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喰い逃げ屋 左文字 - 2  作者: 楠木 陽仁
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2-1

   喰い逃げ屋 左文字(さもじ) ― 2

楠木 陽仁


 カーテンの隙間から漏れる日差しに邪魔されて、眠りの淵から目覚めた若者が、ベッド替わりのソファーから転げ落ちる。

 床に振動を響かせて、ホコリが舞い上がり、積み上げていた書類が崩れ落ちる中、若者がノソノソと這い出してくる。

 さながら冬眠から覚めたばかりの熊のようだ。

 緩慢な動きで歩く若者は、まるでそこに行くことがプログラムでもされているかのように、ほぼ無意識といった様子で洗面所までやってくる。

 そして若者が寝ぼけた瞳で前を見ると、鏡に男とも女ともつかない顔の人間が、眠気を堪えながらこちらを見返している姿が映り込む。

「…そこのあなた、もっとシャキっとしなさいな」

 そのセリフは本気で寝ぼけているのか、(はた)(また)この上ない自虐なのか。

 欠伸(あくび)を噛み殺したような間延びした声で、支離滅裂なことを言ってのける若者こそが、当代きっての喰い逃げ屋『左文字』その人である。

 左文字は朝が弱いらしく、こういった光景は日常風景であるものの、今日は特にその度合いが酷く、既に洗面所前で立ったまま30分寝こけている。

「オイッ! いつまで寝ぼけているつもりネ!」

 怒鳴る(ちん)さんに後頭部を(したた)かに打たれて、飛び散った花火で漸く目の前が明るくなった左文字は、身支度を整えて階下へと降りてゆく。

「ホラッ、サッサとそこのメシを食べて手伝うネ」

 一階の中華料理店『一品香(イーピンシャン)』。そのカウンターテーブルの上には(まかな)いだろうか、ホカホカと暖かな湯気を立てる中華粥が置かれている。

「いただきます」

 先ほどの火花に加え、顔を洗ったことにより、多少目が覚めた左文字は、感謝の言葉を述べた後、一口二口、テーブルの上の中華粥を口にする。

 ―――ああ優しい。超優しい。

 シンプルな味付けの中華粥は、喉に(つか)える事も匙が止まることもなく、椀の底までスルスルと、左文字の胃の中へと流れ込んでしまった。

「陳さん。副菜とかありませんか?」

 出された中華粥のあまりの軽食っぷりに、図々しくも尋ねる左文字。

「何を言ってるネ。ソコラ辺にアルものでも摘んデ、トットとコッチを手伝うネ」

 それではお言葉に甘えてと、仕込みの終わったメンマとザーサイを一頻(ひとしき)り摘み食いをした後、食器を片付けた左文字は、テキパキと餃子を包む陳さんの対面に座る。

「チャーシューに手を出しテいたら脳天包丁だったネ」

「流石に3回もやられたら学習しますよ」

 冗談も言いつつ一息吐いて臨戦態勢になった左文字は、カッと目を見開くと目にも留まらぬ速さで餃子を仕込んでゆく。

 宛ら動画の早送りでも見ているかのような素早さで、餃子の仕込みを進めてゆく二人。

 何せ餃子はこの『一品香』一番の人気メニューなのだ。来る客それぞれがその都度注文してゆくものだから、どれだけ作り置きしたとしても数が足りない。

 普通の店であるならば、三四人の手を借りて、一時間以上の時を要して、漸く最低限の数を揃えるに至る。そのくらいの売れ行きを誇っている。

 しかし、そこは左文字と陳さん。15分のうちに二人して各1000個の餃子を手作りしてしまう。

「それじゃあ、私はこの辺で」

 既に仕事は終わったと、そのまま席を立って後にしようとする左文字。しかしそれを陳さんが呼び止める。

「チョット待つネ ! マダ焼売と春巻きの仕込みが残ってるネ!」

「えぇ… この後用事があるんですが」

「コッチは屋根と壁を貸してルんだから、手伝うヨロシ!」

「あとは従業員の方に頼んだらイイじゃないですか」

「頼んだら人件費掛かるのヨ」

「私には人権ないんですか?」

「ナイよ」

 ―――参りましたね。犬猫以下じゃないですか。

 不毛な言い争いに持ち込もうとも、それだけで時間を超過してしまう恐れがある。

そもそも万が一ここを追い出されたら、左文字にはホントに犬猫以下の生活しか待っていないのだ。

『衣食住』はそれだけ大切だということ。人として生きるというのに必要だということである。

 それだけに屋根と壁を握られていることは、人としての尊厳を握られているということに等しい。

 ―――まあ、仕方がないですね。

 色々言いたいことを腹の底に飲み込んだ左文字は、そのフラストレーションをぶつけるように、残像が見える速さで仕込みに従事した。

「アリガトね。助かったヨ」

 そうしてようやく仕込みが終わったのは、左文字が約束をしていた時間の10分前のことだった。

 ―――急いで行けばまだ…なんとか間に合いますね。

 手を洗う事も程々に店を飛び出した左文字は、劇場通りから立教通りへと急ぎ駆け抜けて目的地の正門前までやってくる。

 そこはご存知、『立教大学池袋キャンパス』である。

 池袋に居を構えて早百年前後、この街が健やかなる時も病める時も分かつことなく寄り添ってきたこのキャンパス。

 今では街の重鎮と言っても過言ではない。

 また、大学がある、そのことが今の池袋を形作ったとも言えるだろう。

そもそも、大学があるということは、学生という若い息吹を呼び込むことである。

それにより若者たちが持ち込んでくる新しいカルチャーと、昭和の闇市から連綿と続く昭和モダンが渾然一体となった街を形成することになり、池袋のカオスな雰囲気を醸し出すことに一役買っているのである。

