第弐拾肆巻 残気の念
第弐拾肆巻 残気の念
坂と言うものは小股で小走りであっても、一度勢いが付くとなかなか止まることが出来ないものだ。
「おわああ、加速するうぅ!」
ましてやそれが、雨上がりでそこそこ滑りやすくなっている草木で足場の悪い下り坂だったり、土がむき出しだったり、苔がびっしり生えていたりする山林の下り坂であればなおさらのことであろう。
さらに坂の傾斜も徐々にではあるが急になっていっている。
自力で止まるのは意外と難しく、転べば大惨事。
泥だらけで済めばまだマシだが、そのまま勢いに任せて転がり続ければ大怪我では済まない事態も起こりうる。
「のわあぁ、止まらないぃ! ぶつかるうぅ!」
叫びながらも辛うじて目の前の木を避けることが出来た典人だが、いつまでそれが続くやら。
いや、そんなには続かない。
目で見ることはできないが、典人の行く方向、坂の下には牢獄核の結界の境界が待ち構えているのだ。
そして、典人がそのまま結界に衝突すれば、恐らく先程の『油取り』の亜鳥が結界に向かって投げた大きな串の二の舞で、消滅の憂き目を見ることになるのであろうことは容易に想像できた。
「駄目です旦那様! それより先は結界です。止まってください!」
『清姫』の祈世女が悲痛な声で叫ぶ。
「んな事言ったってぇ!」
典人が走りながら声を上げる。
「私が行きましょう」
「千金、お主……」
「分かっている」
『妖狐』の璃菜が何か言いたそうに言葉を切り出そうとするが、その前に『藤原千方の鬼』の『金鬼』である千金がその言葉を遮る。
「だが、今、御館様を失う訳にはいかないだろう」
そう言うが早いか、千金が典人に向かい走り出す。
恐らく100人の魑魅魍魎の中でも一番頑強な『金鬼』である千金が真っ先に結界の境界であろう所に、典人を助けるために突っ込んでいった。
その少し後方では『木霊』の麗紀も、手から植物の弦のようなものを伸ばし、典人を助けようとするが、獲物の解体のためホーンラビットに近付いていたせいで行動が遅れてしまっていた。
走る千金の、やや灰色味掛かった長い黒髪が風を切って流れる。
「金剛装気!」
千金は下り坂を走り降りながら一度消していた妖力で作っていた防御膜を再び全身に纏う。
流石は忍びのルーツとも言われるだけの事はある。
千金の駆ける速さは足場の悪い下り坂を意に介さず、そのスピードをどんどん増していく。
そして、勢いが付いて止まれずに加速してしまっている典人よりも速くなり、見る見るうちに追いついていった。
千金は典人を追いかけ走りながら、同時に過去の情景が脳裏に浮かんでいた。
それはこの『牢獄核』の結界内に跳ばされてきてから間もなくの事。
『木の子』の木の実が、知らずに森の中を走り回り、誤って結界の境界に触れ、弾き飛ばされたことにより、砦の周囲を囲むように結界が張り巡らされていることが砦にいる妖たちに知られるようになった時だった。
それから、結界に精通している妖や術にたけた妖、影に入り移動できる妖や空を飛べる妖などが結界の解除や突破などを試みていた。
実は千金も結界の存在が判明した後、結界の突破を試みている。
そう、千金はここに跳ばされてから、一度、『藤原千方』の四鬼たちを率いて、自らが先頭に立ち、自分の頑強さを利用して結界の強行突破を計ったことがあるのだった。
だが、突破は叶わず、千金自身かなりのダメージを追うことになってしまった。
身体へのダメージは勿論の事、大部分の妖力を失う事となり、動く事さえ思うようにできなくなる状態にまで陥っていたのである。
その際、仲間である『隠形鬼』の千隠も影に入り移動を試みたが、結果は同様となった
千金にとってみれば思い出したくない出来事である。
そんな事を考えていると、辛うじて手を伸ばせば典人の腕に手が届く間合いにまで追いついていた。
千金は今までの考えを振り払い、一気に典人へと手を伸ばす。
「御館様!」
腕を掴もうとしたその時。
坂の傾斜が一段急になったのか、典人の身体がまた加速して、千金の手が空を切る。
「なっ!」
少し、間が開いた。
(くっ、もう一度)
千金は再び間合いを詰め、今度は確実に手を伸ばせば届く範囲まで近付いた。
そして再び手を伸ばし、今度こそしっかりと典人に手が届いたその瞬間。
「うわっ!」
「えっ!」
走っていた典人が地面の苔に足を滑らせ、掴んだ千金を巻き込んで坂の下へと転がっていった。
(まずい! このままでは結界にまともにぶつかってしまう!)
