2-2
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「師匠! 浅間山が見えますよ」
午前10時10分大宮駅発、北陸新幹線「あさま」の車窓。青く澄んだ冬の晴天に映える浅間山の雄大な景色が映り込む。
冬の信州。白銀の雪景色。それを一枚の白紙に見立て、新幹線は一本の線を引くかのように軽快に走り抜けてゆく。
「今日は吹雪いていなくて良かったよ。そうなっていたら折角の景色が楽しめなかったからね」
燥ぐ斉場少年に答えるのは、こちらも負けず劣らず上機嫌の辺場教授である。
それもそのはず、辺場教授は駅で購入した柿の種を肴に、ノンアルコールビールを三本も煽っている。
そして、場酔いなのかアルコールが一切入っていないはずのノンアルにも拘らず、宛ら酔っぱらったように、すでに出来上がっているのである。
こうなっては火山よろしくいつ噴火して、こちらに飛び火してくるか気が気ではない。
―――お酒が絡まなければホントにイイ人なんですがねぇ…。
酒の入った辺場教授に、散々辛酸舐めさせられてきた左文字は、向かい合わせた座席の問面に座るにも関わらず、なるべく距離を取ろうとする。
戦々恐々としながら柿ピーを摘む、そんな左文字の内心を知らない斉場少年が、屈託のない笑顔で辺場教授に話しかける。
「今日はお招き頂き有難うございます。僕みたいな若輩者を誘っていただいてホントに宜しかったのですか?」
いやに恭しい。歯に衣どころか錦を着せたような、斉場少年の言葉を聞いて、苦い顔の左文字と裏腹に、上機嫌のままの辺場教授は手を翳す。
「いやいや、イイんだって。左文字さんの弟子ならば、ゆくゆくは次代の左文字ということだろう。だったら今のうちから唾つけておいて損はない」
辺場教授の言葉を聞いて嬉しいのか、照れたような素振りを見せる斉場少年に、左文字はひとつ咳払いをしてみせる。
「そんなこと言って、まだ斉場君は修行が足りていませんよ。左文字を継ぐとしても、まだまだ先の話です」
「まあまあ、そんな意地悪言ってやるなって。言うだけだったらタダだろう?」
「いいえ、甘やかしてはいけません。キッチリシッカリと喰い逃げ屋の厳しく指導しませんと」
毅然とする左文字を横目に「あんなことを言ってるけども、気にしなくてイイよ」と辺場教授は斉場少年に耳打ちする。
「第一、なんで教授はそんなに斉場君に甘いのですか! 自分の時はあんなに滅茶苦茶な対応だったのに!」
「いやぁ… 子供より孫の方が可愛い。そんな感覚かな?」
そんな事をカカカと笑い、笑顔で語る辺場教授。放っておいたら斉場少年に紙に包んで小遣いを揚げかねないのではないかと、想像する左文字は反吐を吐くような顔になる。
「あのぉ、少し宜しいでしょうか?」
こんな状況に辟易とする左文字の後ろから、声をかけられ振り向けば、幾人かの若者が落ち着かぬ様子で佇んでいる。
「ああ、どうしたんだい君達。危ないから席に着いていなさいよ」
その様子をみて彼らに声を掛けたのは左文字ではなく辺場教授。教授が彼らに明け透けに話しかけるのは、それもそのはず彼らは辺場教授の研究室に所属する生徒諸君であるからだ。
「先生、チョットだけですから許してください」「ホントにすぐ終わりますので、チョットだけ」「チョットだけ」
席の合間の狭い通路にワイワイと屯する学生たちが、辺場教授の忠告も聞かず、団子のように詰めかける。
イッタイ何なのだろうと、鬼気迫るような学生たちの殺到に距離を取ろうとする左文字だが、彼らのお目当てはこともあろうに左文字だった。
「左文字さん。お会い出来て感激です!」
一人の青年が抜け駆けをするように、左文字の手を取り握手をすれば「お前! 何勝手なことをしているんだよ」「狡いわ! 抜け駆けナシって言ったのに!」「おらぁ! おしぼりだ! これで手を拭いてやる!」
