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喰い逃げ屋 左文字 - 2  作者: 楠木 陽仁
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 それから数日後。

 冬本番の長野は例外なく、天幕を突き破って落ちてきたような豪雪に見舞われて、一面の銀景色と化している。

 屋根も庭も並木さえも、白く積もった雪に彩られ、道は雪かきしてあるものの、それでも歩むに辛い道。

 にも関わらず、長野駅から善光寺までを直線で結ぶ中央通りは、休日も相まって何時にも増して人で溢れかえっている。

 しかも今はお昼時、どの店もお腹を空かせた観光客で賑わっており、人気店ともなれば行列必至の様相を呈している。

 そして蕎麦屋『アクタガ』もご他聞に漏れず人気店であり、書き入れ時ともなれば店の前に黒山の人集が出来る。

 しかし、今日の人集は輪をかけて盛大なものであった。

 遠巻きに見ると集まった人の頭髪が、黒い鞠のように膨れ上がって見える。

 それらを構成する人々の視線の先を辿って行くと、カウンターにドッシリと座り込み腕組みしている若者へと結ばれる。

 その若者はトレーナーの上に『㊧(まるにひだり)』と染め抜かれた藍の印半纏を羽織っている。

 そんなものを背負うのは左文字を置いて他にない。

「やあ、やってるね」

 精神統一をするように、カウンターから微動だにせず目を伏せていた左文字だが、投げ掛けられた聞き覚えのある声に、徐に瞼を開く。

「辺場教授。居らしていたのですか」

 渦を巻くほどごった返す人垣を分けいって出てきたのは、額に汗した辺場教授だった。

「いやぁ、急に君が食い逃げ屋をやるなんて言うからね。居ても立っても居られずに、早々に調査を切り上げて駆けつけた次第だよ」

「すみません。無理言って滞在期間を伸ばして頂いて」

「いや、こちらも色々やる事があったからね。何せ例の落書きで関係機関への連絡に右往左往しているからさ」

 冗談なのか脅しなのか。笑ってみせるその顔の瞳の奥に笑みは無い。

そんな辺馬教授の一言に左文字は二の句が告げなくなる。

「ん? それは?」

 二の句が継げない序に左文字が目を伏せると、辺場教授が赤い紙袋を手に提げているのが目に入る。

「ああ、これか? 東京に帰った時のお土産だよ。どうやらこれが名物らしいからね」

 嬉しそうに語る辺場教授だが、関係機関への連絡でてんてこ舞いに在ったのであれば、何処でそんなお土産を買う時間を得たのか。それを疑問に思う左文字だが、口に出すのはヤヤコシイので止めておく。

「ところで、キミのお弟子さんは何をやっているのかい?」

 せっかく統一した精神を乱され不満げな左文字を他所に、辺馬教授は斉場少年を気にかける。

「ええ、ここ何日かあんな調子なんですよ」

 左文字も見つめるその先に、斉場少年が不貞寝を決め込んでいる。

 店の中、しかも床の上だというのにお構いなし。その図々しいまでの不貞腐れように、辺馬教授でなくとも気になって仕方ない。

「こら、斉場君。そんな所に寝ていないで、こっちに来なさい」

 これを見かねた左文字が声をかけるも、斉場少年は首を(ねじ)って視線を返すのみである。

「イイんです…。暫く放っておいてください」

「そうは言っても、周りの目がありますから、シャンとしてくれないと困るのですよ」

 無理やりにでも起こそうとする左文字だが、斉場少年はその場に糊で貼り付けてしまったかのように頑として動かない。

「僕は失意のどん底にあるのです。だから動きたくないのです」

「イッタイ何があったんだい?」

 (とろ)けて床と一体化してしまったかのように、彼の輪郭がアヤフヤに成ってしまうほどの落ち込みようの斉場少年を、見かねて辺馬教授が左文字に問いかける。

「どうにも、私の修行が気に入らなかったみたいで、拗ねているのです」

 弟子のあまりの醜態に、落胆したように溜息を漏らす左文字だが、落胆の度合いならば斉場少年は負けていない。

「だって! 師匠が修行を付けてくれるというのだから、きっと喰い逃げ屋の修行なのだと思うでしょう! それなのに一週間以上ずっと違うことばかりさせられて、期待していた分もう気が滅入ってしまいますよ!」

