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喰い逃げ屋 左文字 - 2  作者: 楠木 陽仁
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2-3

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 新潟方面からやってきた自動車が、須坂長野東インターで降りてゆく。

 車はそのまま市街地を走り長野駅前までやってくる。

「どうも、有難う御座いました」

 開いたドアから降り立ったのは、背中に『㊧』と染め抜かれた印半纏を羽織る、歳の頃で言えば十代後半の少年だった。

 …いや? 少年だろうか? 改めて見てみれば少女にも見える。

 だが、そんなことなど些細なことと、性別不詳の若者は、深々と車の奥へ向けて頭を垂れる。

「いやねぇ、中々に左文字さんとの旅は痛快だったよぉ。こっちでもまた『喰い逃げ屋』をやるのかい?」

 車を運転するオバさんが、ニッコリと笑って手を振っている。

 彼女と左文字と呼ばれた若者との関係は、ヒッチハイクによって繋がった行きずりの関係である。

 しかし、その付き合いは長く、左文字とオバさんは、すでに一週間は一緒にドライブを続けている。

 左文字が先代からその名跡を継いだのは今から数ヶ月前のことであり、そこから左文字は自分の力試しのために武者修行と称して全国を行脚していた。

 先ずは北海道の札幌へと渡り、そこから南下するように東北六県を巡り、その土地々々(とちどち)で喰い逃げ屋を繰り返してきた。

 そして、左文字はその全てに勝利を収めており、乗りに乗った勢いで、長野まで殴りこみをかけに来たのである。

 その新潟から長野へと向かう道中を付き合ってくれたのがこのオバさんであり、ゆく先々で左文字の喰い逃げ屋をその目に焼き付けてきた彼女は、スッカリその魅力に取り付かれた一人となっていた。

 しかし、二人の道中も終わりの時はやってくる。オバさんの実家のある長野へと辿り着いたならば、つまりはこれがその時である。

「それじゃあ、ガンバってね! オバちゃん応援しているから!」

 名残を惜しむようなテールライトの赤い帯が残像し、オバさんを乗せた車が遠く離れて見えなくなってゆく。

 それを見送った左文字は一息吐いて街の案内図を眺める。

 ―――さて、今晩はどうしたものでしょうか?

 日銭も無い、宿の宛も無い。そんな状況で今日の夜をどう過ごしたものかと考える左文字は、善光寺の近くに公園があることに気がついた。

 ―――そこに行けば水がありますね。それならば何とか成るでしょう。

 善光寺の東隣にほぼ同規模の面積を誇る公園があり、その名を『城山公園』という。

 そして公園へと辿り着いた左文字は、落ち着ける場所がないか、グルリと園内を一周することに決めた。

 公園の形状は長野県の形と同じく南北に長い作りとなっている。

 駅のある南側から巡っていくと、先ず公園のシンボルとなる噴水が出迎える。そして、その噴水から少し北に歩いて行った所には、こちらもまた名物の花時計が備え付けられている。

 さらに北へと進むと、ふれあい広場と看板が建てられた広い芝生の広場が見えてくる。

 ―――あぁ、ここがイイかもしれません。

 左文字がそう思うように、広場には有り難いことにトイレが設けられている他、東屋(あずまや)が建てられており、急な雨を凌ぐこともできる。

 また、綺麗に借り揃えられた芝生は実に寝心地が良さそうではないか。

 早々に今晩の第一候補を見つけた左文字は、イソイソとバックパックから寝袋を取り出し始める。

 空は未だに夕暮れだが、夏の日長にあっては時刻として既に夜の七時を回っている。

 こうなっては早々に野宿の準備をしなくてはならない。本当に真っ暗になってしまっては、取るもの準備するのも不自由と成ってしまうから。

 しかし、若者が一人寂しく野宿とは。少しは何とか成らんのか。

そう思うかもしれないが、そもそも先に言ったように左文字はただ今無一文なのだ。

 故に宿代すらも払えない。然るに野宿するしかない。

 幸い今の時期が夏であるため、長野で野宿をすることに命の危険は無いだろう。もしこれが冬であったのならば、ゾッとして寒からしむ話では済まされない。

 しかし、(すき)(ぱら)を抱えたまま眠るのは、夏も冬も関係なく辛いものがある。

 ―――明日は、喰い逃げ屋を打たなければ…。

 そして、食にありつくには喰い逃げ屋をせねばならず、そのための体力を温存するべく、早々に休むつもりだったのだ。

「もし、そこの若人(わこうど)