そして、大学といえば学食であり、第一食堂の名物であるカツ丼は、かの『ミスタージャイアンツ』長嶋茂雄も愛した逸品として知られている。

もちろん左文字も大好物である。

しかし、そんなカツ丼に目移りしている暇もない今日の左文字は、足早にキャンパスを抜けて文学部の研究棟へと向かう。

もはや左文字は何度も来た身であり、顔パス同然で史学科の研究室までたどり着くと、息を整えてドアをノックする。

「どうぞ」

 ノックの音に答えるように、柔和な男性の声で返事が返ってくるのを確認した左文字は「失礼します」と一言述べて扉を開く。

「やあ、左文字さん。いらっしゃい」

 壁を埋め尽くすメタルラックに詰め込まれた沢山の資料。それでも入りきらなかった上山が机や床に山のように積み上がっている。

 そして御山の大将、この部屋の主である一人の壮年の男性が、ニコやかな表情を浮かべたまま、左文字の到来を歓迎してくれる。

「お久しぶりです。辺場(あたりば)教授」

 ドアの前のネームプレートのあったように、また左文字によって呼ばれたように、この部屋の主の名は辺場といい、目の前の壮年の紳士である。

 (よわい)は還暦を過ぎたと聞いてはいるが、フサフサと生え揃った白髪とシャンと伸びた背筋から、実年齢よりも十歳は若く見える。

 部屋の混沌とした散らかり様とは対照的に、きっちりアイロンの当てられたワイシャツに濃紺のベストを羽織り、下はスラックスと整った、清潔感のある服装をしている。

昭和を通り越して大正時代の紳士像を持ってきたような、そんな雰囲気を辺場教授からは受ける。

 しかし、その物腰はとても柔らかく、話していて緊張することはなく、朗らかな気分になる。そういう人だった。

「いや、左文字さん。わざわざ来てもらって悪いね」

「いえ、約束の時間に遅れてしまって申し訳ありません」

 遅刻の非礼を詫びる左文字に、実に紳士的に、辺場教授は満面の笑みを持って手をかざす。

「そんな、1分2分も一時間もイイってことさ。この歳になるとその辺の時間感覚が些細なことでね。何なら昼時に来てもらえば昼食をご馳走するけれども?」

 思いがけない言葉に恐縮する左文字を眺め、実に面白そうにニッカリ笑う辺場教授は、資料の山の中から引きずり出した椅子に腰掛けるように勧めてくる。

「まずは一服、茶でもどうかな?」

「ありがとうございます。いただきます」

 茶菓子と一緒に出されたアールグレイを啜る左文字。自分の分を淹れた辺場教授がカップを手にするその姿が実に絵になって、思わず見惚れてしまう。

「ああ、いい茶葉だなこれは。菓子にも良く合う。君も食べなさい。私はこの『アーモンドチュレイル』が大好きでね」

 辺場教授に勧められた焼き菓子を一口頬張ると、なるほど確かに美味である。

 アーモンドチュレイルは封を開けただけでバターが香るビスケットの上に、タップリと敷き詰められたアーモンド。それをチョコレートでコーティングした焼き菓子である。

口の中でそれらの香りが織り成す三重奏に食感のハーモニーが加わって、得も言われぬ幸福感が味わえる。