「あ、元気が出たみたいですね」

 憤りの力によるものか、先程までテンションの最底辺にあった斉場少年が食ってかかるのを見て、左文字が安心したように笑む。

「さぁさぁ、修行の成果を無駄にしないためにも首尾良く頼みますよ。ほら、早く行った行った」

 まるで追い払うように左文字は斉場少年を急き立てる。

「うぅぅ…。納得がいかない」

 不満を(あらわ)にしながらも、逆らうことを考えない斉場少年は、そのまま店の外へ出て何処かへ行ってしまった。

「イイのかい? 彼に傍に居て貰わなくて」

 仲間がまるで仲違いの様に居なくなってしまったことに心配になる辺場教授だが、左文字はこれでイイと言う。

 きっと左文字にも考えが有るのだろう。そう思うことにした辺場教授がスマホを開くと、通信アプリに既読の文字は見られない。

 ―――こちらもこちらで音沙汰なしか。

 辺場教授の研究室に通う学生たちが、喰い逃げ屋の、とりわけ左文字のファンであることは周知の事実である。

 そのため、教授は全員に今日この場で左文字が喰い逃げ屋を行うことを連絡したのだ。

辺場教授としては、彼らが喜び勇んで駆けつけることだろうと思っていたのだが、どういう訳だか返事はおろか、チャットを読んですらいないようだ。

 不思議に思って思い返してみるが、左文字の様に自分が生徒たちを失望させるようなことをした覚えが無い。

 ―――だったらどう言う事だろう。

「そろそろ時間だけれども、イイかしら?」

 疑問を浮かべた思考の隙を付く様に、左文字と辺場教授の背後から、聞き覚えのある女性の声が掛けられる。

「どうも、お玉さん。遠い所をお疲れ様です」

 左文字が一つ礼を言うと、玉藻は「構わないわ」と素気無く応える。

「これが私の仕事だもの。呼ばれたのなら昼夜を問わず駆けつけるわ」

マッタク彼女には頭が上がらない。これを無償でやるのだから、彼女もかなり物好きである。

「さて、これで役者が揃ったようね」

 そう言う玉藻の視線を追うと、厨房の奥から『アクタガ』の店主が糸目をさらに細くした笑顔で現れる。

「どうも、本日は良くお出で下さいました」

 恭しく振る舞う店主だが、湧き上がる闘志は隠しきれない。

 つまりは既に臨戦態勢という事だ。

「急な申し出でしたが、引き受けて下さってありがとうございます」

 これに左文字も丁寧に返すが、店主を見据える眼差しに隙が無い。

 いつ何時、それこそ今この瞬間に戦いが開始されたとしても、左文字は戦えるように構えている。

 10年の時を越え二人の間に再び火花が散っている。

「おお! 手に汗握る睨み合いだ」「左文字がリベンジを果たすのか⁉ それとも歴史は繰り返すのか⁉」「早く喰い逃げ屋を見せてくれよ!」

 傍から見ても白熱する展開に、ギャラリーたちも声を上げて呷ってくる。

「しかし、凄いな。喰い逃げ屋をやる事って連絡はかなり急だったのに、この人の集まり様は」

 大盛況の様相を呈する『アクタガ』の店内外に感心する辺場教授だが、「当然よ」と玉藻は涼しい顔で言う。

「それだけ『喰い逃げ屋』は人気のスポーツだという事なのよ。それも左文字さんのファンならば『アクタガ』さんとの因縁は有名でしょうしね」

「ああ、確か以前、左文字さんはここで負けているんだっけ?」

「いやな事を思い出させないで下さいよ…」

 苦虫を噛んだような顔をする左文字とは対照的に、得意満面な笑みを浮かべる店主が嬉しそうにする。

「そうなのです。あの一戦が有った後、当店は『左文字に喰い逃げ屋で勝利した店』として有名に成りましてね。ブームが盛り上がるにつれてお客様の数も鰻登りなのですよ」

 正に笑いが止まらないと言った様子の店主に、左文字はさらに渋い顔を向ける。

「でもそれって他の喰い逃げ屋から挑まれるんじゃないのかな? それだけ目立つ看板を掲げているのだから、道場破りの様に」

 辺場教授が指摘した様に、喰い逃げ屋の競技人口が増加するにつれて、その様に腕に覚えのある猛者が集まってくるのは請け合いだろう。

「いえいえ、左文字さんに勝利した当店が、そんな輩に負けるとでも?」

 しかし、店主はそんな疑問も愚問と切り捨てるように、自身に満ちた一言を返す。

 それもそうだろう。喰い逃げ屋の名手である左文字を完封したのだから、最近始めた有象無象に後れを取るはずがない。

 そして、そうあるべきことが勝者と成った者のせめてもの礼儀だと言うように、毅然とした態度の店主は左文字を見据えている。

「だとすれば、それに勝つのが私の役目ですね」

「フフフ…また拍を付けて下さるのですか?」

 談笑の中に張り詰める空気。いよいよ以てここに来て、二人の戦意が臨界点に達する寸前だった。

「そろそろ(あお)り合いはイイのでは? 座も最高潮に温まっているみたいだし」

 開幕前から凌ぎを削る二人を仕切る様に、間に割って入った玉藻が左右を交互に見返している。

「そうだそうだ。速く始めてくれ!」「待ち草臥れているのだぞ!」「待ってる間に買った蕎麦饅頭が旨いぞ!」

 観衆たちが息を合わせて手拍子で急き立てるほどに、ボルテージが上がりきったその中で、玉藻が一つ息を吸い、大音声で口上を述べる。

「さて、ここに三役揃いまして、喰い逃げ屋を執り行う運びと成りました。各々方、相違ありませんね? 異論は御座いませんね?」

「「大丈夫です」」

 声を揃えて返答する左文字と店主。それに合わせて観衆たちもワァっと湧き上がる。

「では、ルール確認です。十年前と同じです。喰い逃げ屋が店から提供される料理を全て平らげて、走って長野駅まで逃げ切れば、食い逃げ屋の勝ちとします。間違いありませんか?」