「やめろぉ! この手は洗わないと決めたんだ!」
抜け駆けした学生を取っちめようと、学生たちの屯はゴチャゴチャに混じり合って収集のつかないカオスとなる。
「チョット待った。落ち着きなさい」
流石に抜け駆けした彼の裁判が始まろうとするのを見過ごせず、声をかけた左文字だが、彼らの一斉に視線に狂気を感じて後悔する。
「君たちは仲間だろう? 全員握手でも何でもしてあげるから、仲良くしなさいな」
「…ホントですか」「何でもって…何がイイかな」「とりあえずサイン貰えます?」
各々左文字に何を頼もうか、ワクワクしながらあれやこれやと考える学生一同に「チョット待った」と斉場少年が割って入る。
「勝手に話を進めないで貰えますかね。師匠はこう見えて有名人ですよ。易々といろいろできると思わないでください。そうですね、まずは事務所を、私を通してから話して貰いましょうか」
君は私のマネージャーなのか。急に年上に対してマウントを取り始めた斉場少年に驚きを隠せない左文字だが、学生たちは予想に反した反応を見せる。
「この子って確か左文字さんのお弟子さんだったよね」「結構可愛らしい男の子なのね」「今のうちにサイン貰っとこうかな」
学生たちの興味の矛先が斉場少年に向けられると、刹那の勢いで彼は学生たちに揉みクチャにされてしまう。
「チョッ! 待っ! 変なところ触らないで!」
想定外の事態に取り乱す斉場少年が左文字に助けを求めるが、当の左文字は見て見ぬ振りの知らん顔。
「斉場君、上田駅までの辛抱ですよ。我慢なさい」
絶望の色をその顔に浮かべて学生達の枡席へと運び込まれる斉場少年を見て、辺馬教授は溜息一つ、困ったような表情で左文字に話しかける。
「君もだいぶ先代に似てきたようだね」
「そうですか?」
「うん、弟子の扱いが雑になってきた」
左文字自身も心していなかったことだが、やはり弟子は師匠に似るということだろうか。それは大いに困った事だ。
修行時代に手酷く絞られて、ああは成るまいと思っていた左文字だが、気付けば辺場教授から似てきていると言われる始末。
これも先代の教育の賜物だろうか。染み付いてしまったものはなかなか濯ぐことは難しいのである。
そうこうしている内に辺場教授一行を乗せた新幹線は上田駅へと到着し、ここからは在来線とレンタカーを乗り継いで行く事となる。
そうであるのだが、ここに来て、辺場教授だけどこから持ってきたのやらスノーモービルで移動すると言う。
「どうだい? カッコいいだろう?」
赤いボディが白い雪面に良く映え、それに跨る老紳士こと辺場教授は傍目に見るくらいならばカッコいい様にも思うのだが、それをひけらかして来るものだから、鬱陶しさが先行してしまう。
それに何でまた教授だけスノーモービルなのかも疑問だが、どうせ問いかけたとこれ「カッコいいからだ」と答えが返ってくるのが関の山。
だったら無視して自分達だけ、車内の暖房の恩恵に預かっていればイイと、左文字は学生たちに運転を任せ、窓の外で寒風にその身を打ち付けながら追い縋ってくる辺場教授を目で追っていた。
そして、千曲市に入った一行だが、ここで左文字と斉場少年は別行動となる。
「私たちは今日先に森将軍塚古墳へと行ってるけども、君たちの実況見分は明日以降でイイ。だから先に観光でもしてユックリしていてくれないか?」
そうして左文字たち二人が下ろされたのは、千曲市にある温泉郷『戸倉上山田温泉』である。
この温泉郷は開湯百年以上の歴史を誇り、長野の善光寺参りの精進落としの場所として賑わってきた由緒ある温泉地である。
未だに湯量も豊富であり、特に泉質が柔らかく「美肌の湯」としても親しまれている。