もちろんこれが紅茶に合わないはずがなく、左文字も大人気なく何倍もの紅茶と何本ものアーモンドチュレイルをおかわりしてしまったほどだ。

「いやはや、流石だ。相変わらず実にイイ食べっぷりだね」

 実に胸の透くようだと感心する辺場に、左文字は今になって自分のことを省みて恥ずかしくなる。

「それで、今日はどんな要件で私を呼んだのですか?」

 照れ隠しのつもりなのか、左文字が唐突に呼ばれた理由を切り出したのに、辺馬教授は「そうだね…」と、落ち着きを崩さず返答する。

「君も知っての通り、私は『食文化』について研究しているだろう?」

 それには左文字も頷く。

 立教大学文学部史学科。そこはありとあらゆる歴史について研究し、議論する(やから)の集う場所である。

 彼らは各々自分のテーマを決め、その真実に辿り着くことを目的に日夜研鑽し、時に助け合い、時に否定し合いながら過ごしている。

 そんな彼らの一人である辺場教授もその例に漏れず、己の課題に答えを出すために、寝食を惜しまず研究室へ入り浸っている。

 その辺場教授の専攻は聞いての通り『食文化』である。それだけ聞けば申し分ない。

「それでもってその中でも『喰い逃げ屋』について研究しているじゃないか?」

 だが事もあろうに、この辺場教授。さらに『喰い逃げ屋』をメインに研究をしている一風変わった人である。

「その『喰い逃げ屋』の起源に迫れるのではないかと思われる発見があったんだ」

 何がどう面白いのか、目を輝かせ新しい玩具を手に入れた子供のように、(はしゃ)ぐ辺場教授の言葉に熱が篭る。

「長野県の千曲市にある『森将軍塚古墳』で今まで知られていなかった玄室(げんしつ)が見つかってね、そこに描かれていた壁画に『喰い逃げ屋』に纏わると思しきものがあったとの情報を掴んだんだ」

 言葉に熱が帯びるたび、ズイズイと、左文字の方へ少しずつ近づいてくる辺場教授。

「もしこれが本当だとしたらどうだろう? 今まで江戸の中期からだと考えられてきた『左文字』の歴史も一気に古墳時代まで遡ることになるかもしれないということだよ! ねぇ! ワクワクしてくるじゃないか!」

 辺場の若干狂気めいた目の輝きに、これまた若干引き気味の左文字。彼もまた黒く焦げ付いた情熱の持ち主なのだと改めて感じ入る。

「そんなに凄い発見なのですか? こんなどうしようもない稼業ですよ」

 しかし、当の左文字には、どうして辺場教授がそこまで喰い逃げ屋に対して熱を入れているのか、その理由が理解できないでいた。

 むしろ、左文字にとっては喰い逃げ屋とは研究されるほど高尚な事でなく、脚光を浴びることなく日陰に在るべき所業なのだと思っているくらいだ。

「ええ…イイじゃないか『喰い逃げ屋』。私は好きだよ」

 しかし、辺場教授の意見は真っ向から食い違うらしく、コポコポと新しい紅茶を入れながら、口を尖らせ不満を漏らす。

「第一、看板背負ってやっている君が否定的じゃカッコが付かないだろう? それに今は空前の『喰い逃げ屋』ブームだそうじゃないか。胸を張りなさい。先代だったらそうしているはずだよ」