「問題ありません。逃げる範囲も善光寺中央通りから100m県内ならば縦横無尽に自由でしたね?」

 あの一戦を思い返すように逃走範囲を確認する左文字に、玉藻は「正解よ」と自信を持って頷いて見せる。

「チョット待って下さいな」

 するとここでどういう訳か、店主が言葉を挟んでくる。

「その、逃げる範囲ですが、こちらとしては無制限でもイイですよ」

「…何ですって?」

 それはあまりにも挑発的な、強気過ぎる店主の一言であった。

 逃げる範囲に制限を設けないという事は、喰い逃げ屋にとって圧倒的なアドバンテージを授けるという事。

 それを知りながら敵に塩を送るような真似をするのは、よほどの自信の表れか。

「私に絶対に逃げを打たせない。そう言う解釈でイイのでしょうか?」

 これには左文字も心穏やかでなく、問い詰める様な口調となるが、店主は余裕の表情を崩すことなく「お構いなく」と言うのみであった。

 ここまで言われて逃げなければ左文字の名が廃るもの。そんな意気込みも新たに左文字は自身の確認を終えたのだった。

「次に追っ手組のご主人。前回と同じく提供する料理は、ご自慢の大食いメニュー『チャレンジ蕎麦』で、制限時間は通常通りの一時間で宜しいでしょうか?」

 続いて追っ手組である蕎麦屋『アクタガ』の条件確認が行われる。

 玉藻に問い掛けられる店主だが、これには随分と慣れた様子で受け答え、10年前とは段違いの、歴戦の風格を纏っている。

「その通り。そして、当店の勝利条件は左文字さんを料理でギブアップさせるか、逃げた左文字さんを拘束することでしたよね?」

 自信満々に再確認する店長に、玉藻は「間違い無いわ」と答えてくれる。

「以上、この内容で双方ともに異論が無い様であれば、目出度く合意を得たと見ますが、如何でしょうか?」

「「異議なしです」」

「承りました。それではこれより『喰い逃げ屋』左文字と蕎麦屋『アクタガ』の食い逃げや真剣勝負を執り行います!」

 沸き立つ声援に送られて、左文字と店主は各々自分たちの持ち場で位置に着く。

「さて、ここからは一人旅だ。応援はシッカリやるから頑張りなよ」

 真剣な表情をする左文字の肩に手を置いて、辺場教授は静かにギャラリーの中へと去って行く。

 応援してくれるとは有り難い。きっと一人じゃ心が折れてしまうから。

「さあ、全員準備はイイですか? 敵はリベンジに燃える喰い逃げ名人ですよ。本気で行きましょう!」

「「「「「「応っ!」」」」」」

 息の合った掛け声に、店主は今日も絶好調だと確信する。

 皆今日はマスクにキャップを着けてはいるが、今の掛け声から全員調子がイイ事は窺い知れる。

 これなら全力を発揮して戦うことが出来るだろう。負ける気がしてこない。

 ―――左文字さん。この10年、お互いどれだけ成長したのか、真っ向勝負と行きましょう。

 フフフ、と不敵に微笑んだ店主は、店員たちに指示を飛ばし、自分は蕎麦を茹で始めた。

 何人もの従業員を抱えている『アクタガ』だが、蕎麦の打ちと茹でることだけは他人に任せることは無く、店主が自らすべてを行っている。

 それは別に他人を信用していないからという訳ではない。納得できない物が出来てしまったときに、他人のせいにしないため。その覚悟を背負うために、店主は蕎麦を誰にも任せはしないのだ。