また、超音波温泉と呼ばれる温泉の発祥の地ともされ、このお湯に浸かると湯冷めすることなく体の芯からポカポカとして非常に具合が良いとされる。
「こんなに温泉があるなんて、巡るのが楽しみですね」
戸倉駅のロータリーで意気揚々とする斉場少年は、温泉地が駅から歩くと距離があるためバスかタクシーを勧めてくる。
「けれども、今から行ってもまだチェックインの時間には早いですよ」
左文字の言うとおり時刻はまだお昼前。ビジネスホテルでも午後四時からのチェックインだというのにこの時間では早すぎる。
「それこそ温泉巡りとかどうですか? 外湯や共同浴場とかがあるみたいですし」
完全に温泉気分になっている斉場少年は、散歩を急かす子犬のように、グイグイとリードを引いてくるがごとく、温泉郷へと誘ってくる。
「まあ、待ちなさい。お風呂は夕方にでもユックリ入ればいいでしょう。それよりも先ずは腹ごしらえでもしませんか?」
左文字に問われて返事をしたのは斉場少年の口ではなく腹の虫だった。
「君もお腹が減っていることでしょう。新幹線の中では学生たちのオモチャにされて、お菓子を摘む暇もなかったのですからね」
「その時、僕を見捨てたこと。絶対に忘れませんよ…」
恨みがましく睨みつける斉場少年に、当の左文字は「何のことやら」と知らん顔を決め込む。
「それで、イッタイ何を食べましょうか?」
睨んでいても腹は膨れないと、切り替えた斉場少年は駅の周りを見渡した。
しかし、地方の、それも中心市街地から離れた場所ある戸倉温泉の駅前は、お世辞にも栄えているとは言い難く、開いてるのかどうかも解らないような個人商店がポツリポツリとあるだけだった。
「チョットここでは期待できないかもしれませんね」
同じく見渡した左文字もまた斉場少年と同意見らしく、ここは一つ河岸を変えることにしようと意見が合う。
そうして二人が電車に乗って、向かった先は長野駅。押しも押されもせぬ長野県の中心市街地である。
特に駅の西側は名刹『善光寺』へと通じる山道と繋がっているため、その通りには門前の商店街が形成されており、買うも食べるも不自由しない具合となっている。
「いやぁ、師匠、美味しかったですねぇ」
長野駅に着いてから30分後。一軒のカレー屋から出てきた斉場少年は、実に満ち足りた様子で左文字に話しかけてくる。
「ええ、トッピングの納豆があんなにカレーに合うなんて思いませんでした」
左文字も自らが食した納豆カレーに満足したのか、普段よりも上機嫌である。
そんなテンションが上り調子の二人が揃えば、善光寺まで続く長い坂道も何のその、バスもタクシーも使わず自分たちの足で歩いて行けてしまう。
「おや? 師匠、あれは何でしょう?」
歩くその道すがら、斉場少年の興味が惹かれ、俄かに止まり指を指す。
その指す先へ目をやれば、門前商店街に立ち並ぶ店の一軒が目に留まる。
そう言ってしまうと何の変哲も無いように思えてしまうが、その店には二人を足止めするに足りる特色が有った。
黒装束に鎖帷子。鉢金の着いた覆面で素顔を隠し、刀と手裏剣を構えた男の書き割りが店前に飾られている。
「あれって忍者ですよね?」
別に詳しいわけでもない斉場少年ですら一目でそれが掛かるほど、グルっと見渡してどう見てもそれは忍者の書き割りだった。
その書き割りの置かれている店舗の名前は『忍者大門』。そもそも屋号がまんまじゃないか。
「何でこんな所に忍者ショップが?」
興味がワクワク惹かれてか、自然と足が店へと向いた斉場少年が、その外観を眺めながら疑問する。
確かに伊賀も甲賀も近畿地方で、長野が有る甲信越には結びもつかない。
「知りませんか? 長野にも忍者は居るのですよ?」
しかしだからと言って忍者が居ない訳でなく、長野にも忍者は存在していた。
「その話は拙者がいたそう」
