第捌巻 気になった事
第捌巻 気になった事
典人は変にテンションが上がった状態のまま、異世界転移物小説で初っ端に割とよく出てくるキーワードである『ステータス』と勢い込んで唱えてみたが、何も起きる気配がない。
暫しの沈黙の時間。
背中に冷たい汗が流れてくる。
そして、右手を天に突き出ししばらく固まっていた典人の硬直が解けた。
(……やっちまった)
「典人お兄ちゃん?」
「典人様?」
「ご、ご主人様?」
三人の視線にいたたまれなくなった典人は、見る見るうちに耳まで真っ赤になってくる。
「どうかなさいましたか、典人様?」
心配気に垢舐めが問いかけてくるが、今はその優し気な言葉の気遣いが典人にとってはこの上なく苦しい。
(止めてくれ! 今、その胸に優しく抱擁とかされたら、泣き出す自信があるから)
ちなみに、典人の心の声の様な自分に都合の良い嬉し恥ずかしな展開にはなってはいない。
「いっ、いや、昨日オレの中に七つの緒札が入ってきたって話はしたよね」
「はい」
「その中で使えそうなものが無いかなあと思ってさ。オレが日本で読んだことがある小説にこんな感じのシチュエーションのがあって、そこでまず使ってたのが自分や相手の状況を見る『ステータス』って呪文だったんだけど、オレも使えるんじゃないかなあ、なんて……あははははっ」
典人は取り繕う様に早口で話し、左手を後頭部に回し頭を掻きながら乾いた笑みを浮かべる。
「何も起きなかったね典人お兄ちゃん」
KO!
座敷童の子ども特有の悪意の無い無邪気な一言に心を貫かれ、再び寝袋に倒れ込む典人。
これはちょっと立ち直れそうにない。誰もいなければ、部屋中をゴロゴロと転げ回っていたに違いない。
「それでしたら、昨夜の状況を再現してみては如何でしょうか?」
そこに垢舐めが助け船を出す。
「昨夜の状況?」
寝袋に倒れ込んだまま、顔を横に向け典人が聞き返す。
「そうです。地下の広場に行って『かもめ』の中で『牢獄核』と唱えてみては如何でしょう? 『七つの緒札』のことは良くは分かりませんが、昨夜、典人様の行動で私たちにも分かる変化があったのはあの時ですから」
「なるほど!」
典人は頷き、何事か考えてから三人に言った。
「やってみようか」
良い提案で有るのも確かだし、他に取れそうな方法も無かった典人はその提案に乗ることにした。何より先程思いっきり痛い行動をやらかし赤っ恥をかいたこの部屋から一刻も早く出たい気分であった。
「善は急げだ! 早速行こう!」
ガバッと起き上がると、文字通り早速一目散に部屋の入口へと典人はむかっていった。
それを呆気に取られて眺めているだけの3人娘。
「えっ!? あっ! 典人様」
一番最初に復帰した垢舐めが、何かに気が付き声を出す。
典人がかなり立派な造りの木の扉を無意識のうちに思いっきり開け、廊下に勢いよく飛び出ると、そこには黒髪の綺麗なストレートロングを湛え少し日焼けした見た目中学生くらいの女の子が立っていた。
「うわっ!」
避けきれず、ぶつかりそうになる。
何も考えず勢いよく廊下に飛び出したため、典人は咄嗟にその女の子が倒れないように両手で抱きしめるのが精いっぱいであった。
危うくのところで衝突してからの転倒と言う事態だけは回避することのできた典人ではあったが、身長差からスッポリと自分の胸へと抱きかかえ込む体勢となり、典人の顔がその少女の頭の上、綺麗な黒髪に埋もれる。
安堵のため息と共に、ついた深呼吸により吸い込む形となった長い黒髪から漂う仄かな甘い香りが、典人の鼻孔を擽る。
(これは! お約束の出会いがしらのぶつかりイベント! 倒れて尻もちついて下着丸見え展開じゃないのが残念だったけど、食パンもないし、おにぎりだとちょっと違うか。まあでも、この感触と香りはこれはこれで悪くないかも!)