 そのために、店主はあらゆる雑念を振り切って、蕎麦一つの実に深く深く集中する。

 それこそ、周りの様子が見えないほどに。

 そして、この覚悟が実を結んだのか、今日の蕎麦は店主の職人人生に於いても、一二を争う会心の出来だった。

 これなら大して大食いでない店主であっても、ペロリと蒸籠10枚を食えてしまいそうだと喉が鳴る。

 それを次々運んで行って、カウンターの上に並べれば、テーブルの上を埋め尽くすほどに一面の黒い蕎麦の山が連なって見える。

「天ぷら、揚がりました」

 そこに店員が揚げたての天ぷらを運んで来れば準備は万全。後は開戦の火蓋が切られるのを待つばかりである。

「左文字さん。今更説明しなくても解るでしょう? うちの天ぷらはアナタが食べ終わってから、追加で提供いたします」

「解っております」

 その事は忘れるわけが無いだろう。前回の左文字の敗因はそこに在るのだから。

 だが、左文字の表情に恐れは無かった。

 それは覚悟が有っての事か。それは秘策を練っての事か。

 ―――どちらにしても、気を付ける必要があるようですね。

 何処までも落ち着いて、静かな左文字のその様子に、店主は警戒心を新たにし、天ぷらを持ってきた店員に目配せをする。

 ―――天ぷらの提供は出来るだけ引き延ばすようにしなさい。

 食べるペースを掴むこと、それは大食いに於いて胃袋を掴んでいることと同義である。

 そう言う意味においてはこのチャレンジ蕎麦に於ける天ぷらの提供方法は最強であり、今までにも名立たる喰い逃げ挑戦者を返り討ちにしてきたのだった。

 それをさらにスローペースにしようと言うのなら、それは本気で左文字を殺しに掛かってきているという事である。

 その意図を汲んだのだろう、店員は何も言わず頷いて、ソソクサと再び厨房へと引っ込んで行ってしまった。

「さて、準備は整ったようね。お互い用意は宜しいかしら?」

 対戦者二人組を交互に見返す玉藻。

「大丈夫です」

「何時でもどうぞ」

 覚悟が完了している二人は多くを語ることは無く、ただ玉藻の次の言葉を待つ。

「宜しい。それでは、用意…始め!」

「いただきます!」

 その掛け声に弾かれたように、左文字の箸が舞い踊る。

 一直線に箸が伸びたのは勿論、前回同様に蕎麦であった。

 脇の方に置いてある天ぷらには目もくれず、迷いも無く左文字は蕎麦を箸で器用に掬い上げる。

 どうやら左文字の作戦は前回と同じらしい。先に蕎麦を片付けてから、次いで天ぷらを平らげる。その流れを順守しているのだ。

 その作戦が有効であることは前回の戦いに於いて証明されている。もしも天ぷらさえ無かったのならば、確実に左文字は勝っていただろうから。

 そして今まさに一口目。前回同様に軽く汁を纏わせた蕎麦を、左文字は音も豪快に啜り上げが。

 その瞬間、左文字の動きが固まった。

「どうやら、気が付いたようですね」

 得意満面の店主の顔を、苦悶の表情の左文字が睨み返す。

「どうしたんだ? 左文字さんが出鼻を挫かれたように見えるけれども」

 いきなりの展開に心配に成った辺場教授が、遠くから覗き込むような調子で左文字の様子を窺っている。

 その隣に佇んでいる玉藻が注意深く観察すると、蒸籠の上に盛りつけられた蕎麦に、何か違和感を感じ取った。

「あの色合い…普通の蕎麦では無いみたい。…少し黄緑掛かっていて。 ! もしかして韃靼(だったん)蕎麦(そば)