語って聞かせてやろうかと左文字が口を開きかけたその瞬間、突如天から声が降って来て、ドロンと煙が逆巻けば、書き割りの在った所から忍者がいきなり現れる。
「おお⁉ 忍者!」
正に忍術そのものの登場の仕方に、大きなリアクションを見せる斉場少年。それを見て忍者も機嫌良く覆面の隙間から見える目を細めている。
「ハハハ。ここは長野発祥の忍者軍団『戸隠忍軍』をモチーフにしたアンテナショップなのだよ」
戸隠忍軍。その言葉を初めて聞くのだろうか、斉場少年はポカンとした顔を忍者に向けている。
そんな斉場少年の様子に気落ちする様子でもなく、忍者は戸隠忍軍について殺名してくれる。
それによると、長野県北部の旧戸隠村で活動していた忍者集団であり、修験道の法力と防御を主体とする体術を特徴としている。
「もちろん今でも『戸隠忍者村』では何人もの忍者が修行していて、最近では外国人の入門者も多いのだ」
「そうなのですか。でも何故、こんな街中に忍者ショップが有るのです?」
その疑問は御尤も。戸隠は山奥に在り、街中には無い。それが目の前に在るのだからどういう事かと思うモノ。
「まあ、知名度を上げるためだ。君も今日こうやって拙者に説明されるまで、戸隠忍者について知らなかっただろう?」
そう言われると納得がいく。先ほどまで斉場少年にとって忍者は伊賀と甲賀くらいしか知らず、他に流派が有るなんて思いもよらない事だった。
人知れず名も知れずという事が、忍者としては正しい在り方だとしても、時代の流れ、その移り変わりに合わせて在り方も変化すべきなのだとすれば、『忍者大門』なる忍者のアンテナショップもまた、名を売っていこうと言う戸隠忍者の努力の形なのだろう。
「師匠、急ぐこともありませんし、僕たちも覗いて行きましょうよ」
俄然興味が引かれた斉場少年が、宝箱の中でも覗き込むように店の中を見てみれば、思った以上の盛況ぶりと、忍者に準えたお土産の数々が目に入る。
これは最早止められない。斉場少年は左文字の答えを聞く前に、宛らリードごと先走ってしまう犬の様に店の中へと消えてゆく。
「チョット、もう…仕方がないですね」
残された左文字も彼の事を放って置くわけにもいかず、けれども嫌々と言うようでも無く彼の後を追いだした。
「時に、その印半纏…変わった格好をしているね?」
左文字が戸口に立った時、不意に後ろに残してきた忍者からそんな事を声掛けられる。
「そうですか?」
忍者に言われたくも無い。そんな思いはおくびにも出さず、短く左文字が応えると、「気を悪くしないで欲しい」と忍者は言った。
「最近の若者にしては、印半纏だなんて随分と珍しい物を着ているなと気に成っただけだ」
「まあ、確かにそうですね。これは看板のような物でして、私の欠かせない商売道具なのです」
理由が解れば気に病む必要も無い。左文字が素直に答えると、忍者も成る程と頷いた。
「失礼ですが、お名前を窺ってもイイだろうか? それからアナタその商売と言うモノを教えて欲しい」
「…? 左文字と申します。喰い逃げ屋を生業としていまして」
「成る程。どうりで見たことが有ると思ったわけだ」
納得がいったのだろう。忍者は満面の笑みを浮かべると、不躾な質問をした事への非礼を詫びる。
昔に比べて喰い逃げ屋と左文字が有名に成ったものだから、忍者もどこかで左文字の事を知る機会が有ったのだろう。
そう言う事に違いないと腑に落ちた左文字は、「お連れさんが待っているよ」と忍者に促されるまま、思い出し急いで店に向かう。
だから一瞬、忍者が刃のように鋭い目つきに成るのを見逃した。
それから一時間ほどの時が経って、左文字と斉場少年はまた坂を登り始める。
「随分お土産を買ったのですね」
斉場少年が手に持っている紙袋。その中から覗いている数々の忍者グッズを見ていると、左文字は思わず苦笑いしてしまう。