 左文字が声をかけられたのは丁度そんな折だった。

 横たえた体をムクリと起こし、声のする方に目をやられば、夕闇に暮れ泥むふれあい広場の芝生の上に、一人佇む影を見る。

「…どなたですか?」

 長野に知り合いがいないので、声をかけられる(いわ)れのない左文字は、(いぶか)しみながら逆に問い返す。

 すると人影はツカツカと、無言のままに左文字の方へと歩み寄ってくる。

 イッタイ何なのだ。左文字は警戒しながらその人物を注視するが、その姿がハッキリと見えると安心した様子になった。

 その人物は僧侶であった。

 善光寺の僧侶なのだろうか。頭を丸め、袈裟を着て、物腰も柔らかな老僧侶が左文字を眺め佇んでいる。

「この様なところで野宿ですか?」

 僧侶は落ち着く声色で左文字にそう問いかけてくる。

 問われて嘘を言う必要もなく、現状を見れば隠しようもないため、左文字は素直に「ええ、まあ」と答える。

「お若いのに野宿とは大変ですね。宿も決まっていないのですか?」

 余計なお世話だと思う反面、僧侶がこちらを心配してくれている真心はヒシヒシと感じるため、無下には話を打ちきれない。

「その、恥ずかしいことなのですが、路銀が底を着いてしまいまして、このような有様なのです」

「それは大変ですね」と感心した様子の僧侶は、ポンッと一つ手を打つと「それならば」と左文字に話を持ちかける。

「もしよろしければ、拙僧の宿舎に今晩は宿を取りませんか? もちろん宿代は心配しなくても大丈夫です」

「…⁉ 本当ですか? ですが何もお礼何て出来ませんよ」

 願ったり叶ったり。随分と都合のイイ話が舞い込んできたものだと思う反面、都合が良過ぎて逆に怖くなってしまう。

 何でこんな事を、しかも見ず知らずの人間にするのか。不思議に思った左文字が訊けば、ニコリと微笑んで僧侶が返す。

「これもまた功徳です。迷える人、困っている人を助けることも、また御仏の道なのです」

 それならば僧侶の仏心に甘えるとしよう。

 迷いを捨て去り二つ返事で厄介に成る事を決めた左文字に、僧侶は満足そうな笑みを浮かべて合唱をする。 

「申し遅れました。拙僧は『(いん)(げん)』という未熟者に御座います。袖擦り合うも多生の縁と思って以後お見知りおきを」

「左文字と申します。一晩お世話に成ります」

 そうして左文字が案内されたのは善光寺にほど近い寄宿舎で、僧侶たちはここに住まい、日々の修業をするという場所であった。

「胤厳和尚は私の様に、よく人を招くのですか?」

 風呂を使い、精進料理を振舞われ、満ち足りて気分も新たに茶を啜る左文字が、上機嫌のまま胤厳和尚に問い質す。

「そうですね、あの公園には時々、行く宛のない人が迷い込んでくるのです。そういった人たちを招いては、お話を聞かせてもらうのが拙僧の(ささや)かな楽しみなのです」

 まるで御伽話昔話の筋書きのようだ。

そんな事もあるのかと、思う左文字は胤厳和尚の求めに応じ、一つ身の上話をと、これまでの武者修行の旅の話をする。

「そうして新潟の白米を、お釜10個平らげた私は、糸魚川駅まで逃げ切って勝利を収めたのです」

 我が事ながら語る口調に熱が入った左文字は、多少の尾鰭を付けて喰い逃げ屋の激闘を熱心に聞かせる。

 対する胤厳和尚は、静かに耳を傾けている。

「それでは、今度はこの長野でその『喰い逃げ屋』を行うのですか?」

「ええ、勿論です」

 一頻(ひとしき)り語り終えた左文字は、胤厳和尚からの問いかけに、意気揚々と答えてみせる。

 何せ破竹の連勝街道驀地(まっしぐら)なのだ。阻むものも怖いものもなく、このまま一気に日本縦断も夢ではないと左文字は思っている。

「胤厳和尚さんも是非、応援して下さいね」

 鼻息荒く粋がる左文字に、胤厳和尚は余裕タップリの様子でホホホっと笑って返す。

「勿論ですとも。しかし、随分とその喰い逃げ屋というものが大好きなのですな」

「ええ、まあ」

 左文字はそう答えておくことにする。そもそも左文字は喰い逃げ屋など生きる術であり、好きでも嫌いでもないことだが。

「ただ、用心なさい。食べ物を以て遊ぶと餓鬼道へと通じますよ」

「…急に説教ですか?」

 先ほどまで調子よく喋っていたのに、急な肩透かしを食らった左文字は、勘ぐる様な雰囲気で、胤厳和尚と正対する。

「僧侶ですから。まあ、人生の先輩の忠告と思って心に留めておくといいでしょう」

 先程まで胤厳和尚から漂っていた柔和な空気が一変して、まるで後光が差したかのような、静かな雰囲気が場を満たす。

「『食べ物を祖末にするな』とか『食べ物で遊ぶな』とか、親が子供を躾けるためによく言われるでしょう。それもそのはずです。私たちが普段食べているモノは、水や塩でない限り、何かの命を奪っているということなのです」

「それはそうかもしれませんが…」

「ですから、食べ物を粗末にすることは罪深いのです。必要以上に食べることもまた同じことです。あなたが余計に食べるという事は、誰かがその分食べられ無く成ったという事でも有るのですから」

 胤厳和尚が言うことは実に的を射ている。彼の言うことには嘘はなく、それが道理なのだろう。

「そして、左文字さん。『いただきます』の言葉の意味を考えてみたことは有りますか?」

『いただきます』。その言葉は普段何気なく口にしている言葉だ。しかし、それについて深く考えている人は多くないだろう。

 現に左文字も考えているわけではなく、「特には」と返事するに留まるほどに気にも留めていなかった。

「そうですか。ならば良い機会です。覚えておきなさい。『いただきます』のこと言葉は、『あなたの命を私の命に変えさせていただきます(・・・・・・)』を略した言葉なのです」

『こんにちは』が『今日(こんにち)はお日柄もよろしく―――』の略であるように。また、『さようなら』が『左様(さよう)ならばこれにて―――』の略であるように。

 日本語の挨拶、掛け声は、何かを略した言葉であることが多い。

 その例に漏れず、『いただきます』もまた略した言葉であり、その全文を知ればどれほど命を尊び、敬う言葉であるのか理解出来る。

 この言葉を口にするのなら、そして理解したのなら、その意味に対して留意する必要がある。

「仏門の教えに『諸行無常』と言うモノが有ります。すべてのモノ、命は世界で流転して常ならず、形を変えてまた別の何かと繋がりを持つモノです。そう、命あるものを料理して、それを自分の命へと変える食事もまたその命の循環に則るものです。そして、仏教に於いて命の循環は他にもあります。知っているかもしれませんが『輪廻転生』がそれに当たります。『諸行無常』がこの世界、『当代』における命の循環なのだとすれば、『輪廻転生』は過去と未来の時間、『歴代』における命の循環なのです。先ほど話をさせていただきました『餓鬼道』はこの輪廻の中の世界の一つです。そして、輪廻によって魂が転生する先は、生前に積んだ因果によって決まるとされます。故に命を軽んじては成らないと言うのです。これは別に来世の話だけではありません。当世に於いても気構えは人を作ります。己を鑑みず堕ちるべき人は当世に於いても鬼畜と呼ばれるのですから」

 随分と長く語るものだ。

 胤厳和尚が語り続けたその間、二の句が継げない状況に在り、黙って聞く側に落ち着いていた左文字。

 しかし、胤厳和尚にとって説法は日常の所作の様なもの。澱むことなく、それでいて此方の様子を窺い、興味を惹くような語り口調に思わず左文字も耳を傾けてしまった。


「確かに、和尚さんの言っていることは尤もなのかもしれませんね」

 左文字も素直にそう言った。

 何かと難しい言葉が多くはあったが、その内容は理解できる。

 命であれ何であれ、この世に生きとし生けるモノならば、知るも知らぬも関係無く多少の繋がりを持っており、それがどう影響するかも解らない。

 自分の行いが、生まれ変わりであったとしても、そうで無いとしても、他の誰かに影響すると言うのなら、それは生き死にを介さずとも現実で起こりうる事ではないか。

 普通であるなら考え直すに至らずとも、心の何処かに留め置いて、自らを振り返る(しるべ)としてもイイ。それ位に重みのある言葉だと左文字自身も思えていた。

「ですが、それがなんだと言うのです?」

 しかし、左文字の口を突いて出た返答はこの言葉であった。

 左文字にとって喰う事と逃げる事は、生きるための手段、道具でしかない。

 一刀参拝の礼を以て神仏を掘り上げる仏師ならばまだしも、信心に浅く、誇りも低く、日々を生きるに余裕の無い人間。それが今の左文字なのである。

そんな左文字が、自分の生きる手段や道具に於いてそこまでの思いを込めることが出来るだろうか?

