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喰い逃げ屋 左文字 - 2  作者: 楠木 陽仁
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2-5

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 今にも破れ落ちて来そうな曇天の空に包まれた長野善光寺平。

 寒風吹き下ろす山肌の、その麓に寺院が立ち並ぶ。

 一際荘厳な作りの寺社は、幾つもの山門の奥に在り、それこそが長野善光寺である。

 その社の中。戸口を抜けて直ぐに板の間があり、その更に奥に敷き詰められた何畳もの畳のその中心に、左文字は座して瞑想に耽っている。

 左文字は小一時間、そこに座禅を組んだまま動かない。

 観光客が左文字の事を物珍しげに、遠巻きに眺めて写真に収めているが、それも全く意に介する様子は無い。

 何故、左文字はこのような事をしているのか?

 それは勿論、森将軍塚古墳に残されていた、先代左文字のマス目の奥義書が大いに関わっている。



 森将軍塚古墳で一悶着あった後、左文字は宿に戻り、斉場少年が撮影しておいた奥義書の画像を眺めていた。

『喰い』の奥義書。『逃げ』の奥義書。それぞれに描かれている画像にも勿論新しい発見が有り、左文字自身知らなかった技も書き記されていた。

それらを読み解くことで左文字もまた、新たに成長した実感が有る。

―――しかし、これはイッタイ何なのでしょう。

だが、どうしても第三の奥義書の内容が解らなかった。

まず、奥義書は他の奥義書と明らかに違う構図となっていた。

『喰い』と『逃げ』の奥義書は縦横の格子状のマスの中に、それぞれの技の様子を描いたもので構成されている。

一方、第三の奥義書は円形を基調としている。

大きな円の中に小さな円が有り、その二つの円の間の空間を均等に8つのマスに分けている。

もちろん、マスの中には他の奥義書と同じように一つ一つ絵が描き込まれている。

絵は一番上のマスから、食材を運ぶ人、調理器具を用意する人、注文を取っている人、食材を切っている人、鍋を振るっている人、できた料理を皿に盛り付けえる人、料理を運ぶ人、時計を見つめ計る人。

これらの絵が時計回りで順番に描かれており、それらの絵に囲まれた、真ん中の円の中心には料理を食べる人の絵が描かれている。

それがこの第三の奥義書の全容であった。

改めて見ても複雑な絵である。左文字もこれにはホトホト困り果てていた。

そもそも、これは喰い逃げ屋の絵ではないではなく、料理を作る側である追っ手組の絵。宛ら真ん中の喰い逃げ屋を袋叩きにしている様ではないか。

敵側の状況を描いたものがイッタイ何に成ると言うのだろうか?

それならば、周りの古代の壁画の様に喰い逃げ屋の情景を描いたものかもしれない。

しかし、先代が態々(わざわざ)そんな物を描く理由が解らない。

―――何か意味が有るはずなのですが。

考えあぐねて数時間。正座をしてみたり、畳の上で寝転んでみたり、トイレに籠ってみたけれども。一向に謎が解ける様な兆しは無かった。

「はあ、どうしたモノでしょうか…」

 半ばお手上げの状態で、打つ手無しに近いこの状況。

 せめて気分だけでも変えようと、テレビを点けてみると、丁度タイミングよく長野善光寺の特集が始まっている。

 その中で、善光寺に奉納された曼荼羅の映像が映し出されたその瞬間、左文字は急に辺場教授の言葉を思い出す。

『まるで曼荼羅のようだな』

辺場教授は三つの奥義書をそう呼んで例えた。

左文字は仏教に詳しくなく、曼荼羅なる物がどのような物なのか良くは理解していなかったが、テレビに移された曼荼羅を見ている内に、言われてみれば確かに似ているように思えてしまう。

―――曼荼羅、ですか。

左文字としても、もしかしたらと、まるで藁をも縋る様な心境であったのだろう。

だったら、曼荼羅について知らねばなるまい。

そう一念発起した左文字が辿り着いたのが善光寺だったのである。



「何か見えましたかな?」

 瞑想を続ける左文字に声を掛けたのは、一人の年老いた僧侶であった。

 左文字も呼ばれて目を開き、声の方を振り返ると、それは以前見た事のある顔だった。

「貴方は…確か(いん)(げん)和尚(おしょう)