「だって楽しかったじゃないですか」
気分晴れやかに、足取りも軽やかな斉場少年が袋の中身を取り出す。
手裏剣にマキビシに忍者刀。随分と物騒な物が出てきたが、もちろん安全に配慮されたレプリカである。
そんな物をイッタイ何に使うのか。無駄遣いを咎める母親の様な左文字の質問に、斉場少年は口を尖らせて黙り込む。
「まあ、随分と燥いでましたからね。仕方がないですか」
その場の勢いでついつい衝動買いをしてしまうのも解らないでもない。実際左文字も楽しんでいたのだから。
「特にあの屋根裏のからくり部屋が良かったです」
これには左文字も同意する。
手裏剣や吹き矢などの的当ても、石垣登りのアトラクションなかなか面白かったが、あの店で一番に二人を魅了したのはからくり部屋であった。
「確かにあれこそ忍者屋敷と言った感じでしたものね」
「それに屋根裏部屋へ登って行くのが縄梯子だったものポイント高かったですね」
二人とも大満足と言った様子で『忍者大門』の話に花を咲かせていれば、あっという間に次なる目的地が見えてくる。
「着きましたね」
門前に大賑わいの唐辛子専門店『八幡屋磯五郎』を横に見て辿り着いたのが、長野が誇る名刹『善光寺』である。
千年以上の歴史を持ち、江戸の昔には「一生に一度は善光寺参り」だの「牛に惹かれて善光寺参り」だのと、功徳を積むにはもってこいの場所として、数百年に渡り長らく人気を博し続けている。
そして近年ではいわゆるパワースポットとして、若い女性の間で再注目を浴びているのである。
―――しかし。
「思ったよりも小さいのですね」
開口一番そのような失礼を口にする斉場少年だが、左文字も初めて来た時は、彼と同じ思いを抱きもしたものだ。
「修学旅行で奈良の東大寺に行ってきましたけれども、それと比べたら…」
「比較対象が良くないですよ。善光寺だって立派でしょう」
これだったらば、通りで見かけた忍者屋敷の方が面白そうだったかもしれないと、渋い顔で腕を組む斉場少年だが、左文字の説得に溜飲を下げる。
「とりあえず中に行きましょう」
二人連れ立って境内へと繰り出せば、思いの他観光客で賑わっていることに斉場少年は驚いてしまう。
丁度冬休みの時期に当たり、時間がある斉場少年ならば理解できるが、それでも平日にこれほどの人が境内にいるということが驚きである。
厳かに空気を感じる者、カメラを構えて写す者、引いたおみくじに一喜一憂する者。
皆がそれぞれにやる事は異なっているが、全員同じくこの善光寺を目的として集まってきた者たちである。
二人の傍を夫婦だろうか、おじいちゃんおばあちゃんが連れ立って通り過ぎてゆく。
―――そうか、高齢者が多いのだな。
退職した人間ならば平日であれ時間は十分にあるし、尚且つ高齢者ならば寺院巡りも様になる。
そういうことならこの人数も納得がいく。そう思っている斉場少年耳に、聞きなれない言語が飛び込んでくる。
「旅行客が多いですね。あの人などバックパッカーでしょうか」
左文字が指さす先には欧米人だろうか、『野沢菜』とプリントされた奇妙なシャツを身につけたバックパッカーが、仲間と一緒に燥いでいる。
他にも周りを見渡せば、アジア、ヨーロッパ、オセアニア。洋の東西を問わず様々な国の人達が集まっている。
近年増加傾向にある海外旅行者にとって、まさに善光寺のような場所こそが、古の日本を肌で感じられる場所である。
それはポップカルチャーの聖地である秋葉原よりも、日本の食の根幹である築地豊洲の大市場よりも明確なことである。
つまりは日本好きであり、そのノスタルジーを求めるのならば、一度は行ってみたいと思うのだろう。
そういった観光客も、この境内に賑わいを加える立役者ということだろう。
そんな彼らの合間を縫って、左文字と斉場少年は漸く本堂へと辿り着く。