千金の瞬時の判断だった。
(せめて、御館様だけでも!)
忍びとしての矜持なのか、主を守ろうと、覚悟を決めた千金は自分よりも体の大きい典人を抱き込むようにして自分の身体を盾にし、結界への衝突に備えた。
◇
「典人「ご主人様! 千金」さん!」
皆が一斉に悲鳴を上げる。
残された者たちからは、ダメージ覚悟で千金が典人に追いつき、抱き込み、結界に衝突する様に転がって行く姿が見えた。
遂に牢獄核の結界の境界が有るであろう辺りに到達し、ぶつかり結界の力によって一巻の終わりと思い、皆が息を飲んだ。
そして。
二人の身体を中心に波紋のような光が生じる。
次の瞬間。
波紋は消え。
やがて転がっていた二人の勢いは止まり、動かなくなった。
「……そんな!」
祈世女が両手で口元を抑え呟く。
この場にいる妖、いや、砦にいる全ての妖が幾度か眼にした光景。
それなりに丈夫な妖たちでさえ、命を落としかねないダメージを負う結界に、何の力も無い只の人間がまともに衝突してしまった。
その場にいた誰もが、その様子を見て絶望していた。
◇
長い長い一瞬の時の流れ。
千金は過去に経験した自分の身体に襲いかかって来るであろう激痛と、無理に妖力をむしり取られる苦痛に備え身体を無意識にこわばらせていた。
(衝突したタイミングでその反動を利用し、御館様を境界から突き飛ばして離す!)
そう、心に決め、その時を待つ。
だがそうなると自分は結界の境界により深く食い込む事になり、万全でない今の状態であれば、恐らく助からないであろうことも予想していた。
けど、迷いはなかった。
(今度こそ、主を見放す真似はしない! 主の為に生き、主の為に死ぬ。それが定!)
伝承上、千金たちが仕えていた藤原千方は伊賀・伊勢地方を束ね、朝廷に逆らい反意を示していたという。
しかしこれは架空の人物とされ、該当する人物が存在せず、あくまで作り話とされている。
ただ、歴史はしばしば勝者によって創作され、敗者の歴史はことごとく葬り去られることがあった。
勝者の歪めし歴史と、敗者の忘れられし歴史。
そんな歴史の中、千金たちは確かに存在した。
敵からは『鬼』とは称されたが、当時は技量の秀でた『人』として。
そして藤原千方と共に戦い、幾つもの戦場を駆け抜け、幾人もの敵兵を葬ってきた鬼たちだが、ある日届いた一通の書状(一首の歌とされているが)により千方の元を離れ、結果、千方の敗北へとつながったという。
その書状の内容とは、
『草も木も 我大君の 国なれば いづくか鬼の 棲なるべき』
と『太平記』の『日本朝敵の事』ではされている。
大まかに言えば「この国は草も気もすべて朝廷の物だから、お前たち鬼の住むべき所は、一体何処にあるというんだ」というようなものだそうだ。
実際は現代で言うところの土地を使用する権利の差し押さえの通告文であった。
その頃の自分たちは卓越した技量を持ち合わせていたものの、各土地を納めていた一村の長に過ぎなかった。
鉱山、石切り場、川、山林など。
その特異な技術の秘匿の為、隠れ里の様相が強かったことから、他所との交流も限られ、その暮らしは慎ましいものだった。
それぞれの部族を束ねる長として、その地に住まう民草を路頭に迷わせるわけにはいかなかった。
一忍びとしてではなく、長として選ばざるを得なかった。
退かざるを得なかった。
その慙愧の念に堪えない思いが、その身を鬼と変えて現在に至る。
恐らくはその閉鎖性が故、六部族が四部族と思われ、六鬼が四鬼とされることになった原因なのだろう。
(いづくか鬼の棲なるべき、か……還る道は遠くとも、今はここが私、いや、私たちの棲だ!」
そして一瞬、背中に何かが振れる感覚がした。
(今だ!)
だが、身体に力が入らない。
(そんな!)