「……」
暫しの静寂。
少女は少し典人の胸から頭を逸らし、典人を見上げ、黙って見つめてくる。冷静そうな顔立ちもそうだが綺麗で吸い込まれそうな黒い瞳がとても印象的な少女である。
「……なっ、なにかな?」
だが、その何かを見通されているかのような眼差しに、典人は少したじろいでしまう。
「……着物だから、はいてない」
「マジで!」
その瞬間、典人の頭に雷撃が走った!
たじろいでいたのもそこそこに、心底悔しそうな表情を浮かべる典人。可愛い女の子を抱きとめていなければ、崩れ落ちて両手を床に付けて滂沱の涙を流していたに違いない。それを踏み止まったのだ。実に立派である。
「……今のは素直過ぎ。心読まなくても顔に出てる」
「心を読む?」
「あれ? 珍しいね。覚ちゃんが避けられないなんて、っていうか初めてかも」
扉からひょっこりと顔を覗かせた座敷童が、少女を見てそんな感想を漏らす。
「さとり? って、あの人の心を読めるっていうあの『覚』?」
「そうだよ。覚ちゃんは凄いんだよ! 鬼ごっこしてても全然捕まえられないんだよ。いつも、ギリギリのところで避けられちゃうんだから!」
「じゃあ、今のこの状況は何で?」
そう問いつつもしっかりちゃっかり抱きしめている典人。そして再び覚の顔を見つめる
冷静なように見えたが、どうやら固まって動くことが出来なかったようで、改めて見ると動揺しているのが良く分かる。
年のころは13・4歳、中学生くらいだろうか? そこそこ日焼けしているにも拘らず、間違いなく顔を紅潮させているのが見て取れた。
身体もどうやら硬直していたようだ。未だに典人の抱擁を受けながら避けるでもなく成すがままになっている。
「典人様、一先ずは転倒を避けられたのですから一旦放してあげてはいかがでしょうか?」
座敷童に続いて部屋から出てきた垢舐めが、穏やかな口調で提案してきた。
その後ろにはお盆を持った小豆洗いが立っている。小豆洗いの方は顔が赤くなっていた。昨夜の典人との状況が重なったのであろうか。胸元をお盆を抱え込むことで胸元がムニュリと変形している。
「あっ、ああ、ゴメン。痛い所とかないよね?」
「……どうしよう。動揺して、はいてないのを吐いてしまった。これは痛い。不覚」
「覚が不覚って……って言うか、韻を踏んでたり、紛らわしかったり、突っ込みどころ満載だな。おいっ」
典人と覚が離れたところに三人が部屋を閉め傍らに立つ。
「さっ、覚さんはどうしたのですか?」
小豆洗いが尋ねる。
その横には座敷童が小豆洗いの着物の裾をしっかり握っている。
「……様子を見に来た」
「そうでしたか。私たちはこれから『かもめ』の儀式の間に行こうと思っているのですが一緒に行かれますか?」
「……私も行く」
そう言うと覚は典人たちが歩き出した後に付いてくる。
そうして5人で昨夜の地下の空間、大ホールに向かって歩き始めた。
太陽の位置の関係だろうか? 日差しが直接入ってきている訳では無いが、晴れているおかげで石造りの廊下は窓の光だけで十分明るい。
しかし、石造りの建物のせいか、漂っている空気は割とひんやりと冷たく感じられる。
途中、廊下の窓から見える外の景色は一見しただけでは日本のどこにでもある様な森と何ら変わるところが無いように典人には見えた。他の女の子が外にいるようには見えない。
だが、ここは異世界。
自分の知る植物とは違っているのかもしれない。
いずれはこの廃砦も含めて牢獄核で囲まれている範囲内について、周囲の安全確認も兼ねて調べに行かなければならないと感じていた。
でも今は他に廃砦内でやらなければならないことが多そうだ。
何をやればいい?
何から始めればいい?