「確かにあの人ならばそうかもしれませんが…。私も別に恥じているわけではなくて、研究されるほど、そこまで大層なものじゃないと思っているだけですが」

 言うなれば、和食や洋食など文化に根差したものを題材に研究するという事をアーモンドチュレイルに例えるならば、喰い逃げ屋を題材とすることは駄菓子の様なもの。いや、それ以下かも知れない。

 兎にも角にも同じ時間を掛けるなら、価値あるものに掛けた方がイイ。そう言うように左文字は思い、その旨を言葉にする。

 しかし謙遜する左文字にイヤイヤと、辺場教授が新しい茶菓子の箱を開けながら左文字の言葉を遮る。

「そう思っているのは君の悪い所だ。そもそも、喰い逃げ屋の歴史は古いんだよ?『左文字』の名跡だって江戸時代から続いてるそうじゃないか。それは最早伝統芸能と言って差し障り無いだろう」

「買い被り過ぎですって、辺場教授。『喰い逃げ屋』なんて尤もらしい看板掲げていますが、言ってしまえば泥棒みたいなものですよ。こんな私は伝統芸能なんて、芸術と並べて比べられるような土俵に立てない日陰者、外道なのですから」

「ほら、それが悪いとこ!」

 地べたで蛇行でもするように、卑屈になっている左文字の姿に、ヤキモキした辺場教授が指を指す。

「そんなさ、人の生業(なりわい)なんて千差万別。四面四角、定規を当てて測った様な仕事ばかりじゃ息が詰まる。だから私は『喰い逃げ屋』みたいな外連(けれん)の効いたことが大好きなのさ。そもそも、落語を見てみなさい。ホラ話バカ話を話し続けて百年以上も木戸賃を貰っている。狂言を思い返してみなさい。笑劇喜劇も千年続けば国宝だ」

 熱く熱く、熱を込めてツラツラと、手に持ったカップすら握り潰してしまうのではないかと思うほど力強く、辺場教授は喰い逃げ屋の正当性を語って聴かせる。

「だからこそ、君には胸を張っていて欲しい。堂々としていて欲しいんだ。そうした方が私の大好きな、手に汗握る『喰い逃げ屋』が見られるからね」

 ポンッと肩に置かれた辺場教授の掌から、燃えるような熱が伝わってくる。

 ―――マッタク、教授は昔から優しいですね。

 肩を押されたからと言って素直に考えが変わるわけではない。だが、それでも自分の事を肯定してくれる、後ろ盾のような存在がいるという事は、どうにも無条件に嬉しくなってしまうものだ。

 だからと言って甘えてしまうのは悪い癖だが、大人になるとそういう存在も貴重になる。その事を有難いと左文字は常々思うのだ。

「…それで、何の話をしていたのでしたっけ?」

 話が盛大に脱線したことを思い出し、左文字が呼ばれた理由を問い返せば、辺場教授も「おっと、いけない」と我に返って地図を出す。

「話の途中だったけど、長野の古墳で喰い逃げ屋に纏わると思われる新しい発見があった…ってことまでは話したね。そこで、当代の『左文字』である君に、調査の協力してもらい、その眼で見て意見を聞かせて欲しいと言う訳だ」

「…」

 その一瞬、左文字は何かを言い淀むように、何かを躊躇(ちゅうちょ)するような素振りを表に見せるが、それはすぐに表情の裏へと隠れてしまう。

「…それは、私に長野へついて来てくれ、という事ですか?」

「そういう事」

 ビシリッと辺場教授から刺された指の先、狙われた左文字は柄にもなく取り乱す。

「そんな、一緒に来て意見を述べろと言われましても困ります。私、自慢じゃないですが無学ですよ。ついて行ったところで、そんな大学のアカデミックな話なんてできないと思いますよ?」