その程度の思い入れしか無いのだから、それに対してどう言われようが、知った事では無い。

 だからこそ、左文字に胤厳和尚の言葉は届かなのである。

「それに、餓鬼道に落ちるとか、そんな事がどうだというのです? 私は自ら外道を行くと自負しているのですよ。人の道など既に外れているのなら、鬼にも畜生にも成ったところで変わりないですよ」

「なんと…」

 胤厳和尚にとって左文字との会話はいつもの説法と同じく、軽い話のつもりだったのだろう。

 しかし、当の左文字が背負った業の深さに、胤厳和尚は言葉を失う。

 左文字を若者と思って甘く見ていたのだ。啄いた藪から飛び出た蛇が、こちらの喉に食らいつく。それほどまでに左文字の業は気楽に触れるべきものではなかった。

「それに私は昔に地獄を見ています。この先待つのがどんな罰であったとしても、それに比べればものの数ではありません」

「…若いのに、随分と大変な人生を送っているようですね。良ければ語って聞かせてくれませんか?」

 そうは言われても、話して気持ちのいい事じゃない。そんな事を易々と、今日あったばかりの人間に話すことでもない。

 黙っていれば左文字の心を察したのか、仕方ないと頷いて、胤厳和尚はそれ以上問い詰めることをしなくなる。

「その道を往くというのなら、最早私は止めません。ただ、感謝の心を忘れないでください。あなたの業は幾つもの命の上に成り立っているのですから」

 マッタク、抹香(まっこう)臭い話は苦手だ。

 左文字は胤厳和尚と別れ、客間の布団に潜りながら、和尚の言葉を振り返る。

 あの会話、とても自分が真っ当であるはずがない。

 正道は和尚にある。自分自身が邪道であることは重々承知している。こんな物を掲げて押し通ったところで、道に迷うのは此方だというのに。

 それでも、自分が歩いてきたこの道を、これしか知らない道を否定されることは、まだ若い左文字には看過できないことだった。

 だからこそ、左文字は翌朝早々に寄宿舎を後にすることにした。

 荷物をまとめて部屋を出て、玄関まで差し掛かったところ、背後から「もう出発されるのですか?」と呼び止められる。

「…お世話になりました」

 左文字が礼を云うその先には、こんな時間で既に掃除を始めている胤厳和尚が箒を持って立っている。

 正直言うと左文字は和尚と顔を合わせ辛かったから、こんな朝早くに寄宿舎を立とうとしていたのだ。

 だからこそ気拙い。夏だというのに無言の凍えた空気が二人の間に流れている。

「もう少ししたら、朝餉(あさげ)の時間となりますよ。食べては行かれないのですか?」

 沈黙を遮った胤厳和尚の問いかけに、左文字は首を横に振る。

「そうですか…ならばこれを持っていくといいでしょう」

 少々名残惜しそうにする隠元和尚が取り出したのは、竹の皮に包まれたおにぎり二つとお新香だった。

「もう少しゆっくりと話を聞いて見たかったのですが、あなたが語らないのであれば致し方ありません。ただ、気が変わったのなら、いつでもここへいらっしゃい。私はあなたを歓迎しますよ」

