に秘めているのですよ」
「…知らないぞ、そんな事。普通、何か珍妙なことをしている時とか、もの好きとかに使う言葉じゃないのか?」
それこそ左文字のような喰い逃げ屋には似合いの言葉だろう。
だが、その店主の返答は左文字にとって望んでいたモノでは無かったらしく、落胆したような素振りを見せる。
「私はその言葉の意味を読んで字の如く『粋がる事に狂うこと』だと教わりました」
その言葉とともに、噛み締めるような一歩を左文字が踏み出す。
「どんなに辛くあったとしても、どんなに苦しくあったとしても、両の足で踏ん張って、歯を食いしばって、強がって、それこそ狂い果てるほどに粋がる事だと教わったのです」
また一歩、階段を上ってくる左文字。その気配に圧倒される店主は、自分が有利な立場であるにも拘らず、足が竦んで後ずさる。
一歩々々、また一歩。階段を登る左文字と店主との差は徐々に縮まってゆき、もはや数段を残すのみとなる。
それこそ手を伸ばせば左文字に手が届くほどの距離にいる。文字通り勝利を掴む状況に店主はなっている。
しかし、それでも店主は動けなかった。気持ちで既に押されているのだ。
左文字が手負いの虎であったとしても虎は虎。窮鼠が猫を噛むのなら、追い詰められた虎がどれほどの力を示すのか?
迂闊に手を出せば食い千切られる。背を向けてしまえば逃げられる。
先程まで心にあった優越感は何処へやら。追い詰められたのは左文字ではなく、自分の方だと知った時にはもう遅い。
「だから、私が言えることは―――」
言葉を言い終わるか終わらないか。その瞬間に階下で煙を上げていたスノーモービルが音を立てて爆発する。
その爆音に店主が気を取られたその一瞬、数段残して飛び上がった左文字が、勢いそのままに店主に掴みかかる。
「目一杯、歯を食いしばって下さい。それだけです」
そして、気後れした上に咄嗟のことで、全く為すが侭に成ってしまった店主を掴んだまま、左文字は自分の背後へと、階段側へと倒れこんだ。
縺れ合う二人は一度も止まることなく、何度も段差に身を打ち付けながら階下へと転げ落ちてゆく。
そして、そのまま降り積もった雪の中へ突っ込むと、跳ね飛ばされた雪がまるで煙の様に宙へと舞い上がる。
数秒の静寂の後に、雪の一部が崩れ落ちる。その中から零れ落ちてきたのは、満身創痍の左文字であった。
その後に続く気配はない。左文字ただ一人がフラフラと立ち上がって改札を目指す。
ただそれだけをするのに、どのくらいの時間を要しただろうか。数本の電車が出発した後に漸くホームへと辿り着いた左文字は、そこに玉藻の姿を見つける。
「やっと来たわね」
待ち草臥れたと言いたげに、ベンチから腰を上げた玉藻が左文字の方へとやって来る。
そして、彼女が目の前まで来た途端、左文字は糸が切れた操り人形のように彼女へともたれ掛かった。
「チョット…まだ終わりじゃないでしょう?」
今にも力尽きてしまいそうな左文字を抱え起こす玉藻は、奮起するように投げかける。
「私も解ってはいるのですが、どうにも今回はズタボロでして」
随分と手酷くやられたものだと、自分の身なりを鑑みて、左文字が苦く笑っている。
「マッタク、アナタたち喰い逃げ屋という生き物は相変わらず碌なものじゃないわね」
呆れたように言い切る玉藻だが、その言葉の根っ子には、左文字を気遣う心根が感じられる。
「イイ事、一つ忠告しておくわ。アナタはどんなに粋がっても、何れは身を滅ぼすことになるわよ。『粋が身を食う』とも言うのだから」
「マッタク以てその通りですね」
言われて反論できないのだから、左文字も思わず笑ってしまう。
「でも、それを突き通せなければ、喰い逃げ屋なんてやっていられないですよ」
ボロボロの体に鞭打ってベンチから立ち上がった左文字は、フラフラと定まらない足取りでホームに停車している電車へと向かう。
「本当に自分でも何をやっているのかと思います。けれども、これが喰い逃げ屋なのです。粋狂です。粋がる事に狂っています。粋が我が身を喰らうなら、粋ごと我が身を喰らうまで。そういう心意気なのですよ」
「本当にアナタたちは狂っているわね」
「よく言われます」
ニコリと笑みを返した、玉藻に二度と振り返らず歩んでゆく。
「今回の喰い逃げ屋はアナタの勝ちよ。正真正銘のおバカさん」
その背中にそう声を賭けた玉藻も、もはや此処に居る理由もないと、ホームから去っていく。
―――ああ、良かった。漸く勝てたのか。
心の中を安堵で満たした左文字は、電車の中に一歩踏み入れたその瞬間に完全に力尽きて倒れ込む。
あまりの光景に乗客はもとより乗務員さんまでも慌てた様子で左文字の周りに駆け寄る。
しかし、周りの様子など既に遠くの事のように感じる左文字は、只々今はこの沈むような感覚に身を委ねていたく、ユックリと瞼を閉じたのだった。