静かな佇まい、重厚な造り。一目でその場所が周りの場所と違う空間にある。それが肌で感じられる善光寺の本堂を前にして、沸き立った二人の心の跳ね上がりも一旦の落ち着きを取り戻す。
これは一度拝まねば成るまい。
賽銭のあとに合掌し、拝礼一つ行えば、心に静寂が広がるように、気持ちを正して本堂の中へと入ることができた。
「「あぁ…」」
入館料を払い、改札を潜った二人の口から思わず溜息が溢れる。
そこは『荘厳』。その一言に尽きる空間だった。
本堂の広間、その中央には畳の敷かれたスペースが設けられ、天涯からは金細工の瓔珞が吊り下げられており、また天界の様子だろうか何体もの仏様を描いた絵も飾られている。
奥には、幾つもの仏像が鎮座しており、中央の本尊はこちらもまた豪華な金細工の壇の中に収められ、静かに、何も言わず、しかし何かの意志を持っているかのようにこちらを眺めている。
そして、何よりその場を荘厳なもの足らしめているのは、そこにいる観光客の人々たちだった。
実に運が良いことに左文字たちが本堂の中に入った時間が、ちょうど法要を行う時間であったのだ。
本道の中央に設けられた畳敷きのスペース。そこに何人もの参詣者たちが座しており、その先端に住職もまた座っている。
住職は本堂奥の仏像たちと相対するようにしており、叩く木魚の調子に合わせ、本堂全体に響く声で経を読む。
その場、その時間、そこにある物、全てのものがこの法要を邪魔してはならない。
左文字としてもそう思える程に住職の読経も、参詣者たちの祈りの姿も、神秘的で神聖な雰囲気を纏って見えた。
「何だか命が新しくなったみたいですね」
本堂を一頻り見学し終えた斉場少年が、改札を潜って外に出る左文字に話しかける。
「特にあれですね、『胎内巡り』と言いましたっけ? あれは遊園地のアトラクションのようで実に楽しかったです」
斉場少年の言う『胎内巡り』とは善光寺本堂に設けられた地下通路を巡る行事のことである。
高床作りの本堂には地下スペースが存在し、そこへ繋がる階段を降りてゆくと、一本道の通路が存在する。
だが、その通路を見ることは出来ない。なぜならそこには明かりの一切存在しない、真っ暗闇が広がっているからだ。
太陽の光は遮られ、ロウソクも電気も無いその空間には一条の光も差し込まず、目先の状況を見て判断するという行動が、どんな人間であろうとも全くもって出来なくなるのだ。
人間の感覚は80%以上を資格情報に頼っていると言われており、夜でも明かりが簡単に手に入れられる現代社会において、それが通用になくなるという感覚は、なかなか味わえるものではない。
そんな真っ暗な通路を残り4つの感覚のみを頼りに進んでゆく。これにより非日常の中で自分の感覚、牽いては自分の内面を見つめ直すことがこの胎内巡りの目的と言えよう。
また、その名に『胎内』とあるとおり、この通路こそが母親のお腹の中と見たて、そこを通って出てくることは一度生まれ変わるのと同じことと捉えることもできるのだ。
そうすることで俗世の穢を拭い去り、新たに清らかな身となってもう一度生れ落ちる。そういう感覚を得るための修行でもある。
しかし、まだまだ少年の心が残る斉場少年にとっては、そう言った精神的な意味よりも、体験して得られる感動の方が心惹かれるのだろう。
「確かに、明かりもなく、手で触れる壁の感触を頼りに進むなんて経験は、日常生活で先ずありませんからね」
左文字としても久しぶりの経験であるためか、己の中に見た感覚の一部をなぞるように噛みしめている。
「そういえば、師匠は以前にも長野に来たことがあると言っていましたっけ?」
思い返す左文字の視線に感じ入り、斉場少年が問いかければ、「確かに」と左文字は肯定の返答をする。