 呼ばれて柔和な表情のまま頷くのは、十年前に善光寺へ訪れたときに左文字が世話に成った僧侶『胤厳』がそこに居た。

「お久しぶりで御座います。左文字さん」

 向こうとしても左文字の事を覚えていたのか、親しげな雰囲気を放ちながら左文字の方へと近寄ってくる。

「本当にご無沙汰しております。その節はどうもお世話に成りました」

 左文字としては後ろ足で砂を掛ける様な別れを10年前に胤厳和尚としているため、気まずい心境に成ってしまう。

 しかし、当の胤厳和尚はそんな様子など全く見せず、まるで旧友との再会を嬉しむ様な素振りであった。

「実に10年ぶりで御座いますね。本当にお懐かしい」

 左文字の前までやって来た胤厳和尚。それに釣られて左文字の方も、いつまでも座ったままではいられずに、跳ね上がる様に立ち上がる。

「ここで立ち話をしては他の人に迷惑でしょう。如何です? また寄宿舎の方へといらしてみては」

 確かにそれがイイだろう。

 胤厳和尚の提案を快く受け入れた左文字は、懐かしの寄宿舎へと足を運ぶ。

 通されたのは奇しくもあの日と同じ部屋。畳の感触、机の手触りを確かめた後、左文字は振る舞われた茶を啜る。

 ―――随分と懐かしいですね。

 この一室で過ごした一晩のことを未だに良く覚えている。

 その後の事がかなり印象的な出来事だったため、左文字の記憶に焼付いてしまったのかもしれない。

「いつでも相談に来てイイと申しましたが、まさかそれが10年後に成るとは思いもよりませんでした」

 部屋の入口の方を見やると、合唱をしながら胤厳和尚が入ってくる。

「また、お世話に成ります」

 左文字も居住まいを正して会釈すると、楽にしてイイと胤厳和尚は窘める。

「しかし、その10年の間で左文字さんも随分と成長成されたようで、何よりに御座います」

「…私がですか?」

 他人に指摘された自分の成長であるが、とんと思い当たる節が無く、色々と身の回りを見渡す左文字を、胤厳和尚はさも可笑しそうにフフフと笑う。

「もちろん身体と技量もそうでしょうけれども、一番は精神的に成長されていると、拙僧は思っております」

「そうなのですか? チョット自分では解らないですね」

「そうかもしれません。ただ、10年前の左文字さんは、宛ら角張った(いわお)の様な感じでしたから」

 (かつ)ての自分がそんな風に見えていたのか。

 石の様に頑固に凝り固まって、あちらこちら角張っては触り辛い巌のその様相は、確かに若き日の左文字の様であると言えよう。

「しかし、それから長い旅と様々な経験を経て丸くなったと言う事でしょう。そして、落ち着くべき所に落ち着いて、今では苔生した岩の様に貫禄が出て来た様にも見られます」

 これは、褒められているという事だろう。

 そう考えれば左文字としても満更ではないイイ気分と成り、照れたように頬を上気させては頭を掻いている。

「何かアナタにイイ出会いが有ったものと思われます。何かそう、思い当たる節が御座いませんか?」

「…弟子を取った事でしょうか?」

 この10年で新しく一番大きな人の関わりが出来たとすると、それは斉場少年を弟子として取った事だろう。

 その事実を胤厳和尚に伝えると、和尚は手を打って喜んでくれる。

「それは実に良い事で御座います。人を教え導くという行為は、その教え子だけでなく、教える本人もまた良い方へ導く事へと繋がります。きっとそれが今のアナタを良い物へと形作ってくれたのでしょう」

