第漆拾弐巻 逃亡者 気の利いた趣向
第漆拾弐巻 逃亡者 気の利いた趣向
男達は暗闇の森の中を振り返ることもなくただ只管に走り続けた。
野盗の中に紛れ込んだ帝国の特殊部隊の一団。
隠密に特化したこの部隊は情報を持ち帰ることを主な任務としているため、戦闘には決して参加せず、目の前で同朋が無残に殺されてる様を見ることになっても情報を持ち帰る事を最優先にする部隊である。
その男達が暗い森の中、ただひたすらに走り続けていた。
今回の任務は少々毛色が違うが、野盗に紛れ込み、王国近くの地形などの情報収集を目的としていた。
その中で野盗に偽装している以上、王国の者と遭遇すれば、戦闘になる事も承知している。
幸いと言うべきか、現在に至るまでは幾つかの商隊を襲っただけの為か、王国の騎士団などが出張って来る事もなかった。
そんな中、王国の目と鼻の先に彼らが帝国の欲する橋頭堡と成り得る廃砦が見つかったという。
この男達にとってみれば、願っても無い情報であった。
だが、今回は何かがおかしい。
戦場にあって、味方が倒れていく中、その惨状を背に情報を持ち帰るべくその場を離脱することは任務として過去何度も経験している。
だが、今回は弱いとはいえ味方だとは思ってもいない野盗の連中が、見た目年端もいかぬ少女たちにあっさり次々と殺されていく。
遠目に見た少女たちの大半が人族で残りは獣人族であった。
中には野盗の頭領を倒した有翼人族という珍しい種族も見て取れたが、それだけで野盗の集団とはいえ、これだけの規模の集団を壊滅させられるだけの戦力であるとは考えにくかった。
今回は何かがおかしい。
幾度もの経験からか、彼らは肌でそれを直感していた。
この情報は何が何でも本国に持ち帰らなければならない。
その思いから男達はただ只管暗い森の中を走り抜けていた。
「待て!」
先頭を走っていた一人の長髪を後ろで一つにまとめた男が他の者達を制止する。
他の男達もその指示に従い、ピタリと動きを止めた。
改めて目を細めてみれば、自分達の進む先に微かに光るものが目に映った。
さらに注意深く見てみれば、少し行った目の前の足元に一本の糸がピンと張られていることがわかる。
この暗がりでは見落としてしまうであろう細い糸を、だが、わずかな光の反射によって気付いた事は流石と言っていいだろう。
「罠ですか?」
「間違いなくな」
一人の男の問いに戦闘の男は軽く頷いて答える。
その時だった。
「賢い、賢い」
艶があるが何処か幼さの残る声が森の中から響いて聞こえて来た。
皆、瞬時に武器を構え背中を合わせて円陣を組む。
油断なく辺りを警戒する中、太い木の影から一人の異国の装束に身を包んだ黒髪の少女が姿を現した。
「もう帰ってしまうの? もう少しゆっくりと遊んでいらしてはいかが?」
そこには長い黒髪をツーサイドアップにし赤い玉の飾りで留め、流した後ろ髪も同じく赤い玉の飾りで二つに束ね、耳にも同じ赤い玉のイヤリングを付けた、赤い瞳の怪しい美貌を持った、見た目16歳くらいの少女が佇んでいる。
『絡新婦』の紫雲であった。
「貴女のような麗しい女性が相手なら、そうしたいのは山々なところだが、あいにくと急ぎの用があってね」
長髪を後ろで一つにまとめた男がかなり芝居掛かった口調で大仰に手を広げ紫雲と向き合う。
「あら、つれないこと」
少女が口元に着物の袖を当てて言うと同時にその男に向かって何かが飛んで来る。
それを男は咄嗟に剣を立てることで防ぐ。
見れば剣に先程、罠として張られていた糸と同じ糸らしきものが巻き付いてきた。