「いやいや、学歴とかそういうのは気にしなくてイイさ。必要なのは君の見解、それを見てどう思ったのかってことだ。何せ君には喰い逃げ屋として積み上げてきた経験と、それに基づくセンスがあるからね。きっと感じ入るものがあるはずさ」

 そういうものだろうか、よく解らん。小首を捻って疑問符を浮かべる左文字に、追い討ちとばかりに辺場教授が捲し立てる。

「調査は一週間掛かるけど、君に古墳まで来てもらうのは一日だけでいいからさ。残りの日数は好きに観光していてイイよ」

「 ! 本当ですか?」

「ああ、しかも宿賃電車賃はこっちが持つ」

 そんなVIP待遇。中華料理店の二階で己の人権について見つめ直していた左文字にとって、想像すらしなかった展開だ。

「今の長野はイイぞぉ。何より雪がある。白馬でも伊那でもウィンタースポーツが楽しめる。…君は経験者かな?」

「スキーもボードも、あとスノーモービルも(たしな)む程度には」

「エクセレント。重畳々々(ちょうじょうちょうじょう)。だったら長野に行くしかないね! マイスノーモービルも貸してあげよう」

 いよいよテンションが上がってきた辺場教授は、落ち着く様にと執成(とりな)す左文字の話が全く聞こえていないようだった。

「それに、長野には温泉がイッパイあるからね。温泉に浸かりながら雪見酒、月見酒。実に乙だね、粋だねぇ。だろ? 行ってみたくなってきただろぉ⁉」

「いや、私、お酒はチョット…。その、折角ですけれども、今回はお断りさせていただきたいのですが」

 ドン引きする様な辺場教授のハイテンションに、身の危険を感じ取った左文字が長野への動向を丁重に断ろうとする。

 しかし、その言葉に辺場教授が急に神妙な顔に成ったかと思うと、こめかみに手をやって思い悩み始める。

「いや、それは困る。実に困ったなぁ…」

「…何が困ったのですか?」

 ワザとらしく、芝居がかった様子で困惑してみせる辺場教授。

これを聞き返すことは絶対に碌な事では無いと解っていながらも、これまでの関係上これを放ってはおけない左文字は、恐る恐る聞きかえす。

「いや、私ってば『喰い逃げ屋』なんてニッチな内容を研究してるじゃない?」

「今、サラッと酷いこと言われました?」 

「だから、この研究室にはそれを研究したいと言う変人変態達が全国からワラワラ集まって来るのさ」

「類友ですよね? それって」

「そんな彼らにさぁ… 言っちゃったんだよ。君を連れ来るって」

「えぇ…そんなことを言われても、私に関係ありませんし」

 自分でも随分と冷たいことを言うなと思う左文字だが、経験上これ以上辺場教授の話に付き合って良かった試があまりない。

 実を言うと左文字と辺場教授との付き合いはかなり長く、左文字が先代の弟子であった頃まで遡る。

 辺場教授の専攻上、喰い逃げ屋との接点は必要不可欠なものであり、ことに大名跡『左文字』ともなれば、是非とも関係を構築しておきたいと考えるのが当たり前である。

 そんな辺場教授の事を快く迎え入れたのが当代左文字の師匠に当たる先代であり、そのもとで修業をしていた左文字も付き添いで辺場教授との親交を深めていったのである。

 思えば本当に良くしてもらったものだ。

 徒弟制(とていせい)故仕方ないとは言えパワハラ紛いの修業の日々に、心が折れ掛けていた左文字に、優しく励ましてくれた言葉と、先代に内緒で奢ってくれた『伯爵』のピザトーストの味は今でも忘れられない。