 そう言われると、左文字としても思い当たる節がある。

 斉場少年を前にして、なるべく無様な姿は見せたくないと、気を引き締めている節も間々有るのだから。

 師弟の関係は、師が人を育てているようでいて、その逆もまた有り得るのだと、左文字は改めて心した。

「しかし、あんな所で座禅を組むとは一体どう成されたので御座います。何か悩む様な事があるのなら伺いましょう」

 そんな左文字の心の迷いを見透かしたような胤厳和尚が、左文字が瞑想していた理由を尋ねてくる。

「じつは、コレについて考えているのです」

 問われて隠す理由は無いと、左文字は胤厳和尚にも例の奥義書を見てもらう。

「ほう、これは?」

 興味を惹かれた胤厳和尚に、左文字は奥義書について詳しい説明をする。

「ただ、この最後の奥義書なのですが、これだけが意味が解らないのです。先代が残したメッセージなので、何か意味が有るはずなのですが」

 もはや何度目か解らないほど首を傾げる左文字に対して、胤厳和尚も眉間にシワを寄せている。

「とは言え、拙僧も門外漢なのでどのような助言ができるか解りません」

 それはまた仕方がない。そもそも左文字もそのつもりでいたのだから。

「些細な事でもイイのです。例えば私の知人がこれを曼荼羅の様だと例えましたが、そのような見方はできますか」

「曼荼羅…ですか」

 胤厳和尚はそう呟くと、より一層に真剣な表情をして奥義書の写真を注視する。

「確かに、一見すると『六道曼荼羅』のように見えますね」

「何ですか? それって」

 胤厳和尚から言い放たれた新しい言葉に、左文字も詰め寄る様に聞き返す。

「左文字さん、以前『六道輪廻』について話しをさせて頂いた事を覚えておいでですか?」

「詳しくは知りませんが、転生に関わる話でしたっけ?」

「その通りに御座います」

 左文字の返答に満足したように、胤厳和尚は頷いた。

「改めて説明いたしますと、世界には今の私たちが住んでいる人間道の他にも、天道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道が存在しており、現世の因果によって来世はどの道へと転生するかが決まるというものです」