剣の刃に巻き付いているにも拘らず切れていないところを見ると只の糸では無い様だ。
「くっ、糸使い? 斬糸使いか。気を付けろ! 女暗殺者だ」
周りの仲間に知らせるように声を発する。
他の男達も一段警戒を強めた。
「(この情報を何としても帝国に伝えるんだ)散れ!」
そして、その号令と共に5人はバラバラの方向へと走り出す。
誰か一人が帝国までたどり着ければ良い。
そう考えて逃走を図る男達を、紫雲は慌てるでもなく、追いかけるでもなく見送っている。
そして、号令を発した男は絡みついた糸を剣を鋭く捻り斬ることで振りほどき、構え直すと己は足止め役となるべく間髪を容れずに紫雲に向かって斬りかかっていった。
「あら、気が変わったの? 遊んでくれるなんてやさしいこと。それにしても、他の全員、迷いもなく逃げを打つとは。本当に、かしこい、かしこい」
そういうと紫雲は斬りかかってきた男の剣を飛ぶことでかわし、そのまま糸を木の枝に括り付けて他の枝へと飛び移った。
男を見下ろす。
「下から覗くなんてエッチ」
「……」
紫雲は悪戯っぽい笑みを浮かべるが、男はその挑発には応えず、そのまま走り去ろうとした。
「あら?」
だが、数歩踏み込んだところで、その足が止まる。
「……」
目の前には斬糸による網が張られていた。
形状はまるで蜘蛛の巣を思い起こさせる。
「クスクス、さてと、貴方がこの諜報部隊の長かしら?」
「……」
「あら、今度は黙り?」
「……」
「沈黙は肯定と捉えても良いかしら?」
「……」
「ほ~んと、つれないこと」
紫雲が嘆くように袖を振るい、糸を投げた。
男はそれを辛うじて避け、右へと移動し、回り込もうと走りだす。
避けた糸はそのまま男の後方にあった木の切り株に巻き付いた。
メキメキメキメキッ!
「なっ!」
在らぬ音がして切り株が地中から引き抜かれていく。
これには男も足を止め、驚愕の声を上げた。
(『筋力強化』のスキル持ちか)
あのような小柄な少女が木の切り株をいとも簡単に引き抜いたことに驚きはしたが、すぐに冷静さを取り戻し相手の力量を計りにかかったことは流石と言える。
それと同時に、即断、別の方向へと走りだす。
だが、またも目の前には網が張られており、男の行く手を遮った。
一瞬断ち切ることを考えたが、最初に男の剣に絡みつかせた糸の強度から見て、一刀でこの網を切り開くことは困難であると判断する。
恐らくは断ち切っている間にその隙を狙って斬糸を飛ばしてくるに違いない。
案の定。
その刹那の思考の間にも少女が斬糸を飛ばしてきた。
男が地に転がってそれを避ける。
起き上がると同時に、また別の方向へと走りだそうとするが、今度はすでに網が張られていることに気づき、動きを止めた。
斬糸からの攻撃を躱すため咄嗟に近くの草むらにガサリと跳びこむ。
そのままガサガサと音を立てながらも草むらを抜けるが、そこにも網が張られていた。
「くっ!」
そうして着々と紫雲は戦っている間に斬糸を張り巡らせ包囲網を作り上げていった。
逃げようとすれば逃げようとするほど、動けば動くほど、行動できる範囲が狭まっていく。
(一体、あの小柄な少女の身体の何処からこれだけの斬糸を隠し持ち、出しているというのだ?)
男が思考したわずかな隙に、紫雲が男の剣に目掛けて糸を放つ。
「しまっ!」
男はそれを断ち切ろうとするが、先ほどの糸と違い、今度の糸は剣に絡みついてなかなか断ち切ることができない。
(何だこれは!? 切断するための強度の強い糸じゃない。粘性の高い糸? ちっ、2種類の糸を使いこなすのか、厄介な!)