「流石は立会人殿。お気付きに成られましたか」

 糸目をさらに細くする店主。その秘策が上手い事、左文字の動きを留めている事実に満足する。

「韃靼蕎麦って、あれだよね。何年か前にブームに成ったヤツ」

 一人状況に取り残され気味の辺場教授が、説明求むと言いたげに、訳知る玉藻に焦って話し掛けている。

「そうよ。その韃靼蕎麦で合っているわ」

 視線を辺場教授に向けることも無く、玉藻は呟く様に答える。

「それが、どうして左文字さんをあんなに苦しめているんだ? 韃靼蕎麦はあそこまで食べ難いものでは無かったと思うんだが」

 顔を顰めて、それでも無理やりにそばを食べている左文字。

 その様子がどうにも腑に落ちないのか、辺場教授が訳を話せと玉藻に食い下がる。

「あれはね、苦味に耐えているのよ」

 苦味。そのキーワードを通してみれば、なるほど確かにその通り。

今の左文字の表情は、苦々しく歪んだものに成っており、それに耐えているのならば箸の進みが遅いのも納得できる理由だろう。

「苦味と言うモノは、元々は『危険信号』なのよ」

「ああ、それは知っているよ。アルカロイドなどの毒性が有る物質を舌が検知すると、苦味を感じるという事だよね」

「そう、だから苦味のある食べ物は、体が毒だと警戒してしまうの。けれども、その苦味に慣れれば気に成らなくなり、味の深みにも成るのだけれどもね」

 子供の頃にピーマンが苦手だったり、初めて飲んだコーヒーに顔を顰めたりした経験はある人は多い事だろう。

 しかし、それらの苦味を何度も経験し、幾度となく口にし続けることにより、味に慣れてその奥深さを知ることで平気に成って行くものである。

「けれども、それには経験が…回数が必要なのよ」

 その通りだと辺場教授は理解する。ピーマンが食べられるからと言って、ゴーヤーが初見で好きになるとは限らない。

「だから今まさに、左文さんは未知の苦味を経験し、体がそれを毒として拒絶反応を引き起こしているのよ」

 苦味とは苦しみである。

それを体現するかのように、左文字の苦戦の仕方は尋常では無く、滅多に見ることの無い姿だった。

「けれども、本当にあそこまでなのか?」

 そう口にした通り、辺場教授には理解しきれないことが有った。

「韃靼蕎麦なら私も昔、ブームになった頃食べたことが有って、確かに少々苦く感じたけれども、あそこまで食べ辛いほどじゃなかったと思うのだけれども」

 辺場教授が記憶の糸を辿ってみても、自分の箸が全く進まなくなるほどの苦味が韃靼蕎麦に在った思い出は無い。

 だから、もしかしたらあの蕎麦に別の苦み成分を混ぜ込む不正をしているのではないかと考えてしまうが、玉藻はそれを否定する。

「教授。貴方が食べた韃靼蕎麦は、おそらく『食用』に加工された韃靼蕎麦粉を使った物でしょうね」

「⁉ そんな区分が有るのかい」

 今まで知らなかった事実に驚愕する辺場教授。それを見かねた玉藻は「覚えておくとイイわ」と前置きに語り出す。

「韃靼蕎麦は元々『(にが)蕎麦(そば)』と呼ばれていて、そのあまりの苦さから食用には向かないとされていたの」

「ネーミングまんまじゃないか」

「そもそも、韃靼蕎麦の苦み成分である『ケセルチン』の量は、通常の蕎麦の100倍にも及ぶのよ。そんな物、平気な顔をして食べていられないわ」

「そんなに…それじゃ、食用の韃靼蕎麦粉はあまり苦く無いのはどうしてなんだ?」

「それは、粉の段階で加熱処理をすることで、ケセルチンを作る酵素を失活させているのよ。そうすることで苦味の発生を防いでいるのね」

「それじゃあ、左文字さんが食べているあの韃靼蕎麦は…」

「恐らくその加熱処理を行っていない、韃靼蕎麦の実を生のまま挽いた粉。正真正銘の『苦蕎麦』でしょうね」

 ―――そこまで見抜いてしまいますか。

 店主は立会人としての玉藻の慧眼に舌を巻く。

 10年前の左文字との喰い逃げ屋勝負の一件以来、腕に覚えのある様々な強敵からの挑戦を受け続けてきた蕎麦屋『アクタガ』。

 その長きに渡る年月と研鑽の中で編み出した新たな必勝法。

 それが苦蕎麦と天ぷらのコンビネーションである。

 天ぷらは左文字に引導を渡した最終兵器であるのだが、蕎麦については以前の戦いで易々と突破されてしまい、言うなればここが弱点、穴でもあったのだ。

 ならばその穴を塞いでしまえばイイのだと考えた店主。そして、辿り着いたのが強烈な苦みを持つ苦蕎麦であったのだ。

 これにより挑戦者は、蕎麦の方も食べるのに苦労することと成り、必要以上の時間を掛けることに成る。

そのため麺が水分で膨張し、天ぷらが冷めて油臭くなるなど、様々なマイナス効果を挑戦者に見舞うことが出来るのだ。

―――このコンビネーション。まさに虎狼!

天ぷらの虎で追い詰めたのなら、苦蕎麦の狼で退路を塞げばいい。

袋小路に追いやって後は自滅を待ってやる。

それが、『アクタガ』の喰い逃げ屋『追っ手組』としての成長であった。

実際に、この作戦は左文字を大いに苦しめていた。

天ぷらの事ばかりに気をやっていたせいもあり、蕎麦に対して何も対策をしていなかった左文字には、この苦味に対してどうすることも出来なかった。

―――うう、箸が進まない。

別に左文字は苦い味が苦手という訳ではないが、それでも好んで食べていると言う訳ではない。

その分耐性が無かったのが災いしたのか、苦蕎麦の味を舌が嫌がって仕方がない。

味に対して拒否反応を起こすなら、そのまま飲み込んでしまえばイイのだが、少しでも噛むたびに、蕎麦の芯からジワリと苦みが浸み出して口中に広がって、飲みこむことを体が拒む。

それならば、噛まずに飲み込めるように出来るだけ苦蕎麦を掬う量を減らせばイイと成るけれども、事はそんなに甘くない。

麺を掬う量を減らす事。それは汁に付ける階数を増やすという事。

そうして汁に蕎麦を付ける度、その苦味が汁の方にも移ってしまい、次第にジワジワと左文字を追い詰めてゆく。

ならば味を変えようにも、『アクタガ』のテーブルの上に在る調味料は、塩と七味唐辛子が有るのみで、小皿に盛られた薬味にしても、ネギ、胡麻、ワサビと状況を打開できるようなものは無い。