 やはり難しく抹香臭い話であり、左文字としては苦手な部類の話ではあるが、これを聞き流すことはしてはいけない事の様に思えて我慢する。

「そう言った輪廻の様子を絵として表したものが、先ほど言いました『六道曼荼羅』なので御座います」

 そうして少し待って欲しいと左文字に言い残した胤厳和尚が一旦席を外し、部屋を後にする。

 それから10分後に戻ってきた胤厳和尚が携えていたのは、件の『六道曼荼羅』の写真を収めた分厚い資料であった。

「こちらがその『六道曼荼羅』で御座います」

 胤厳和尚が開いたページを覗き見ると、確かに左文字もその構成が第三の奥義書と似ているように感じることが出来た。

 複数の大小の円形が同心円上に重なっており、円同士の間のスペースは6等分のマス目にされており、そのマスの中には輪廻を巡る6つの道が絵図として描かれている。

 なるほど、これは胤厳和尚でなくても知っていれば結び付けて考えてしまうだろう。

「そう言う事ならば、あの奥義書も何かしら輪廻転生と関わりが…」

 それこそがこの難解な絵図面の突破口なのだと思い込み、穴が開くほど見つめる左文字を、胤厳和尚は制止する。

「いえ、私が思うにあの絵は輪廻とは全く関係が無いと思いますよ」

「えぇ…そんな」

 一縷の望みが早々に潰えたことに落胆する左文字だが、新たなヒントはまたしても胤厳和尚からもたらされる。

「しかし、曼荼羅の様だと言うのは(あなが)ち的外れなのではなく、イイ着眼点なのかもしれません」

「それはイッタイ…」

 どういう事なのだろうかと、疑問符を浮かべながら問いかける左文字に、胤厳和尚は居住まいを正して語り出す。

「そもそも、左文字さんは曼荼羅とは何であるか、ご存知でしょうか?」

 そうは言われても、左文字は現代人。信心深くも無ければ宗教についてはカラッキシである。

 解らないので首を捻っていると、胤厳和尚は笑って「難しい顔をしなくても良いのですよ」と、許してくれる。

「それは普段から御仏に触れている人でもない限り、身近に無い事ですから仕方が有りません」

「お恥ずかしい限りです」

「どうぞお気に為さらず。これを期に、御仏の教えとはどういうものかという事を知っていただくのも拙僧たちの役目で御座いますゆえ」

 恭しく合唱する胤厳和尚の佇まいに、自然と神々しい物を左文字は感じた。

「さて、話を戻しましょうか。最前、質問させていただいた曼荼羅とは何なのかという問いですが、その答えは端的に言うと『世界』で御座います」

「世界…ですか」

 随分と大きな風呂敷を広げたものだと、左文字は思わず眉を顰めてしまう。

「または『宇宙』と言えるでしょう」

「これまた随分とスケールの大きな…」

「ハハハ、驚かれるのは無理もありません」

 無知な左文字に語って聞かせることが何より楽しい事なのか、胤厳和尚は語り続ける。

「そもそも、御仏の教えを伝えるのに古くから用いられて来たものは『経典』、所謂お経で御座います」

「般若心経とか、ああいう物ですか?」

「良くご存知で。宗派によって多少の解釈に違いが有るものの、御仏の教えを文字に書き記したものが経典なのだとお考えください」

 確かにそういうものだろう。左文字としてもそれくらいは理解ができる。

 難しい感じと聞き慣れない音の羅列の様に思える経典であるのだが、その一言一句が釈迦の教えに通じる大切な言葉なのだ。

 因みに善光寺は特定の宗派を持たないらしく、経典も千差万別様々な物を取り入れているという。

 しかし、それを知らない左文字にとっては意味不明で、耳にするだけで眠りの世界へ入滅してしまいそうになる物にすぎないが。

「どうにも、不甲斐ない話ではあるのですが、無学な私にはお経は聞くだけで眠たくなってしまうのですよ」

 それを左文字は隠すことなく告げると、胤厳和尚は「解ります」と、予想に反して同意してくれる。

「あれ? 不敬だとかで叱られると思っていたのですが」

「確かに、経典の内容は難しいですからね。一般の方が解らないのは無理も無い事です」

 聞けば胤厳和尚も修業を始める前はマッタクお経どころか仏教についての知識が無く、子供の頃に経験した親類のお葬式の席でも、お経の読み合わせの際には舟を漕いでしまっていたという。

「胤厳和尚であっても知識が無ければ誰も同じだという事なのですね」

「ええ、その通りです。そして、それは昔の、何百年も前の方が顕著でありました」

 識字率が現代よりも遥かに低かった時代に於いて、文字で記された経典の内容を広く伝えるという事は困難な事であった。

「僧侶や貴族であるならば、文字の読み書きは出来たでしょうが、朝から晩まで田畑で働く農民や市井の人々は学ぶ機会が有りませんでしたから、そう言った方々に経典を渡しただけでは理解できませんし、言葉で説明したとしても、宛ら雲を掴むようなものだったと思うのです」

 只でさえ難しい言葉で綴る経典を、噛み砕いて説明すると言う作業が如何に難しい事であるかは想像するに難くない。

「だからこそ、絵図面によって文字が解らずとも理解できるように試みたものが曼荼羅であるのです」

「そうなのですか?」

 その発想は無かったと、キョトンとした表情の左文字に、胤厳和尚は話を続ける。

「例えば、親が子供へ読み聞かせをする際に、文字だけの本は使わずに、絵が大半を占める『絵本』を使うでしょう?」

「そういえば、そうですね」

「この様に絵や図や画像というものは、言葉や文字の説明を取り払って内容をストレートに伝える力が有るのです」

 その例として胤厳和尚が挙げたのは漫画と映画。このどちらにも台詞の一切出て来ない『サイレント』というジャンルがあるが、不思議とその物語の内容は見ている側が理解できてしまうものである。

「この様に伝える力の強く簡単な絵や彫刻と言った美術と言うモノは、古くから宗教と密接な関係に在るのです。例えば西洋では絵画やステンドグラスなどで聖書のワンシーンを切り取って、目に見える形としているでしょう?」