 そう言って微笑む胤厳和尚に、左文字は頭を垂れると、別れの言葉を言う事も無くその場を後にした。

 後味が悪いものに成ってしまった。城山公園のベンチに腰掛けて項垂れる左文字は、染み付いた癖で「いただきます」と言ったあと、受け取ったおにぎりを頬張る。

 具が何も入っていない白飯のおにぎり。米の甘味といい塩梅の味付けが、これが虚飾のない自然なのだと味わわせてくれる。

 ―――こんなに優しいのに、どうして私は素直じゃなかったのでしょうか。

 粋がる事に狂うのが喰い逃げ屋の心意気なのだとするのなら、なんて生き辛い人生なのだろうと、今更ながらに左文字は思う。

 胤厳和尚の心遣いは確実に善意であったはずだ。その実、和尚という己のあり方に順じた行動に過ぎなかったとしても、差し伸べられた温かな手があったはずだ。

 だが、左文字はそれを拒絶した。差し伸べられたその手を振り払ったのだ。

それを突っぱねねばならないなら、こんなに難しい生き方はない。

―――ああ、こんな気分で一日を過ごすなんて。

ごちそうさまと言葉を述べて、ベンチにゴロンと横になった左文字は、考えの混濁となった脳裏を遮断するために、目を閉じて一眠りすることにした。

朝が早かったからだろうか、そのまま昼過ぎまで寝入ってしまった左文字がムクリと体を起こせば、目覚まし時計のように腹の虫が鳴き声を上げる。

―――腹が減りました。

だったれば、当初の予定通り喰い逃げ屋を打つしかない。なにせコンビニでおにぎりを買うお金すらないのだから。

フラフラと夢遊病患者のように善光寺の門前通りを歩く左文字は、まさに飢えた獣の眼差しで辺りの飲食店を見渡した。

ちょうど今はお昼時だ。どこの店も観光客で賑わっている。

中でもやはり名物なのだろう。蕎麦屋の数が多く見える。

ツルツルとザル蕎麦を手繰る人。かぶりつくようにかけ蕎麦をかっ込む人。ジワリとツユの染みこんだ天ぷらを頬張る人。

薬味に使う地元の老舗『八幡屋礒五郎』の七味唐辛子が香り高く、蕎麦の味をひと味もふた味も引き立ててくれる。

―――イイですね。蕎麦の気分になってきました。

これはそば以外には考えられない。あとは店を探すだけだ。

こうなった左文字の嗅覚は研ぎ澄まされており、大食い競技を行っている店を探知する力がとても高くなる。

そして10分もしない内に左文字は目的の店に辿り着いた。

店の暖簾に『アクタガ』と書かれたその店は、蕎麦屋にしては新しく、洒落た作りの店構えだった。

むしろこういうお店こそ、リベラルだから、老舗のような四角四面の店ではできない大食い勝負ができるのだろう。

―――では、参りましょうか。

暖簾を潜って中に入れば「いらっしゃいませ」と店員の声が飛んでくる。

「お客様、お一人様ですか?」

 若い感じの店員が恭しく左文字の所までやってくる。

 もちろん一人だと答えると、こちらへどうぞと一人がけのテーブル席へと案内される。

 左文字はお品書きを手に取りながら、店の内装を見渡せば、洒落た店の外観とは裏腹に、落ち着いた調度品が飾られており、随分と雰囲気が違って見える。

 しかし蕎麦を食うならば、このくらいの方が丁度イイのかもしれない。

 出されたお茶を啜りながら、お品書きへと目を落とすと、有るではないか、大食いチャレンジ用のメニューが。

 写真が貼られていないため、その全容は明らかではないが、『超大盛り』だの『50人返り討ち』だのと、こちらの闘志を掻き立てる文言から、自信の程が伺える。

 しかも何と有り難い事か、全部食べ終えたなら食事代がタダになった上、尚且つ賞金まで出るという。

無一文の差文字にとってはまさに天の恵み。これに乗らない手はないだろう。

「ご注文はお決まりですか」

 腹を括った左文字の元に、先ほどの店員が見事な営業スマイルを湛えながら、御用聞きにやって来る。

「それでは、チャレンジ蕎麦一つ。お願いします」

 ならばこそ意気揚々に注文する左文字とは対照的に、その注文の一言が木霊するほど店の中は一気に静まり返った。

「おいおい、本気かよ」「また間違って注文したんじゃないの?」「あんな優男…んん? 少女? まあ、どっちにしろ大食いできるようには見えないしな」

 静寂の中に雨粒がポツポツと波紋を広げるように、あちらこちらで左文字の発言を暴挙と捉えて好き勝手な密談が湧き上がっている。

「あの…お客様…」

 注文を取っていた店員も、どうしたものかと困り顔。自慢の営業スマイルも歪んでは、苦笑いにしか見えないではないか。

「申し訳ありませんが、こちらのチャレンジ蕎麦は大変ボリュームが多くなっております。そのため一般の方ではとても食べ切れるような量ではないと思われます。もし、お腹イッパイ食べたいのでしたら、通常の蕎麦を大盛りで注文することをお薦めしますが、如何でしょうか?」

 それが店員の精一杯のフォローなのだろう。

きっとこのメニュー、何気なく考えもせず、量が多いからと頼んでしまう人が多くおり、その何れもが腹の皮をはち切れさせてしまったのだろう。

 ―――しかし、

「いいえ、間違いではありません。チャレンジ蕎麦をお願いします」

 断固とした左文字の言葉に、店の中のザワめきはより一層のものと成る。

 本気なのだろうか? 正気なのだろうか? だとしたらなんて粋狂なのだろうか。

 奇異の目に晒される左文字だが、それを意に介する様子など一向になく、毅然とした態度で客席に座したまま動かない。

「本気なのですね?」

 これが最後通告だ。そう言わんばかりに重々しい、店員の問いかけにも左文字は黙って頷いた。

「よござんす。チャレンジ蕎麦一丁! 入りました!」

「マジでやるのか!」「久しぶりだな!」「チョット待ってろ! 向かいの斎藤さんを呼んでくる!」

 店員のオーダーを叫ぶ声が店中に響くと、堰を切ったかのように、静寂を打ち破って各々声を上げて騒ぎ出す。

 誰もがよほどこの大食いチャレンジに息巻いているということだろう。自ずと左文字にかかる期待も大きくなる。

「それと、店員さん。チョット提案があるのですが」

 唐突に左文字に話しかけられた店員は、狐に摘まれたような顔になる。

「ただ単に大食い勝負をするだけでは私の主義に反します。なので、ここは一つ『喰い逃げ屋』で勝負したいのですが…どうでしょうか?」

「喰い逃げ屋?」「なにそれ?」「知らん」

 相変わらずの反応とはいえ、喰い逃げ屋の知名度の無さには左文字も思わず溜息が漏れてしまう。

 喰い逃げ屋を挑む先々で、一からルールを説明しないと始まらないというのはなかなかに骨が折れる。

 まあ、それはすでに慣れたことで、左文字が掻い摘んだ喰い逃げ屋の概要を説明すると、店員は余計に困惑した顔を見せつける。

「えぇ…ホントにそんなことをするのですか?」

 そして、どんなに説明したところで理解が及ぶことは希であり、今回も左文字の説明は空を切り空回りして届く様子はなかった。

「まあ、私の粋狂だと思って、どうか付き合ってもらえませんか?」

「そう言われましても…」

「粋狂。面白そうじゃないですか」

 どうしたものかと考え倦ねている店員の背後から、スッと進み出てきた小柄な男性が、話に入り込む。

「あ、店長」

 店員にそう呼ばれたのはこの『アクタガ』の店長である。

 小柄な体躯に紺の作務衣を纏い、柔和な笑顔に一筋切れ込みを入れたような糸目。年齢は既に中年を超えていると思われるが、日々の麺打ちのためか体は締まっており、雰囲気が若々しく感じる。

「話は聞かせて貰いました。左文字さん…でしたっけ? 喰い逃げ屋ですか。そんな面白い催しがあるのですね」

 興味深げに近寄ってくる店長に、左文字も「解っていただけますか」となんとも嬉しい気分になる。

「ですが、店長。追いかけるって言ったって、こちらには人手がありませんよ」

 そこへ水を差すように、店員が不満の声を上げるが、店長はそれを片手で制してニヤリと笑う。

「もちろんそれはそうでしょう。けれども、要は逃げるところまで辿り着かなければ、蕎麦を食い切られなければ良いということでしょう? それなら人手は案ずることはありません。左文字さんも席から立ち上がれないでしょう」