「もう何年前になるでしょうか? それはちょうど私が『左文字』の名跡を受け継いで間もない駆け出しの頃の話です」
―――初めて聞く話ですね。
俄然興味が惹かれた斉場少年の催促に、「恥を晒すようですが」と前置きし、照れ臭そうに左文字は語る。
「ちょうど私が独り立ちをした頃の話です。左文字の名前を受け継いだといってもまだまだ実力不足を感じていた私は、武者修行と称して全国を旅していたのです」
聞けばバックパック一つ、食うものは喰い逃げ屋の大食い頼り。日銭も無ければ足代も無く、宿は野宿で移動はヒッチハイクの旅だったという。
「若気の至りとはいえ、我ながら粋狂な事をやっていたと思います」
懐かしむように語る左文字の様子を、斉場少年は感心した様に眺めている。
「師匠にもそういった時期があったなんてビックリしました。なんというか師匠は得体がしれないですから、生まれた時から喰い逃げ屋やっていたような、そんな感じがしていたんですよね」
「私のことを何だと思っているのですか? マッタク」
半笑いを返す左文字に斉場少年も微笑み返す。
「でも、師匠のことですからその武者修行も連戦連勝だったことでしょう! 何せ、師匠は喰い逃げ屋の大名跡『左文字』を継いでいるのですからね」
目を輝かせながら左文字を見つめる斉場少年だが、当の左文字は苦い顔を返すのみ。
この反応はイッタイどうしたことだと思った矢先、左文字が足を止め、目を向けた先を斉場少年も追いかける。
そこには一件の蕎麦屋があった。
蕎麦屋はよくある入口に食品サンプルを陳列したショーケースのある懐かしい店構えではなく、長野の渋い街並みに浮いてしまうような、オシャレな店構えとなっている。
それこそ蕎麦屋の暖簾と幟がなければ、街のフランス料理店か何かに見間違えてしまいそうだった。
「そういえば、長野は蕎麦が有名でしたよね」
確かに斉場少年が言うように、長野の蕎麦は『信州蕎麦』として名の知れた名産品となっている。
そもそも、なぜ長野で蕎麦なのかというと、風土に訳が有る。土地の寒冷な気候と昼夜の寒暖差が蕎麦の実の育成に合っている。そのため、古くから米の代替食として食べられてきた歴史がある。
また、昔は団子状にした所謂『蕎麦がき』の形で食べられてきた蕎麦を、細く麺状に切った『蕎麦切り』の形にしたのは長野が発祥であるとも言われている。
それ程に土地と文化に蕎麦が根付いた場所なのだ。少し歩けば至る所に蕎麦屋が立ち並んでいる。
その中でも二人が目に止めた蕎麦屋はかなりの人気店らしく、入口にはゾロゾロと順番待ちの人が並んでいる。
「屋号は『アクタガ』ですか。店構えよりも渋い名前ですね」
トコトコと入口まで歩み寄った斉場少年が、店先に設えてあったメニュー表を眺めると、メインの蕎麦とサイドメニューに紛れる形で、『喰い逃げ屋挑戦歓迎』の文字が印字されているではないか。
「師匠! ここのお店、喰い逃げ屋を受け付けていますよ! 一つ挑戦してみてはどうですか?」
子犬が尻尾を振るかの如く、手を振って己が師匠を呼び込もうとする斉場少年だが、左文字は依然として近寄ることを渋っている。
「次のお客様―――」
どうしたことかと斉場少年が思っていると、入口が開いて店員が客を呼ぶ。
その店員の顔を見た瞬間、左文字の表情が固まった。
対する店員も左文字のことを認めると、こちらは真逆に頬笑んで見せた。
「おやおや? これはこれは、左文字さんじゃありませんか」
随分と大仰に、大袈裟な口調で語る店員は、足取りも態とらしく、左文字の事を侮ってでもいるのかという様子でこちらへ近寄ってくる。
「あの時はどうも有難う御座いました。いやぁ、左文字さんのおかげでうちの店も大盛況ですよ」
「お久しぶりです。ご主人」
店員かと思っていたこの店の店主は実に上機嫌と言える様子。しかし、左文字は不機嫌な様子で短く呟く。