 それと同じ効果が曼荼羅には有るのだと、胤厳和尚が語る通り、左文字としても言葉で説明されるよりも内容が解り易いと考える。

「でも、やっぱり複雑で、全部は解らないですね。そもそも、宗教画なら一枚の絵ですけれども、曼荼羅は幾つもの図形が組み合わさって、より難解に成りますし」

「そこを説明するのが僧侶の役目ですゆえ」

 二人して笑い合うその一間に、笑い声が響いている。

「和尚の説明で曼荼羅がどういうものか、その切っ掛けの様なものは解りました」

「それは何より」

「しかし、ここまで話を聞いてもらっていて何なのですが、それがこの奥義書と関係が有るのでしょうか」

 ここまで来て本末転倒ではあるが、左文字は根本的な疑問を投げかける。

 いくら曼荼羅に似ているからと言って、どこまで突き詰めたところで、この奥義書は先代左文字の落書きに過ぎない。

 そんな物が仏の世界を表す様な、そんな高尚なものであるはずがない。

 だったら端から善光寺に来るなと、突っ込まれても仕方がないが、そんな事を胤厳和尚が思うはずも無く、真面目な表情で真面目に話す。

「確かに仏と喰い逃げ屋。それは直接の関係が無いかも知れません。ですが、物の捉え方、考え方は同じかもしれませんよ」

 本当にそうなのだろうか? 今更ながら胤厳和尚のその言葉を聞いて眉に唾を着けたくなった左文字だが、胤厳和尚の説教はそんな事では終わらない。

「先ほど、拙僧が曼荼羅の事を『世界』と表現した事を覚えておいででしょうか?」

「ええ、確か『宇宙』とも言っていましたよね?」

 忘れるはずも無いだろう。あれだけ広げた大風呂敷だ。そんなインパクトの強いものを畳む前に見失うわけが無い。

「それと同じように、そちらの先代が残された奥義書の事を、一つの『世界』と捉えてみては如何でしょう?」

 そんな事を急に言われても理解に苦しむ左文字だが、胤厳和尚は根気よく教え諭すように説明する。

「つまりは、一つ一つの絵が意味を持つのだと考えるのではなく、全体が一つの(ことわり)を表すのだと考えるのです」

 六道曼荼羅が六つの道を六つマス目に分けて描きつつ、その全体を以て一つの輪廻を表している。

それと同じように、奥義書もマス目の絵を別個に考えるのではなく、一連の物事として考えるべきだと胤厳和尚は諭して聞かせる。

「それから、もう一つ。視点を変えてみては如何でしょう?」

「視点…ですか?」

 そう言われてグルグルと、奥義書を写した写真を回し出す左文字だが、そうではないと胤厳和尚は笑ってそれを諌めてくれる。

「視点と言っても物理的な物とは限りません。ほら、色々とありますでしょう?」

 ―――それは、つまり…。

 その瞬間、左文字の脳裏に天啓の如くアイディアが浮かぶ。

「そうか、この絵はそう言う意味だったのですね」

 まるで目の前に垂れ込めた濃霧が一気に晴れるような感覚だった。

 これならば見据える先がハッキリと解る。今まで難解だったこの奥義書がウソみたいに簡単に理解できてしまう。

「どうやら、悩みは晴れたようですね」

 迷宮をようやく抜け出した左文字を満足そうに見据える胤厳和尚。

 左文字としても胤厳和尚には感謝の気持ちしかない。

「今日はお世話に成りました」

「いえいえ、悩める人の助けに成る事こそが、僧侶の役目で御座いますから」

 ここに来てどれほど時間が経ったのか。 一頻(ひとしきり)話し終えた二人は気が付くと、時計は既に午後五時を回っている。

そんな時間に成ったなら、冬の空は既に夜が覆っており、眼下の市街地には無数の明かりが灯っている。

「お陰様で奥義書について自分なりの答えが得られました」

 丁寧に礼をする左文字に、胤厳和尚は満足そうに頷いている。

「それは良かった。時間を掛けて、考え抜いて、答えを出して動く事。それが悩むことの大切さですよ」

 その言葉を頭の中で反芻しながら、左文字は善光寺から長野駅へと続く緩やかな坂を下ってゆく。

 目の前は夜の(とばり)に包まれた暗闇だと言うのに、左文字の目の前は明るく輝いているように見える。

 左文字は居ても経っても居られなかった。

 あの奥義書の内容が解ったという気の逸りだけでなく、それを成すための準備が必要だと気が付いたからだ。

 ―――しかし、これが上手くいけば、今度こそ『アクタガ』さんと戦える!