―――せめて、マヨネーズでもあれば…。

苦い食べ物はマヨネーズでコーティングしてしまえばマイルドに成って食べられる。

「すみません、マヨネーズとかありますか?」

 背に腹は代えられぬと、左文字は恥を忍んで店主にマヨネーズを所望する。

 しかし、店主は不思議そうな顔を返すのみ。

「マヨネーズ…蕎麦屋にそんな物は有りませんよ」

 何で? と聞き返したくなった左文字だが、よくよく考えてみれば、江戸時代にマヨネーズなんて物は日本に来ていない。

 昔気質(むかしかたぎ)の江戸前を貫く蕎麦屋であるのなら、マヨネーズを置いていなくても何ら不思議は無いだろう。

 ―――それに、普通の蕎麦の味も香りも殺してしまいますからね。仕方ないですよね。

調味料の持ち込みは自由であるのだから、不測の事態に備えて用意しておくのだったと、左文字は今更ながら後悔する。

―――何か打開策は…。

そう考えて視線を周囲に巡らせる左文字の視界に、得意げな店主の表情が写り込む。

何とかこの鼻を明かしてやりたい。その一心で無理やり左文字は蕎麦を食っていた。

「やっぱり相当拙いよな」

 しかし、あまりに梃子摺る左文字の様子は、傍から見ている辺場教授を不安にさせる。

「普段の左文字さんは、もっと、こう、食事をすることを楽しんでいる事がハッキリと解ったのに、あんなに苦しそうな左文字さんは見ていられないよ」

 食うことが辛いという事がどんなに悲しい事なのか。

 それはきっと見ている事しか出来ない辺場教授たちが想像するよりも、左文字が余程感じている事だろう。

「左文字さんは何とかならないのか?」

 見るに見かねた辺場教授は、左文字の事を手助けしようとするが、それはルール違反だと玉藻によって制止される。

「でも、このままじゃ…」

「確かに負けは見えているわ」

 それが解っているのに指を咥えて視ている事しか出来ない歯痒さに、辺場教授は強く奥歯を噛みしめる。

「でも、逆転の道は有るわ」

 その時玉藻が漏らした一言に、それまで絶望しかけていた辺場教授は目を輝かせながら顔を上げる。

「それはイッタイ…」

 早く教えて欲しいとせがむ辺場教授だが、玉藻は首を横に振るのみ。

「どちらかに肩入れする様な事は立会人である私の口からは言えないわ。だから、これは左文さんが自分で気が付くしかない事なのよ」

「そんな殺生な。君と左文字さんとの仲だろう? チョット位イイじゃないか」

「ダメ。ダメなものはダメなのよ。それにここで私が仮に手を出したのなら、その時点で左文字さんの反則負けに成るのよ。それは左文字さんだって望む事ではないでしょう?」

 そうは言っても、と辺場教授は恨めしげに玉藻の事を見つめている。

 それを知っているにも拘らず、玉藻は無表情のまま、ジッと左文字を見つめている。

 二人の関係を知らない者からしてみれば、玉藻は冷たく左文字を見放してしまったかのように見えるかもしれない。

 しかし、これは玉藻が左文字を信頼している証である。

 左文字ならばきっと自力で突破口を見つけられる。そう信じているからこそ、玉藻はあえて口を出さないのだった。

 そしてその当事者の左文字は今まさに苦悶の中に居た。

 どうにか騙し騙しやって来たが、これ以上はどん詰まり。宛ら真綿で絞殺される様に、ジワリジワリと追い詰められている。

 ―――イッタイどうすれば。

 ジリ貧の中に在りながら、何とか突破口を見つけようと、苦蕎麦を食べながらも周りの様子を注意深く見渡した。

 使えるものは何でも使う。それが掟破りだとしても。

 味を変えるのもダメ。苦みを抑えるのもダメ。そもそも苦味が無い蕎麦に挿げ替えるのは現実的ではない。

 ―――だったれば。

 他に何か代わりになる物が無いだろうか。そう思って左文字は記憶を辿ってゆく。

 深く深く、記憶の糸を手繰り寄せ、宛ら走馬灯の様に思い返す。

 ―――そもそも、なぜマヨネーズは苦みを抑えることが出来るのだろうか?

 ―――マヨネーズの原料は、酢と卵、そして油です。

 ―――それらが苦み成分を包み込み、感じ難くさせることで、苦みを抑えることが出来るわけです。

 ―――タンパク質と油分。それが苦みを抑えるのには必要だという事でしょう。

 ―――つまり、それは。

「有るじゃないですか」

 そう呟くと、左文字は一直線に箸を伸ばす。

 だが、その行く先は苦蕎麦では無い。なんと、天ぷらであったのだ。

「⁉ 左文字さん! 気でも狂ったのか」

 辺場教授が左文字の行動に驚愕した様に、観衆も店主さえも驚きの表情を見せる。

 油ものを摂取することは大食いにとって最も注意すべき事である。

 油は胃の中に溜まり易く、過剰に摂取すると胃もたれを引き起こす。

 そうなってしまえば食欲は大きく減退し、それ以上食事をすることを体が拒んでしまうのだ。

 それは大食い選手でない辺場教授たち一般の人たちにも想像するに難くないだろう。

 だからこそ、左文字の行動は愚行に思えたのだ。

「そう、それがイイのよ」

 只一人、玉藻だけを除いては。

 左文字は一口、天ぷらを齧っては、蕎麦を勢いよく啜り上げる。

 するとどうだろうか。その箸の動きは活き活きとして、明らかに食べるスピードが速まっているではないか。

「えっ? どうしたんだイッタイ」

 見違えるほどの喰いっぷりに思わず声を上げる辺場教授だが、玉藻は納得した様に頷いている。

「これは実に簡単なことよ。天ぷらに含まれる油。それが舌の上に広がって、『油膜』を作っているのよ」

「つまり、油でコーティングしているということなのか?」

「その通り。そうすることで、直接的に苦蕎麦の味を感じるのを防ぐ、いわば緩衝材の役割を天ぷらがしてくれているのよ」

 成程そういう事なのか。辺馬教授もようやく理解が追いついた。

 ドレッシングと油炒め。生でそのまま食べたなら、苦味を伴う食材を美味しく食べる為の調理法には、油の存在が付き添っている。

 それ程に苦味に対して油を加えることが効果的であることは、火を見るよりも明らかだ。

 そこへ行くと、天ぷらとはまさに油の塊。その天ぷらの羊毛の如き衣の中には、絞って滴るほどの揚げ油を湛えている。

 一噛みすればその油が口の中に広がって、苦味を防ぐバリアとなるということなのだ。

 さらに、衣を作るために加えれた卵も、優しく苦味を包み込み、より一層に感じにくくする役目を果たしてくれている。

 だから、左文字は先程までのまさに苦汁を舐めるが如き食事から一変し、楽々と爽快に蕎麦を啜ることが出来るように成ったのだ。

 一方、店主はこの自体に慌てふためく。

 まさか虎と狼が共食いをしてしまうとは思いもしなかった。

 店主にとって苦蕎麦の導入はまさに決定打。喰い逃げ屋において勝利を揺るがないものとするための一手であったはずなのだ。

 しかし、それが裏目に出てしまった。

 山に盛られた天ぷらも、苦蕎麦と一緒に食べるため、あれよあれよという間にその量を減らしてゆく始末。

 もしかしたら、全体のペースは以前にも増して早いかもしれない。

 その左文字の魅せるハイペースが、店主の心を(そぞ)ろにさせた。

―――だが、虎は…狼よりも強い!