 きっとあの日の出来事が無ければ今の左文字は無いだろう。

 しかし、それすら帳消しにしてしまう程、左文字は辺場教授から何度か酷い目に合わされている。

「教授、覚えていますか? 私の修業時代に那須高原に行った事」

「ああ、イイとこだったよね」

「確かに良かったです。空気も料理も美味しくて。初日は実に良かったです…。ですが何なのです? 二日目の無茶振りは!」

「…はて? 何だっけ?」

「牛の乳を直飲みして、牛から逃げろって言ったじゃないですか!」

「えぇ⁉ そんな酷いこと言ったっけ?」

 確かに酔った勢いだったと思う。前後不覚で酩酊しきった辺場教授はそんな無茶振りをしてきたのだ。

「その時先代はやり遂げただの、やらなきゃ先代に言いつけるだのと。言っておきますけども、あれって完全にアルハラですからね!」

「ああ、思い出してきた。あったねぇそんな事。…しかし、次の日ホントにやるとは」

「おかげで暴れた牛が柵を壊して逃亡するし、そのまた次の日に私は腹を下すし、ホント最悪でしたよ! マッタク、あの時師匠も面白がってドンドンやれと言うし」

 色々上げれば切がない。先代左文字も辺場教授も昭和生まれの悪乗りで、酒が乗ったら無礼講。アルハラパワハラ何のその、コンプライアンスの欠片も無い。

 この二人が絡んだせいで、池袋の居酒屋のイッタイ何店舗から出入り禁止を食らった事か。

 そしてそんな乗りは当代の左文字へと代替わりしても変わりなく、まったく同じテンションで絡んでくる。

「左文字が代替わりしたからって、先代の乗りのままで私に接しないで下さい!」

「いやぁ、なんというか滲み付いちゃってね」

「あれは、先代があんな性格だったからOKだっただけですよ。左文字が代々奇人変人の集まりだと思わないで下さい!」

「えぇ⁉ そうなのぉ?」

 全く悪びれず、飄々として、ノラリクラリと左文字の非難を躱す辺場教授。

 親切なのか意地悪なのか。本当に掴み所のない辺場教授に、溜息も吐き飽きた左文字が頭を掻く。

「ホントに一日だけでイイのですよね?」

「イイよ」

「残りはこっちの勝手にしてもイイのですよね?」

「もちろん」

「ホントに宿代も電車代も出してくれるのですよね?」

「二言は無いよ。何なら君の弟子の分まで出そうか?」

 慣れ親しんだ二人の間に、ここまで来たら『拒否』の二文字は最早無い。

「わかりました。行きます」

 最後は左文字が折れる形で渋々嫌々承諾する。

「ああ、良かった。これで学生たちをガッカリさせないですむよ」

 対する辺場教授は心底安心したのだろうか、早速宿の手配の取り掛かる。

 ―――これも縁と言う奴ですかね。

 左文字がこうもアッサリと折れたのは、辺場教授とはこういうものだと割り切っているからだった。

 左文字としても辺場教授に付き合っていては、遅かれ早かれ磨り潰されるであろうことは、想像に難くない。

 しかし、今まで紡いできた関係というものはそう易々と断ち切れるものではなく、一度出来てしまった上下関係というものも簡単には覆らない。

 その上、こと関係性に至っては、左文字本人の紡いだものによらずとも、『左文字』という屋号を継いだことにより引き継いだものもある。

 それを反故にするということは、信用を落とすということに繋がり、牽いては屋号を貶めることに繋がる。

 今のままが心地よいわけではないが、変えることには苦痛を伴う。だからこのままズルズルと、現状維持の関係が続いているのである。

 ―――マッタク、どうにも生き辛いですね。

 人は一人じゃ生きられないが、多く集まれば逃げられない。絆も(しがらみ)も変わりなく、左文字を捕らえて離さない。

 思えば自分は碌な縁を結んでいないのだなと、自分の対人運の無さに呆れかえるが、類が呼んだ友だと言うことを当の左文字は棚に上げていた。


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