次々と糸が増えていき剣を覆ってしまう。
「わっちは木の下への巣作りと補強は得意なのよ」
「……」
男はその少女にもかかわらず落ち着いた艶やかな声に、いよいよ逃げられないと悟る。
「降参だ。捕虜として扱って欲しい」
そして、男は粘性の糸に絡ま(からま)れ、もはや使い物にならなくなった剣を下ろすと、それを大きな動作で紫雲の方、少し離れた森の茂みへと投げ入れた。
ガサリと剣の重みで草木が音を立てる。
それから、ゆっくりと両手を上げ反抗する意思のない事を示す。
「良いでしょう。逃げても無駄なことはお分かりでしょうから、大人しく付いて来て下さいな」
紫雲は首元の髪をかき上げて澄ました表情で男に了承の意を返す。
その仕草が子供から大人へと足を踏み入れたばかりの小娘なのにいちいち艶めかしく見える。
それから軽い動作で音もなく地面に降りると、紫雲は男の傍まで歩み寄る。
「こちらです。ついてきてくださいな」
半分背中を向け肩越しに顔を向け付いてくるように促す。
その一つ一つの動作が色っぽく男を誘うようにさえ見えた。
「分かった」
男も大きく頷き、紫雲に並ぼうとしてか、歩幅を速める。
そして。
無防備に少女が完全に背中を向けた瞬間。男の口元が微かに笑みを映した。
懐に手を入れ、ナイフを引き抜く。
その時、 紫雲の髪を止めている赤い玉の飾りが僅かに差し込む月明かりに照らされてか、微かに光を帯びたように映った。
「!」
「罠とも呼べない罠ね。声を出さないのは流石だけど、笑うのなら、せめて仕留めてからになさいな」
男は背中に激痛を受けて倒れる。
男が倒れると、男のガタイに隠れて見えなかった人影が現れた。
『髪切り』の桐霞である。
紫雲は囮だったようで、止めを刺したのは桐霞であった。
「私、後ろ髪を切るのは得意なのですが、後ろから斬るのは慣れてないんですよ」
「いいじゃない。ちゃんと髪も切ったのだから、本懐も遂げられて満足したでしょ?」
まるで、そちらの方が本題だとでも言うように、紫雲が男の亡骸に視線を落とせば、男の後ろ髪は結んだ辺りからスッパリと切り落とされていた。
「ええ、まあ。ところで、いいの紫雲さん? 蜘蛛の子を散らすように逃げていきましたけど」
「ええ、獲物は残しておいてあげないと、他の子たちが欲求不満になっちゃうでしょ。血の気の多い子もいるのだから、ここらでストレス発散させてあげないと典人を押し倒しかねないものね」
紫雲が楽しそうにクスクスと笑みを浮かべる。
「それにしても、よく逃走ルートがわかりましたね。先回りして待ち伏せに文字通り網を張っておくなんて。で、紫雲さんはどうなの?」
「蜘蛛の雌はね、網を張って獲物が罠に掛かるのを待ち構えているのが性にあっているのよ。そうね、典人にもじっくり行かせてもらうわ」
「何だかご主人様が気が付いたらがんじがらめにされてグズグズになりそうですね」
「そう言う桐霞だって髪結いの亭主よろしく甘やかしそうじゃない」
「はあ、多少、自覚はありますので言わないでください紫雲さん。でも、本当に良かったの? 私が倒してしまいましたけど、紫雲さんだけでも問題なかったではありませんか」
「わっち? わっちは、ふふふっ、内緒よ。そうね、わっちは『鬼ごっこ』より『かくれんぼ』の方が好みかしらね」
「ああ、なるほど」
桐霞が目をやった視線の先には紫雲の左手の小指から延ばされた一本の糸が草むらの闇へと消えている。
(なんとも物騒な運命の赤い糸もあったものですね)
その糸の先、途中からは血に濡れ、赤い糸となって物言わぬ何かにつながっていた。