それでも店主の心は折れなかった。

そうとも。苦蕎麦は飽くまで前座。真打は天ぷらにある。

事実、この虎は左文字を一度食い殺している。それならば、何を恐れる必要があるだろうか。

そして、冷静に考えれば、左文字の使う共食い戦法も諸刃の剣なのである。

水分の多い蕎麦と共に油分の塊である天ぷらを食べればどうなるか。

水と油が比喩ではなく、実例として胃の腑の中で戦争を起こす。

そうなれば、胃もたれを引き起こして、食欲を減退させ、それでも無理に食べようとすれば口から元に戻してしまうだろう。

諸刃は両刃。担い手の方にも刃が向いている、

だから、このまま力尽くで押し込んでしまえば、切り伏せられるのは左文字の方なのだ。

―――天ぷらはどうなっています?

そのための手段として、店主は厨房の天ぷら担当に目配せをする。

彼には事前に指示を出していた通り、左文字が天ぷらを食すタイミングを遅らせるように調理させている。

大食いにおいてペースがいかに重要であるかは、挑戦者及び料理人問わず周知の事実である。

逆にそれをコントロールされてしまえば、いかに大飯食らいであろうとも、どんなに早食いであろうとも関係なく、太刀打ちできない状況に陥る。

特に、今の左文字は胃の中が、水と油の戦争中であり、長引けば長引くほど消化器官が焼け野原になってゆく寸法なのだ。

―――だから、もっと遅らせなさい。

そういう意味を込めての店主のジェスチャーを確認した天ぷら担当が、了承したというような合図を返してくる。

―――コレでイイ。多少汚かろうが、コレも作戦の内です。

万全を期して安堵した店主は思わず失笑してしまった。

だが、その笑みは1秒も経たず掻き消えた。

明らかに天ぷらが出てくるスピードが想定よりも早いのだ。

左文字が天ぷらを食べるペースは、苦蕎麦一枚に対して一つの天ぷらという割合で勧めている。

店主の目論見通りなら、このペースが乱れてしまい、左文字がそばを食べる妨害ができるはずであった。

しかし、現状はどういうことだろう。

左文字はペースを乱すことなく一枚の苦蕎麦を食べ終えると同時に、天ぷらを一つ食べ終える。

すると、間髪入れずに次の天ぷらが、揚げたての一番美味しい状態で運ばれてきて、透かさずこれに左文字は手を伸ばす。

このやり取りがまさに阿吽の呼吸で行われており、まるで初めから示し合わせてもいるかの如く、滞りなく繰り返される。

そして、何度目かのサイクルを迎えた時には、既にテーブルの上に置いてある苦蕎麦の蒸籠は1枚を残すのみとなり、天ぷらも特大かき揚げのみとなる。

「何をやっているんだ⁉」

 流石に裏工作をしているため表立って声を上げることをしなかった店主だが、最後のかき揚げまでも左文字にとって絶妙のタイミングで提供されたのを見れば、業を煮やして厨房へと駆け込んだ。