千金は驚愕した。
(私は……またしても……主を守りきれないのか。情けない……せめて、一緒に参りましょう・御館様)
目元から一筋の涙が流れる。
千金は力の入らない腕で典人の頭を胸元に抱きしめた。
何故だろうか? 死を前にして主を抱えている事が心地よく感じられる。
いつまでもこうしていたいと、心から思う。
(せめて、御館様が苦痛を感じませぬよう)
祈る神無き鬼が願い、静かに目を閉じた。
穏やかな気持ちで死を待つ。
だが、その時は一考に訪れる気配が無い。
やがて千金は自分たちが止まっていることに気付く。
どうやら柔らかい草の上に倒れているようだった。
いつの間にか自分の周りに貼っていた防御膜が消えている。
そして、自分の胸元からフゴフゴと荒い息をする感覚が伝わってきた。
尚且つ、モゾモゾと何かが這うように動いている感覚もある。
「えっ? あんっ!」
思わず悩ましい声を上げ抱え込んでいる胸元を見る。
そこには頭を押さえつけられ息苦しそうにジタバタし、千金の胸をむんずと掴んで指を動かし必死にその拘束から脱出を図ろうとする典人の姿があった。
どう見ても世の男達から見れば、何とも羨ましい光景なのだが、当の典人本人は必死だ。繰り返そう! 当の典人本人は必死だ!
「御館様っ!」
慌てて千金が腕の力を緩める。
そこには、鼻から血を流した典人がいた。
「御館様、怪我を!」
千金は自分は無傷らしく、逆に守るべき主が傷を負ってしまっている事に酷く動揺をした。
普通に見れば美人系の女の子の胸に思いっきり顔を押し付けられて興奮して、鼻血を紛失したようにしか見えない。
だが、実際のところ、千金の胸に抱きかかえられた際、千金は『金剛装気』の防御膜を張っていた。
そのため、本来なら千金の柔らかい胸に抱きかかえられていたのであろうが、抱きしめられ庇われた瞬間は防御膜の堅さで、大きく出っ張った堅い凶器に鼻から打ち付けられた状態となったのである。
結果、鼻から出血。
そう、決して千金の胸に顔を埋め、その柔らかさと温かさと匂いに興奮したからではない。そう、興奮したからではない! 典人は無実だ!
「あって、いや、これは、大したことないから大丈夫」
典人は鼻を抑えつつ答える。
「しかし……」
「ポケットティッシュ持ってるし、草むらのおかげで他は大したことなさそうだし。それより、千金さんは怪我はない?」
「ですが……」
「確かに最初思いっきり鼻を打ち付けたけど、しばらくしてから柔らかかったし。まあ、その後は窒息しかけたけどね……あははっ」
典人は問題ない事を強調するため、千金に冗談めかして答えて見せた。まあ実際、途中から防御膜が解かれ、元の柔らかく温かい胸に埋もれていたのも間違いではない。
見た目は綺麗系の美人だが、鬼である千金は見た目の柔らかそうな身体に似合わず、はるかに典人よりも力が強い。
いや、千金だけでは無い。妖である牢獄核に捕らえられている女の子たちは総じて典人より力が強い。
あの小さくてか弱そうな子どもの姿の『座敷童』のさきらでさえ、典人の事をグイグイ引っ張っていったほどだ。
「重ね重ねご無礼を!」
だが千金は、出血させたことに加え、窒息させかけたことに気付き、より一層申し訳なさを感じていた。
普段鬼たちの中で取りまとめ役を担っているだけあって、基本的に真面目なのだろう。
「ほら、千金さんの着物も汚しちゃったし、オレはいい事もあったしさ、プラスマイナスゼロっていう事でどうかな?」
「いえ、返り血は浴び慣れておりますのでお気になさらず。……ですが御館様がそうおっしゃるのであれば」
何か物騒な事を聞いたような気がする典人であったが、一応千金が納得してくれたのであればとそれ以上の深入りはしない方がいいと判断した。
一方の千金はたった今起こった出来事に思いを巡らせていた。
千金は確かに結界に触れた感覚を覚えている。
以前に感じた強烈な衝撃と妖力を結界に無理矢理はぎ取られるような感覚。
それが今回は襲ってこなかった。
間違いなく結界に触れたという感覚はあった。
が、それと同時に今回は何かガラスが砕けるような感覚も覚えていた。
「あれっ?」
「どうしたの千金さん?」
突然、目の前で呆けたように考え込んでしまった千金を見て、典人が訝しむ。
「???」
千金には何かが引っかかっている。
何であろうかと千金は考え、ぼんやりと周囲を見渡す。
そして、ようやく気付いてハッとなった。
「……ここは……結界の……外!?」