「ご主人、随分なことを言いますね。よほど自信が有るようで」

 その瞬間、二人の間に火花散る。

 明らかに既に互が臨戦態勢にある。言葉の端々、張り詰めた空気。それら全てが戦いの幕開けを暗示しているようだった。

「そろそろ私の出番のようね」

 この緊張感に一石を投じるようなその台詞。店にいる誰もがその女の声を耳にする。

 声する方に目をやれば、カウンターに座っていた和装の少女が振り返る。

「やはり来ましたか。お玉さん」

 そう左文字が言うように、唐突に石神井玉藻が湧いて出た。

「それはそうよ。喰い逃げ屋ある所に私の影有り。特に左文字さん。アナタの喰い逃げ屋があるのなら、何処へなりとも駆けつけるわ」

 左文字と玉藻。二人は長い付き合いだから既に分かりきっていることだが、左文字が喰い逃げ屋をやろうとすると、何処からともなく玉藻が現れて、その立会人を買って出る。

 別に二人が示し合わせているわけではないし、一々左文字も玉藻に行先を告げているわけではない。

 それなのに必ず玉藻が現れるのは、どういう訳なのか不思議ではあるが、左文字にとってそれは些細なことであり、深く考えることはない。

 ただ、きっと自分は玉藻から逃げ切ることは出来ないのだろうという予感だけは、左文字の中にはあるのだった。

「さて、これで『喰い逃げ屋』と『追っ手組』、そして『立会人』が揃いまして、正々堂々と喰い逃げ屋を執り行える運びとなりました」

 玉藻が(かしこ)まって、形式ばった言葉を言い放つ。

 このように立会人が音頭をとって、喰い逃げ屋と追っ手組が向かい合い、示し合わせを行うこと。これが正式な喰い逃げ屋を始める段取りである。

「まず、ルールの確認をいたします。喰い逃げ屋が店から提供される料理を全て平らげて、尚且つ走って長野駅まで逃げ切れば、食い逃げ屋の勝ちとします。異論はありませんか?」

「問題ありません」

 返答し、首を縦に振る左文字は、逃げる範囲を確認し、善光寺中央通りを中心に、100m圏内であれば自由に逃げることが出来ることを確約させる。

「次に追っ手組の皆様方。皆様が提供する料理は通常の大食いメニュー『チャレンジ蕎麦』で、制限時間は一時間で宜しいでしょうか?」

「よござんす」

 自信ありげに頷く店長。余裕綽々、自分の勝ちを信じて言う違わないと言う様子である。

「以上、この内容で双方ともに異論が無い様であれば、目出度く合意を得たと見ますが、如何でしょうか?」

「「大丈夫です」」

「解りました。それではこれより『喰い逃げ屋』左文字と蕎麦屋『アクタガ』の食い逃げや真剣勝負を執り行います!」

 玉藻の宣言により、火蓋は切って落とされた。

 いつの間にか集まっていたギャラリーも大いに沸き立ち、ヤンヤヤンヤの喝采を上げている。

「どっちが勝つと思う」「俺は『アクタガ』が勝つと思うぜ」「だったら俺は喰い逃げ屋だな。負けたら天ぷら奢れよな」

 観衆が各々好き勝手に騒ぐ中、喰い逃げ屋の当事者たちは、それぞれ準備に取り掛かる。

 蕎麦屋の方はそれまでの注文を一旦ストップし、全員総出でチャレンジ蕎麦の調理にとりかかっている。

 ―――なるほど、そうでもしないと賄えないほどの量だというのでしょう。

 対する差文字は落ち着いた様子で、席に座ってジッと厨房の様子を眺めている。

「それにしても、随分と唐突に喰い逃げ屋を始めたものね」

 左文字の隣の席に座り、気怠げな様子で玉藻が語りかけてくる。

「おかげで駆けつけるのに苦労したわ」

「一々来なくても大丈夫ですよ」

「そんなことを言って、喰い逃げ屋の立会人をやろうだなんて物好きは、私の他に何人もいないでしょう? それに、左文字さんの喰い逃げ屋なら間近で見たいと思うじゃない」

 これは意外なことを言うものだ。左文字は玉藻の言葉に意表を突かれ、目を丸くして振り向いた。

「そんな、私の喰い逃げ屋が観たいとか、そんな風にお玉さんが思っていたなんて、思いもしませんでした。いつから私のファンだったのです?」

 照れたように、はにかむ様に、耳をほんのり赤くして、問いかける左文字のその先で、玉藻は相変わらずそっけない様子のままお冷のグラスを揺すって遊ぶ。

「まあ、あなたのファンというよりも『左文字』のファンなのよ。何せ先代の頃からずっと見てきたのだから」

 なんだ、そんなことなのか。

 玉藻の心根を知って落胆する左文字だが、当の玉藻は「まあ、もちろんあなたのことは期待しているけれどもね」と言ってはぐらかす。

「だからこそ、今回の抜き打ちの喰い逃げ屋は納得がいかないのよ。そんなにお腹が減っていたのかしら?」

「…何か拙かったでしょうか?」

 何がそんなに彼女のお気に召さないのか。理解に苦しむ左文字だが、玉藻の方も顔を顰めて首を捻る。

「そもそも、事前の準備が足りないのよ。先代だったら徹底的にリサーチをして、万全を期してから喰い逃げ屋に臨んでいたじゃないの?」

 それはそうではあるけれども…。玉藻に言われて先代との修行の日々を思い返すが、教訓よりも理不尽を強いられた苦い思いでの方が先に出る。

「でも、大丈夫ですよ。こう見えて私、何度か既に抜き打ちで勝利を収めてきていますし」

「札幌と秋田の話かしら?」

「… ! 知っているのですか?」

「立会人はやらなかったけれども、見ていたからね」

 ホントこの人は何処にでも居るのだなと、左文字は今更ながらに舌を巻く。

「まあ、そこまで知っているのなら話が早くて助かります。この武者修行で私も力を付けたということですよ」

「それは私も認めるわ」

「いいやまだまだ」等と、反論を言われることを想像していた左文字だが、玉藻の意外な返答に、思わず呆けた顔になる。

「左文字さん。確かにアナタは左文字の名前を継いで、この武者修行の旅を通して力をめきめきと伸ばしているわ。それは、アナタのこと見続けてきた私が言うのだから間違いないわ」

「…何だかちょっと照れてしまいます」

 叱られてばかりの修行時代を過ごしてきた左文字にとって、誰かに賞賛されることはあまりなく、慣れていないのか少々取り乱しているようだった。

「けれども、そこに付け入る隙が出来てしまうのよ」

 一方の玉藻は表情を崩さず、真剣な眼差しを左文字に向けて動かさない。

「よく『弘法も筆の誤り』なんて言うけれど、どんな名人玄人だってミスをするのに、ようやく素人を抜け出してまだまだ青いアナタなら、きっと何時か致命的なミスを犯す時が来ると思っていたほうがいいわ」