 その勢いのままに、店員達を押しのけて、未だに油の前に陣取っている天ぷら担当の襟首を掴む。

「イッタイどうしたと言うんだ⁉ 何で事前の指示通りに天ぷらを出さない」

 ここに来て小声に成る店主が非難めいた視線を天ぷら担当から左文字へと移せば、最後の砦であるかき揚げも5割方食べ尽くされた光景に絶望の色が滲んでくる。

「どうしてくれるんだ。君が…君が言いつけを守らないから―――」

 言葉を継ごうとした瞬間、店主は天ぷら担当の様子に今更気が付いた。

 ―――誰だ、コイツ。

 いま店主が襟首を掴んでいるその相手。それは天ぷら担当の店員であるはずなのに、違う顔の人間がそこに居た。

「フフフ…今更ですか」

 その謎の人物は不敵にそう笑うと、マスクと頭巾に隠された素顔を晒す。

「⁉ お前は」

 そして、現れた顔には見覚えが有った。全体的に幼く見える顔立ち。小動物の様にクリクリとしたその眼。左文字の横にいつも見るその顔の主は、紛れも無く―――。

「そうとも! 僕は喰い逃げ屋『左文字』の一番弟子! 斉場(さいば) (しょう)太朗(たろう)だ!」

「ごちそうさまでした」

 名乗りを上げる斉場少年と同時に左文字もまた蕎麦と天ぷらを完食する。

 そうして、二人は連れ立ってギャラリー犇めく店内を掻き分けて、店の外へと逃げ出してゆく。

 掴んでいた腕を振りほどかれ、唖然としながら彼らの後ろ姿を見送っていた店主だが、「30秒、経ったわよ」と玉藻からかけられた声で我に帰る。

「イッタイ全体、お前たちは何をしていたんだ!」

 気が付いてまず口を突いたのは、他の店員たちへの叱責だった。

 店主自身が斉場少年のすり代わりに気が付かなかったことは、どうしようもない失態である。

 しかし、厨房にはこれだけの人数がいるのだから、他の誰かが気がついていれば、きっとこんな事態は防げたはずだ。

 第一、今だって逃げ出した彼らのことを我先にと追いかけてもイイ筈なのに、誰一人として駆け出そうとはしないではないか。

 そんな憤りが左文字たちに虚をつかれた隙に堰を切ってしまい、らしくも無くこんな言葉になって出てしまったのだ。

 言うだけ言って肩で息をする店主だが、それを受けていた店員たちは馬耳東風の如く一向に響いた様子が見られない。

 ―――どうしたんだイッタイ。

 あまりに凪いだ彼らの様子に、一抹の恐怖を覚えた店主がたじろぐと、腰が戸棚に当たってしまう。

 するとどうだろうか。当たった拍子に開いた戸棚から、雪崩落ちるかのように出てきたのは、手足を縛られ猿轡(さるぐつわ)を噛まされた『アクタガ』の店員たちであった。

「はぁ⁉ これは―――。じゃあ、お前たちは…?」

 動揺し戦慄(わなな)き、泳ぐ瞳で目の前の店員の格好をした一団を見やる店主に、彼らは「フフフ…」と含んだ笑いを返す。

「漸く気が付いたのですね」

 彼らの内の一人がそう呟くと、全員が一斉に頭巾とマスクを外す。

 そして、その面々を見た店主が目を丸くする。

「お前たちは―――ホントに誰?」

 先ほどの斉場少年は左文字の隣にいつも居たため、何となしに見覚えがある顔だった。

 しかし、今目の前にいる謎の集団はマッタク見覚えの無い人物たちだった。

 全員、年の頃は20代前半だろうか。服装と髪型から若者らしく、社会人のようには見えなかった。

「我々を知らないのは無理も無いでしょう」

「だったら名乗って進ぜよう」

 困惑する店主を尻目に、その一団はスクラムでも組むように、狭い厨房の中で一塊に纏まると、声をそろえて名乗りを上げる。

「我ら立教大学史学部 辺場研究室 研究生一同!」「皆、喰い逃げ屋『左文字』のファンにして同志!」「それ故に義によって左文字に助太刀いたす!」「此度の入れ替わりもまた作戦の内!」「これも粋狂と許されよ。然らばサラバ!」

 そう言って店主のことを押し倒さんばかりの勢いで、学生たちは厨房から飛び出して、先を行く左文字達の跡を追う。

 コレまた呆気にとられる店主だが、呻き声を上げながら床の上でのたうち回っている店員たちに気がつくと、慌てて彼らの拘束を解いてやる。

「店長。面目ない」

「こんな目に遭うなんて、イッタイ何があったのだい?」

「朝に店まで来て仕込みをしようとしていたら、突然雁字搦めにされて」

「俺は、店の外で一服付けようとしていたところに不意を突かれて」

「私は店長が呼んでいるからと、スタッフルームに行ったところを待ち構えられて」

 そうして彼らは捉えられ、一人ひとり、順を追って偽物にスリ替わっていったということか。

 店主としても左文字のことにばかり集中していたため、周りの様子に気を配らなかったばかりに、人が変わっていることに気がつかなかったのは痛い。

 もし少しでも周りを気にしていたのならば、マスクと頭巾で顔を隠していたとしても、雰囲気で解ったかもしれないのに。

「済まない。これは私の落ち度だった」

 反省し素直に謝罪する店主に、店員たちは頭を上げるように言う。

「今は直ぐにでも喰い逃げ屋達を追いかけるべきです。まだまだ勝負は折り返し。ここから挽回はできるはずですから」

 そうだなと、沈んでいた店主の心が浮き上がる。

 それを見守った店員たちは、我先にと不届きものに誅伐を下すべく、店の外へと走り出してゆく。

 店主もそれに続こうとするが、その前に何か思いつめたような顔をして携帯電話を取り出した。

「もしもし、『アクタガ』だが」

『そろそろ電話が掛かってくる頃だと思っていましたよ』

 電話の向こうの声の主は、こう成る事を端から望んでいたかのように、浮かれた声色をスピーカーから響かせる。

 ―――まさか、彼らに頼ることになるとは。

 出来ることならば避けて通りたかった手立てではあるが、逃げに関して左文字と真っ向勝負を演じたところで、一縷(いちる)の勝機も見いだせないのが『アクタガ』という追っ手組なのである。

 ならば背に腹は変えられない。なにせ『アクタガ』は蕎麦屋だから、餅はよそに頼むべきだろう。

頼れるもの、使えるものがあるならばなんでも使うべき。そう考えて店主は覚悟を決めたのだ。

『何、恥じることはない。様子は伺っていたからね。敵も中々悪どい手を使うじゃないか』

 そう言ってはいるが、声の主は左文字のことを賞賛しているようにも聞こえる。

 何ら包み隠すことなく、クレーバーな手を躊躇いなく使ってくる左文字に興味を惹かれたのか、直接やり合いたくてウズウズしているようだった。

『まあ、手段を選ばない技ならば、我々だって負けてはいない。なにせ、十八番(おはこ)であるからな。目にもの見せてくれましょう』

 その言葉を最後に通話は切れてしまう。

 ―――大丈夫だろうか…? 奴らやり過ぎないだろうか?

 通話を終えて自分の選択を振り返った店主は、一抹の不安が込み上げてくる。

 それでも、自分たちの勝ちの目はこれしかないのだと振り切って、店主もまた左文字達を追いかけ始めた。


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