 そんな考えが浮かんで来れば、進む足が止まらなくなる。

 だから、一刻も早く宿へと帰らねば。

 そんな事を考えて、左文字は脇目を振ら無過ぎたため、あわや交通事故に巻き込まれかけてしまった。

「マッタク、大丈夫でしょうか?」

 手から離れたボールの様に、一目散に坂を下って行く左文字を見送りながら、胤厳和尚は心配になる。

「しかし、同じ左文字でも、代が違うと随分と違うものですね」

 そう呟いて胤厳和尚が取り出した写真には、若い頃の当人と先代左文字が写っている。

 そもそも人が違うのだから、性格も考え方も違うだろうか、あれだけ唯我独尊を貫いた人物の弟子が、悩み苦しむ人格であったことは、胤厳和尚にとって意外な事であった。

「まあ、トンビが鷹を生む例えもありますか。…喰い逃げ屋の技量についてはどうかも解りませんが」

 さっきまで談笑していた一室に戻ってきた胤厳和尚は、フフフと含んだ笑いを浮かべながら独り呟く。

「さて、私は頼まれていたことはやりました。後はアナタ次第で御座いますよ。若い左文字さん」

 何かこの先を楽しむ様な、何か先に希望を託すような、そんな期待を膨らませた胤厳和尚は最早届くはずの無いエールを送った。



「斉場君! 斉場君はどこですか!」

 駅からそのまま宿まで雪崩込んだ左文字は、そこら中を引っ繰り返すがごとき勢いで斉場少年のことを探す。

「ぇぇ…どうしたのですか? 師匠」

 その尋常ではない左文字の様子に、斉場少年も恐る恐る顔を出す。

「そこに居ましたか斉場君。チョットこっちへ来てください」

 そんな斉場少年のことを見つけた左文字は、彼の返事を聞くこともなく、その腕を掴んで引きずってゆく。

 宿の隅々まで行き届くこの騒ぎ。一連の様子を辺場教授と研究室の生徒たちも目撃したが、触らぬ神に祟り無しと、宛ら亀の様に出した首を部屋の中へと引っ込めてしまう。

「イッタイ何なんですか、急に⁉」

 その間も、当惑する斉場少年が何度となく理由を聞くが、左文字は「イイから、イイから」と言うのみで、全然応えようとはしなかった。

「さて、ここですね」

 そして、漸く左文字が足を止めたのは、宿の厨房の前であった。

「ココって、キッチンですよね。ここに様が有るのですか?」

 引っ張られ過ぎて伸びてしまった腕を振り、不満げな表情の斉場少年が問い詰める。

「そうです。それでは入りましょう」

 しかし、左文字は返事もソコソコに、気にも留めずに厨房へと入ってゆく。

 厨房の中は整然としていて、清潔で神聖な雰囲気が有った。

 タイル張りの床と壁。ステンレスのシンクとテーブル。道具の手入れは隅々まで行き届いており、その空間に塵や曇りの一遍も見られない。

 こんな場所へ土足で踏み込むのは気が引けてしまうところだが、左文字はお構いなしにズイズイと厨房を歩んでゆく。

「すみません、お客様。こちらは関係者以外立ち入り禁止でして」

 それを見咎めた料理人たちに制止されるが、逆に左文字は問い返す。

「解っております。ですが、少しでイイのでお邪魔させてもらえませんか?」

 思ってもみなかった申し出だったためだろうか。料理人たちが顔を見合わせる中、料理長と思しき人物が進み出る。

「チョットじゃないですよ。困りますよ、お客さん」

 そう言って是が非にでも追い出そうとする料理長だが、ふと、何かに気が付いたようにシゲシゲと左文字の顔を覗き込む。

「もし、失礼ですが、アナタ…左文字さんじゃありませんか? 喰い逃げ屋の」

「言われてみれば…」「えっ⁉ あの有名な喰い逃げ屋の?」「イヤイヤ…そんな本物な訳…アッ、本物だ」

 自分の顔に何か付いたままに成っているのかと、手で触れたり斉場少年と顔を見合わせたりしていた左文字だが、意外な反応に思わず驚いて料理長の方を振り返る。

「ええ、確かに私は左文字ですが」

 答えた瞬間に厨房内が湧き上がる。

 驚きたじろぐ左文字と斉場少年。そんな事もお構いなしに料理人たちが互い違いに握手と写真撮影を強請(ねだ)ってくる。

「いやぁ…左文字さんの活躍はいつも拝見させてもらっております。前回の『カタクナ』での喰い逃げ屋はホント見応えありました」

「ああ…どうも、ありがとうございます」

 ガッチリと握手した手を千切れんばかりに振るう料理長に気圧されながら、左文字は何とか返礼する。

「それで、こちらへはどう言ったご用件で? …まさか、私どもに喰い逃げ屋の挑戦を⁉」

 その一言に料理人たちが一斉に臨戦態勢に入る。