「そんな…私だって真剣にやっていますし」

 自分の技量にケチを付けられたと思ったのだろうか、左文字は不機嫌そうな声色で、口を尖らせ呟いた。

「いいえ、これは忠告だと思ってよく聞いておきなさい。常にベストを尽くすなら、準備を怠ってはダメ。杖が無いから転ぶのよ。特に道を外れた悪路なら尚更にね」

 ―――そんなことを言われても。

 今の左文字には聞く耳が備わっていなかった。

 ここまで続けてきた連勝の、その自信が左文字にはあるし、何よりここで喰い逃げ屋を打たなければ、今日の食事にもありつけない程に、左文字の懐事情は火の車の状態にあり、とてもではないが玉藻の忠告を深く考える程の余裕は無かったのだ。

「お待たせしました。こちらチャレンジ蕎麦にございます」

 それに、既に戦いの火蓋は切って落とされている。今更何を言われようがもう手遅れ。

ここで引き下がるという事は、銃口から放たれた弾丸を鷲掴みにし、それを再び銃口へ押し込む様な無謀である。

逃げることも引き返すことも出来ない所まで、左文字は既に来てしまっている。

 目の前に先ずはドンと置かれたのは、蒸籠(せいろ)に盛り付けられた大盛り蕎麦が一つ。

 その高さは優に20センチを超えるだろう。円錐形に絶妙なバランスで盛り付けられた蕎麦が黒く艷やかに山麓の如く佇んでいる。

 普通の人ならこれでも随分と多く感じる量は盛り付けられているのだが、大食い蕎麦に於いてこの量では肩透かしもいいところ。

 しかし、これで終わりではない。

 次々と運ばれてきたのは、先ほどと同じ量の大盛り蕎麦。それが二つ三つ、さらに続いて十を数えるに至ったところで机の90%を埋め尽くす。

「当店のチャレンジ蕎麦はこちらの10枚の大盛り蒸籠蕎麦と天ぷらを制限時間の一時間以内に食べきって頂ければクリアとなります」

 調理場から出てきた店長が、前掛けで手を拭きながら説明する。

 なるほど、確かにこれだけの量。並大抵のフードファイターならば梃子(てこ)()るだろう。

 しかし、左文字を相手にするには力不足だろう。

 ―――この程度なら、余裕でいけますね。

 そう思って左文字は戦う前から失笑してしまった。

「それでは、両者準備完了となりました。先ずは、大食い勝負。始め!」

 玉藻の号令が響き渡り、いま戦いの幕が開く。

 号令のその瞬間、躍りかかるように左文字は手に持った箸で蕎麦の山を切り崩してゆく。

 蕎麦に限らず麺類は、噛まずに飲み込むことを大食いの常套とする。

 噛めば噛むほど満腹中枢が刺激されるだけでなく、口の中で麺が粘り気を発してしまうため、飲み込むことに汁などの余計な水分を取らなければならないからだ。

 だからこそ蕎麦はスルリと丸呑みする様に食することを心がけるべきである。

 そして注意がもう一つ。それは汁を付け過ぎないことである。

 麺を食すのに汁やスープなどの味付けは欠かせないが、それらは詰まる所水分である。

 大食いにとって水分が大敵であることは、もはや説明するまでもない常識である。

 これの余計な摂取を避けるためにも、左文字は茶碗の蕎麦汁に麺を潜らせるなんて愚行は一切せず、麺の端が触れるかどうかのギリギリで蕎麦を掬い上げては平らげてしまう。

 よもやそんなので美味いのかと思うだろうが、この方法だと汁の味に蕎麦の香りが殺されることなく、より一層香りを楽しむことができる具合となっており、なかなかに乙なものである。

 奇しくもこの食べ方は、蕎麦喰いで知られる江戸っ子の食べ方に酷似している。

 つまりは江戸っ子もまた大食いの素質を持っていたと言っても過言ではない。

 そして、江戸っ子が好む天ぷらも蕎麦と相性抜群の相棒である。

 とは言え、天ぷらを食べるタイミングは今ではない。

 揚げ物を食べるという事。それは大食いをやるに当たって最も気を付けなければならい事である。

 揚げ物はその衣の中にたっぷりの揚げ油を湛えている。これを腹に収めるという事は、そのまま揚げ油を飲み下しているのと大差ない行為である。

 果たしてそんな行為をしたとして、まともに大食いが出来るのだろうか。

並の人間ならば無理な話だろう。百戦錬磨の喰い逃げ屋ならば何となるだろう。

蕎麦と一緒でないのならば。

そうである。蕎麦の水分と天ぷらの油が、腹の中で親の仇が如く喧嘩するのである。

水と油のその例えが、比喩でも暗喩でも何でもなく当て嵌まる組み合わせ。これを胃袋と言う小さな部屋の中に押し込めてしまったのならそうも成ろう。

だからこそ天ぷらを食べるタイミングは慎重を期さなければならないのだ。

左文字の流儀としては、先に蕎麦を食べ切ってから、その後に天ぷらを食べるようにしている。

こうして油を入れるタイミングを極力後にすることで、食事中に胃もたれを起こす危険性を回避する事。そして、胃の中で比重の軽い油ものを、比重の重い蕎麦の水分の上に来るようにするのが狙いである。