「師匠? お知り合いの方ですか?」
左文字の様子に心配した斉場少年が声をかけるが、それでも左文字は答えない。
「おや? お弟子さんを取られたのですか。可愛らしいですね。どうです? 今日は喰い逃げ屋をやっていかないのですか?」
これは明らかな店側からの挑戦だ。しかも自信満々に居丈高に。ならば,この鼻っ柱はへし折らねばならぬ。
そうともさ。この売られた喧嘩を受けずして,喰い逃げ屋左文字の名が廃る。
「馬鹿にするな! 師匠! ヤッちゃいましょうよ!」
意気軒昂に奮起する斉場少年が、左文字に向けて発破をかける。
しかし、どうしたことだろうか、左文字はそれでも黙ったままで動かない。
「フフフ…まあ、今日は調子が良くないようで。挑戦するのならいつでも構いませんよ? 蕎麦処『アクタガ』は逃げも隠れもしませんので」
捨て台詞のようにそう言い残した店主は、いそいそと並んでいる客を裁いては、店の中へと消えてゆく。
そうして取り残された左文字としてもまた、『アクタガ』の店構えを一瞥すると何も言うこと無くその場を後にしてしまった。
「チョッ!? 師匠! チョット待ってくださいよ!」
一目散に逃げるように歩いて行ってしまう左文字に斉場少年が追いついたのは、長野駅の駅前ロータリーが見えてくる頃だった。
「…」
斉場少年に肩を掴まれて漸く足を止めた左文字だが、それでも黙ったまま、背を向けて彼の方を見ようとはしなかった。
「イッタイどうしたというのです? 売られた喧嘩を買うことなく、尻尾を巻いて逃げるなんて。そんなの師匠らしくありませんよ」
息も絶え絶えな斉場少年。左文字の異様を指摘するその言葉に、ようやく左文字も振り向いた。
「…そうですね。そうかもしれません」
しかし、その顔にはいつもの覇気は無く、不安と後悔で塗り固められた表情が張り付いている。
こんな顔をした左文字は初めて見た。
普段は厳しくも優しく、理不尽であっても最後には筋を通す。
反面教師にするところも多々あるが、それでも斉場少年にとって最大の目標であった左文字がこんな負け犬のような態度をとる。
それが斉場少年には信じられない衝撃だった。
「…イッタイ何なのです? 師匠はあの蕎麦屋で何があったというのですか?」
だから質問が自然と口を吐いて出た。
言った後で、不味かったかもしれないと思ったが、それでも吐いた唾は飲み込めない。
「…そうですね。話しておきましょう」
だが、今の唾は左文字の心に何かを芽吹かせたのか、重く閉ざした扉を開くように左文字がその口を開く。
「斉場君、さっき私は武者修行の旅をして、全国を旅していたと言いましたよね」
確かにその通りだ。頷く斉場少年の反応を見て、左文字も一息吐いた。
「その旅の中で長野に立ち寄ったとき、私はさっきの蕎麦処『アクタガ』さんに喰い逃げ屋を挑んだのです」
やはりそういうことか。だったら左文字と店主が互いに顔を知っていても不思議ではない。斉場少年もこれには納得がいく。
「そして私は敗北したのです」
だが、次の『敗北』の二文字は納得がいかなかった。
「どういうことですか? 師匠が負けたなんて、そんな…信じられません」
左文字の口から語られたことで、ここまで信じられないことはない。
斉場少年の知る左文字とは、常に喰い逃げ屋に於いて連戦連勝。当代最強の喰い逃げ屋、それが『左文字』の屋号であると信じて疑わない。
だから斉場少年は珍しく師匠の左文字に詰め寄るが、それでも左文字は首を横に振るだけだった。
「いえ、これは事実です。私は『アクタガ』さんに喰い逃げ屋で負けたのです」
信じられない事だった。途端に力が入らなくなった。
その場にヘタリ込む斉場少年を一瞥し、「話せば長くなりますよ」と前置きする。
それは、斉場少年の知らない若き日の左文字の話だった。