日本では一介の高校生に過ぎない典人にとって、この状況は昨日の今日、全くの手探り状態から始めることになる。
(そもそもいきなり呼ばれ昨夜は成り行きでリーダーっぽく仕切って終わったけど、オレがこのままリーダー役で仕切って本当にいいのか? 生徒会はおろかクラス委員だってしたことないのに。大体、オレ、この子たちを含めて全員の女の子の事全然知らないし。確かに、彼女たちが言うように有名な妖怪とかなら聞いた事はあるけど、100妖? 100鬼? ああ、もう100人でいいか今更。100人も妖怪なんて性質も含めて名前なんて知らないぞ。んっ? 名前?)
そうして廊下を昨夜、典人が『かもめ』の儀式で召喚された地下室に続く階段を目指して歩いている途中、さっき途中からテンションがおかしくなってすっかり抜け落ちていた事を思い出して聞いてみることにした。
「そう言えば、座敷童ちゃん、名前は何ていうの?」
「名前?」
聞かれた座敷童がキョトンとした表情を浮かべて典人を見る。
「そう、名前。昨日はご当地アイドルのドッキリだと思ってたからそのまま呼んでたけど、もう誤解してないから妖怪の呼び方じゃなくて名前を教えてくれるかな」
「無いよ」
「えっ? 無いの?」
「名前、無いよ」
「……座敷童ちゃん。もしかして、他の子達も同じで名前がないのかな?」
「同じ?」
「そう。他の子たちには名前とかあるの?」
聞いてから典人はしまったという表情になる。
何故かと言えば、座敷童に関わるある話を思い出していたからである。それは座敷童の伝承の中には貧困から生まれてすぐに口減らしのため、間引きで命を失った子が座敷童となった事例があるというものであった。中には石臼で圧死させられた話もあったらしい。そして土間や石臼の下に埋められたという。そういった場合、その座敷童は雨の中寒さに震えながら歩いている姿が目撃されたそうだ。
その話を典人は子どもながらにお爺ちゃんから聞いた時、自分が寒空の下冷たい雨の中を凍えて震えながら佇んでいる姿を想像してしまい、暗鬱な気分になった事を覚えている。
必然、名前なども与えられる事も無くこの世を去った子もいただろう。
「ううん、ないよ。雪女は雪女ちゃんだし、ろくろ首はろくろ首ちゃんって呼んでるよ」
「典人様。私たちは妖怪。元より多くが自然から発生しておりますので、名などありません。時折、名前を持つものが妖怪や神格化したり、人間達が好きに呼んだりすることはありますが」
典人の表情から察したのか、垢舐めがフォローを入れてくる。
垢舐めたち自身は気にした様子が無いようなのだが、典人の表情は一段と複雑な物に代わっていく。
(それだとなんか、うまく言えないけど……)
気が付けば典人は自然と座敷童の頭を優しく撫でていた。
「典人お兄ちゃん?」
「……」
撫でられた当の本人の座敷童は自分の頭を撫でている典人をキョトンと見上げながら不思議そうに首を傾げていたが、その後ろでは覚が無言で典人のことをジッと見つめていた。
その後は、そのまましばらく全員が一言も話さず長い廊下を歩いていく。
それから数分後、連れだって地下の広場、典人が昨夜、魑魅魍魎たちに『かごめ』の儀式によって召喚された場所にやってきた。
途中、結構な段数の階段を降りて長い廊下を通って着いた部屋の前に立ち、重厚な扉を開ける。
扉を開けてまず、目に飛び込んできたのはその空間の中央部、そこから上に昨夜見た勾玉というか巴の形状をした牢獄核が薄い紫色の淡い光を湛えて浮かんでいる光景であった。
典人が改めて凝視しても何かで吊っているという様子はない。
光源は牢獄核しかないため、室内はそれ程明るくはない。
中を見て典人は独り言の様に口を開いていた。
「昨日も広いと思ってたけど、改めてみると凄いな。軽く50m四方はありそうだけど」
典人は高校生である。当然、典人には建築の知識は無いので良くは解らないが、これだけの広さの地下空間にあって柱が一本も見当たらないことに大丈夫なのかと不安を覚えなくもない。
それから目線を下げると、牢獄核の下。牢獄核を見上げるように立っている人影が見えた。
(んっ? 誰かいる)