実は左文字、この食べ方で以前にも天ぷら蕎麦の喰い逃げ屋に成功しているのである。

攻略方法が解っているのなら、そのやり方を貫くのみ。それが筋と言うものだ。

こうしている内にも既に左文字は8枚の盛り蕎麦を平らげてしまっている。

「おうおう、あの挑戦者やるねぇ」「よくあれだけの蕎麦が腹に入るもんだ」「けれども、まだ天ぷらが有るだろう?」

 左文字の食べっぷりに賞賛と感嘆の声が聞こえる。それに混じって心配する声も聞こえて来る。

 ―――だが、大丈夫です。ここまで来ればすべて食べられます。

 腹に三分の余裕を残して、左文字が残り一枚の蒸籠の蕎麦を平らげれば、感極まった観衆が、声を上げて手を叩く。

 さあ、残りは天ぷらだ。幸い皿の上にはエビの天ぷらが3本乗っているのみ。

 これは余裕の総量だ。既に大食いでは勝ちを確信した左文字は、何時でも店を飛び出せるように、腰を上げながら一気にエビ天に取り掛かる。

今回の喰い逃げ屋は抜き打ちであったため、逃げる左文字を追うのはおそらく10人にも満たない人数に留まるだろう。

 つまりこれは喰い逃げ屋側にとって圧倒的有利。

 だからこそ、料理さえ食べきってしまえば、あとは逃げえるに易い道が有るだけ。左文字にとっては朝飯前。

 ―――さて、それでは逃げますか。

 勝利の味を噛み締める様に、最後の一本に成ったエビ天をユックリと噛み締めて飲み込んだ左文字は、店の出口を見据えて一目散に駆け出そうとした。

「―――こちら、(ぎす)のてんぷらに成ります」

 左文字が手を合わせて『ごちそうさま』を言おうとした丁度その瞬間を見計らったかのように、厨房からやってきた店主が、今しがた空になった皿の上に、鱚の天ぷらを山と置いて行く。

 イッタイどうしたことなのか。唖然として口が塞がらなくなった左文字は、言葉に成らない訴えを目で送るが、店主はニッコリと糸目をさらに細くしてまた厨房へと戻ってしまう。

「アナタ、ちゃんと説明を読んでいなかったの?」

 訳が分からず目を白黒させている左文字に、呆れた声色の玉藻がズイッとお品書きを突き出してくる。

 それに目をやれば、開かれているのはチャレンジ蕎麦のページ。そして、その詳しい説明である。

 確かに左文字も読んだはずだ。確かに確認したはずだ。

 だが、左文字は見落としを犯していた。

 説明の、その最後の一文に、小さく書かれた注意書き。そこには『天ぷらはその都度揚げたてを提供いたします』とあった。

 ―――まさか…そんな!

 事ここに至って、漸く左文字の中で話が繋がった。

 つまり天ぷらは先に出された一皿のみで終わりでは無かったのだ。

 食べ終えて、皿を空に開けたとしても、次の天ぷらが揚げたてで提供される。

 そうやって、次から次へと天ぷらが出て来るのである。

 ―――見誤りました…

 このチャレンジ蕎麦。その肝は蕎麦の量だけにあらず、真の関門は天ぷらに有ったのだ。

 しかし、後悔してもどうしようもない。何とかして此処をクリアしなければ。そうでなければ立つ瀬がない。何せあれだけ啖呵を切ったのだから。

 覚悟を決めて鱚の天ぷらに齧り付く左文字。食べる速度は流石と言うべきか、あれだけ量が有ったはずの天ぷらが、見る間に食べ尽くされてゆく。

 そして皿の底が顔を見せ始めたころ、

「こちら、茄子の天ぷらでございます」

 新たな天ぷらがホカホカと湯気を立てながら盛り付けられる。

 それでも負けじと左文字は天ぷらを食べ続けた。獅子唐、鶏肉、磯部揚げ、ゲソ天。次から次へと運ばれてくる天ぷらを、左文字は文句も言わずに食らってゆく。

「ほれほれ、頑張れ!」「ペースを乱すなよ」「やっぱり若いってイイねぇ」

 送られる声援を受けて左文字は闘志を保ったまま、何とか箸を進めることが出来た。

 しかし、もはや余裕は無かった。

既に左文字の胃の中は大変な事に成っている。許容量はそろそろ限界値を超える。そして水と油がいがみ合いを起こしている。

 天ぷらを食べようとして、口を開くたびに、喉の奥から何かが込み上げてきそうになる。

 ハッキリ言って今現在、危機的状況に左文字はある。チャレンジ蕎麦、まさかここまで苦しいとは。

「そう言えば、後の天ぷらって何が有ったっけ?」

「確か、かき揚げが有ったんじゃなかったか?」

 観衆たちが言うには天ぷらの無間地獄の終わりは近いようだ。一縷の希望が見えたようで、しかし左文字は予断を許さない。

 果たして自分は食べきれるだろうか? 正直左文字自身も解らない状況である。

 息も絶え絶えに最後の天ぷら、かき揚げが来る厨房を睨む左文字。

 そして、左文字は天を仰いだ。

 それは比喩でも何でもなく、左文字の視線は上に向いている。

 運ばれてきたかき揚げは、まるでトーテムポールの様に、店の天井へ向かってそそり立っている。

 ―――これを食べろと言うのですか?

 テーブルの上に置かれたかき揚げの柱を仰ぎ見て、左文字は心の支えが折れる音がして、そのまま仰向けに崩れ落ちた。

「そこまで! 勝者、追手組『アクタガ』!」

 わあ! と巻き起こった歓声が、店の外にまで響き渡る。店主も厨房から悠々と歩み出して来て、観衆たちに挨拶をして回る。

 一方の左文字は倒れ伏して、動くことも儘ならない状態になっている。

「ねぇ、大丈夫なの?」

 心配して声を掛ける玉藻だが、左文字は声を出すことも返事することも出来ないでいる。

「どうですか? チャレンジ蕎麦、ご堪能いただけましたか?」

 勝者の余裕を以て店主は左文字へ伝票を持ってくる。突きつけられた金額に左文字は思わす目を剥いた。

「その…言いづらいのですが…私、今所持金が無くって…」

 左文字の言った一言に、店の空気が凍り付く。

「ただ飯を食おうなんて、ふてぇ野郎だ」「負けておいて図々しい」「でもどうするんだ? 払えないんだろ?」

 観衆に声援は無く、罵倒のみがぶつけられる左文字は、冷汗がとめどなく流れて来る。

「それならば、仕方ありませんね」

 そんな中、店主はニコやかな笑顔を崩すことなく、手の甲でこちらを撫でて来るような、嫌に優しい声をしている。

 ―――許してもらえるのでしょうか。

 店主の優しさに、藁をも掴む心持で左文字が縋る目をするが、店主のその糸目の奥に光瞳は何処となく冷たさを感じるものだった。

「無銭飲食の懲罰と言えば、古くから決まっています。左文字さん皿洗いのタダ働きをして貰いましょう」

 やはりそうなるか。左文字もこれは腹を括る。

 左文字はこうなる事も想定して、修行時代から皿洗いの練習は積み重ねてきている。百人前、千人前などお手の物、どんなに皿が積まれても、あっと言う間に米粒一つ残らず濯いでみせる自信が有る。