 しかし、それは左文字への敵愾心によるものではなく、左文字に挑まれることを光栄だとでも言う様な、何か期待に満ちた眼差しが揃っていた。

「いいえ、ご期待頂いているところを申し訳ないのですが、そういう訳ではなく」

「そうなのですかぁ…」

 ゴム風船が一気に(しぼ)んでしまうように、厨房を満たしていた熱気は一瞬のうちに冷めやってしまい、料理人たちは誰しもいじけた様子を見せている。

 こんな場面を見せられたら、決してこちらが悪くなくてもなんとなく謝りたくなってしまうではないか。

「師匠、イイ加減、要件を教えてくださいよ」

 気拙く成っている左文字に対し、散々待ち惚けを食らわされ続けた斉場少年が、不貞腐れた表情で小突いてくる。

「そうでした。油を売っている暇は無かったのでした。料理長さん、チョット相談が有るのですが」

 一番ショックを受けており、地面にめり込むまんばかりに項垂れている料理長は、左文字に声を掛けられると、生気の無い瞳のまま顔を上げる。

「その、図々しいことを言いますが、少々協力してほしいのですが?」

「何なりとお申し付けください!」

 さっきの沈痛な面持ちは何処へやら、テンションが最底辺に落ち込んでいた分、反動で飛び立つバネ仕掛けの如き勢いで料理人たちが復活する。

「いやはや、名誉な事ですよ。左文字の挑戦者に成る事は勿論ですが、協力者に成れることは滅多に無い事ですからね」

 意気揚々としている彼らを見ていると、自分がそこまで信用の置ける人物だったかと左文字は困惑してしまう。

 しかし、これは隣でドヤ顔のままふんぞり返っている斉場少年の尽力による賜物なのだろうと思うと複雑な気分になる。

 あれだけ鬱陶しく思っている喰い逃げ屋の実況配信動画だが、こうやって喰い逃げ屋としての左文字の知名度が上がることで、色々と身動きが取り易くなってゆく。

 こんな事、10年前には想像だにしない事だった。

 マッタク、イイ時代に成ったものだ。

「それでは、チョット厨房を使わせていただきます」

 だったらその恩恵を浴びるほど受けようと、遠慮の欠片も無くなった左文字は、答えも聞かずズイズイと厨房の中へと入ってゆく。

「イッタイ何をなさるつもりですか? 焼き物ですか? 揚げ物ですか? それとも蒸し料理ですか?」

 太鼓持ち宛らにすり寄ってくる料理長を見て、これは少々度が過ぎているなと思いつつ、左文字は「秘密です」と答える。

「流石は左文字さん。勝負を心得ていらっしゃる。壁に耳あり障子に眼あり。口に戸口は立てられぬ。情報漏洩は最小限に留めようと言うのですね」

 そこまで考えてはいない左文字だが、向こうが勝手に納得しているのなら、辺に訂正するつもりも無い。

「どうぞ、ここに有る食材と調理器具はすべて自由に使って下さい。…おい、何だこれは! 何でブラックタイガーなんだ! 伊勢海老を調達して来い」

 料理長は用意してあった食材が気に入らなかったのか、アレやコレやと料理人たちに指示を飛ばし、終いには自分も食材の調達に行くと言い出して出て行ってしまった。

「僕は好きですけどね、ブラックタイガー。昨日の海老しんじょう美味しかったですし」

 結局、その場に残ったのは左文字と斉場少年の二人のみ。急に静かに成った厨房でそんな風に斉場少年が呟いた。

「さて、これで心置きなくやれますね」

 気を取り直した左文字は、料理人たちが置いて行った食材と調理器具の中から、必要な物をヒョイヒョイと選んでは、斉場少年の前に並べてゆく。

「わわっ…こんなに」

 山盛りの野菜。沢山の魚介。海の幸山の幸節操なく積み上げた左文字は、一息吐いて手を叩く。

「さて、斉場君。これから修行を始めましょう」

「おお…遂に」

 思わず斉場少年の表情が引き締まる。

 左文字の下に指示してからと言うもの、斉場少年が修行らしい修業を付けてもらったことが無く、口には出さなかったものの心の中ではまだかと待ち望んでいた事だった。

「それで、師匠。イッタイどのような修業を付けて下さるのですか」

 左文字の技は喰いも逃げも多岐にわたる。

 しかも左文字は先日の古墳で見つけたマス目の奥義書から、新しい技も仕入れてきているのだ。

「そうですね…」

 どんなトンデモナイ技を教えてもらえるのかワクワクして止まらない斉場少年を見て、左文字はニヤリと悪い笑みを浮かべた。


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