 せめて、二~三日の辛抱か。それだけやれば許されるだろう。

「それではこれから一ヶ月間タダ働きしてもらいましょう」

 しかし左文字の予想を遥かに上回り、月単位での拘束を店主は豪語してくる。

「そんな! どうしてそんな長い期間⁉」

 取り乱す左文字だが、そんな左文字の事など聞く耳を持たず、店主はソソクサとテーブルの上のものを片付け始める。

「ツベコベ言わない事です。無銭飲食の罪はそれだけ重いという事ですよ。せめて、寝る場所と(まかな)い料理は付けてあげますから、文句を言うんじゃありません」

「無茶苦茶です!」

 左文字の抗議も意味をなさず、逃げることも出来ないまま、店員たちに引きずられ、左文字は店の奥へと連れ込まれてしまった。



「これが十年前の出来事です」

「そんなことが有ったのですか」

 既に表は真っ暗に成り、冬の長野は白い雪が風に舞っている。

 その白い影を照らし出す明かりは一軒の温泉旅館から洩れており、その一室で左文字と斉場少年がちゃぶ台を挟んで額を突き合わせている。

 二人とも温泉に浸かり、浴衣を身に纏っているが、(くつろ)いだ様子は無く、神妙な面持ちのままお茶を飲んでいる。

「それ以来、私はこの長野に訪れるのが恐ろしくなってしまいまして、メッキリ足が遠のいてしまったのです」

 悔恨するような面持ちで、昔の失敗を思い返す左文字に、斉場少年も新しいお茶を注ぐ。

「しかし、酷いですね。その『アクタガ』という蕎麦屋も。一ヶ月も師匠にタダ働きをさせるなんて法外じゃないですか?」

 敗者である左文字の扱いに憤慨する斉場少年だが、左文字はそんな彼のことを「そうでもないのですよ」と窘める。

「タダ働きですが、そんなに悪くは無かったのですよ。野宿ばかりを繰り返していた私に住むところと与えてくれたわけですし、三食賄(まかない)付きだったわけです。それに何と、一月の年季明けにはそれまでの時給に相当する給料を渡してくれたわけですしね」

「凄くイイ人じゃないですか」

 まるで刑務所で刑期を終えた囚人のようだなどと思う斉場少年。当の左文字も『アクタガ』に対しては妙な事であはあるが恩義を感じているとのこと。

「あのお金で武者修行の旅にも余裕を持つことが出来ましたし、その余裕が喰い逃げ屋を行うにあたって抜き打ちで行う事を控える原因にも成りましたしね」

 それが結果的には良かったのだろう。だからこそ今の左文字の事前のリサーチを重視するスタイルが確立されたのだ。

「…それで、師匠はどうするのです?」

 話を切って、重い扉を開くように、斉場少年が左文字に問いかける。

「どうとは…?」

「その、リベンジはするのですか? 『アクタガ』へ」

 期待と不安が入り混じった斉場少年の視線に晒される左文字だが、その表情は硬く、沈んでいる。

「正直、解らないのですよ」

「それはどういう…?」

「今、『アクタガ』のチャレンジ蕎麦に挑んでも、果たして勝つことが出来るか解らないという事です」

 左文字のその言葉に斉場少年が驚愕した表情に成る。それは左文字の言葉が何より信じられなかったからだ。

「そんな、だって、負けたのは昔の話でしょう?」

 確かに負けはしたが、それは既に10年も前の事。そこから経験を積み、技量に磨きをかけた今の左文字なら負けることは無いと、斉場少年はそう思っていたからだ。

「確かに私もあれから成長したと感じてはいます。ですが、それでも難しい戦いとなるのは避けられないのです」

「でも、一度経験をしているのなら、出て来るメニューも食べる量も最初から解っているでしょう?」

 喰い逃げ屋を行うにあたり、左文字が最も重視するリサーチは既に済んでいる。それも身に沁みる苦い経験として。

 だがそれでも左文字が尻込みするのは訳が有る。

「量やメニューが解っているのはイイのです。それらが解っていれば対策が立て易いですからね。ですが、このチャレンジ蕎麦の本当の怖い所は其処ではありません」

「それはイッタイ…」

「食べるペースを握られているという事ですよ」

 左文字の語るチャレンジ蕎麦最大の脅威。それは大食いをするにあたり、最大の急所とも言うべきポイントであった。

「大食いはリズムが重要なのは斉場君も理解できるでしょう?」

「それは、なんとなく」

「ペースとリズム、それを守って食べていれば、意外なほどに人間は大量の食物を食べることが出来るのです」

 陸上競技に例えるならば、マラソンの様なものだろう。大食いにとって持久力が何よりも物を言うと左文字は語る。

「しかし、チャレンジ蕎麦はその大事なペースを握るのが、『食べる方』でなく『作る方』にあるのです」

「… ! 例の天ぷらですか⁉」

「その通り」

 斉場少年の正解に、左文字も指さし、呼応する。

「あの天ぷらは、こちらが食べ終わったら出て来るように成っていますが、それでもタイムラグが生じます。そのタイムラグが大食いをする側にとってかなり辛い所が有るのです」

 先ほどのマラソンの例に例えると、走っている途中で無理やり一旦立ち止まりを食らわされ、その上で再度走らされる様なものだろう。

 リズムとペースを狂わされたランナーは、心拍と呼吸が乱れ、再び同じポテンシャルまで持ち直すまでに余計な体力を使わなければならない。

 急停車した車のエンジンを切り、再点火してから走り出す。実に燃費が悪い上、最悪エンジンが焼き付いてしまう恐れがある。

 そして大食いの場合、これはもっと切実で、この待っている時間の間に腹の中では麺が水分を振って伸び膨れ、さらに満腹中枢が活性化してしまい、それ以上食べることを体が拒んでしまうのである。

「思った以上に難敵ですね…」

 斉場少年もその難易度をようやく理解したのか、腕組みしながら首を傾げる。

「チャレンジ蕎麦の打開策を考案せずに、闇雲に向かったところで、きっと私は前回の二の舞になってしまうでしょう」

 左文字としてもそれは避けたいようで、どうにかしようと考えあぐねている。

 しかし、あれから十年考えて答えが出ない事柄が、この数時間で答えに至る訳もなく、この日は帰ってきた辺場教授たちと夕食をとり、そのまま二人は大人しく就寝するしかなかった。


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