リナリアのキス
五大公爵家のひとつ、ロディアルカ公爵家の分家にあたるエリツィク子爵家には、ひとりの問題児がいた。
彼の名前はヘルマン・エリツィク。
類い稀なる魔術の才能がありながら、“魔術師になりたくない”と武術にのめり込んでいる、エリツィク家の頭痛の種だ。
ロディアルカ公爵家は五大公爵家の一角を担うだけの権力と財力があり、養子になれたならばまず間違いなく立身出世は約束されたも同然だ。にもかかわらず、誰が言い含めようともヘルマンは決して首を縦に振ろうとしなかった。しまいには、家族や一族だけでなく、仕えている者たちにまでそう諭される始末である。
エリツィク家に仕える使用人見習いとして孤児院から引き取られ、ヘルマンの遊び相手をつとめていたフローラも、よく大人の真似をしては、ヘルマンに言っていた。
「坊っちゃんには魔術の才能があるんです。それを活かさないなんて、もったいないですよ」
「同い年の癖に生意気だぞ、フローラ」
いつものように追いかけっこやかくれんぼをしようとする前にそう言われ、ヘルマンは口を尖らせた。
「生意気は坊っちゃんの方です」
したり顔で言うフローラに、ヘルマンは握り拳を固めて宣言した。
「俺は、魔術師になんかならない。俺は、騎士になるんだ!」
その話は何度も聞いたので、フローラは今更驚いたりはしない。ただじっくりとヘルマンを頭から爪先まで見ただけだ。
「な、何だよ」
ヘルマンは、まだ成長期を迎える前だとはいえ、同い年のフローラから見ても同年代の男子よりも華奢だった。顔つきも繊細で少女と見間違えそうなほど整っているのも、彼の理想から遠ざかるのに拍車をかけていた。無理を通して剣術の稽古を行い、日々生傷の絶えない手足も細く、頼りがいのある騎士の姿からはほど遠い。
無言のフローラに、ヘルマンはぼそりと言った。
「やっぱりお前……」
「何です?」
「いいや、なんでもない」
それより遊ぶぞ、とヘルマンはフローラの手をひき、その話はいつもうやむやになるのだった。
「坊っちゃん、その頬の傷は!?」
お互いに10歳を越えた頃。ヘルマンの遊び相手を卒業し、使用人として働き始めていたフローラは、ヘルマンの顔を見るなり悲鳴を上げた。彼は傷に手をやってから、何てことないかのように言う。
「ああこれか? 猫にひっかかれた」
「すぐ手当てしないと!」
「いいや、別にいい」
「良くないです! 傷が残ったらどうするんですか! せっかくの綺麗なお顔に!」
「……男に綺麗とか言うなよ」
ぶすくれたままどこかに行こうとするヘルマンの肩をがしりと掴み、フローラは切々とうったえる。
「今すぐ手当ての道具をとってくるので、絶対、ぜーったい動かないでくださいね!」
「何で、お前の言うことを聞かなきゃならないんだよ」
「何でもです! いいですか坊っちゃん、後生ですから!」
「……ふん」
非常に不服そうだが、渋々といった体で鼻を鳴らし腰を下ろしたヘルマンを見届け、フローラは屋敷に走った。消毒薬や清潔なガーゼなどを借りてくると、直ぐ様ヘルマンの元へとって返す。
「坊っちゃん、顔をこちらに向けてください」
「ん」
大人しく言うことを聞くヘルマンを、フローラは手早く手当てした。
「さて、他に傷はないですか?」
「今日はない」
「今日は?」
一段低くなったフローラの言葉に、ヘルマンははっと口元に手をあてる。じとっとした目でフローラがヘルマンを見ると、彼は咳払いして切り出した。
「それより、俺はお前の言いつけを守って待っていたんだから、何か褒美をよこせ」
「ほ、褒美ですか……?」
お菓子とかだろうか。しかし生憎、今は持ち合わせはない。
「もうすぐおやつの時間ですから、その時に」
「おやつじゃない!」
ムッとしているヘルマンに、フローラは首を捻った。お菓子以外にヘルマンが好きなものというと、……剣とか。まさか、一介の使用人であるフローラに剣をくれなんて無茶はさすがに要求しないだろう。
「じゃあ、何ですか?」
ヘルマンの求めているものが本気で分からないフローラが聞くと、彼は一瞬目を泳がせ、辺りを見回した。
「……坊っちゃん?」
一通り確認し終えたのか、ヘルマンはよしと一人で頷いている。何がよしなのか、さっぱり分からないフローラが返事を待っていると、ヘルマンは再び咳払いした。そのまろい頬が、わずかに染まっている。
「フローラ」
「はい」
「……お、俺にキスをしろ」
「……………………はい?」
ヘルマンの言い出した褒美が意外すぎて、フローラの思考は束の間停止した。次にやって来たのは、羞恥心だ。ヘルマンに、自分がキスをする? 驚きと困惑からまじまじとヘルマンの顔を見返していると、徐々に彼の顔が真っ赤に染まっていく。フローラの凝視に耐えられなくなったのか、ヘルマンは赤い顔のままぷいと横を向いた。
「何だ、嫌か?」
「えっと、そういうわけじゃ」
「じゃあしろ……これは、命令だ」
どこかぶっきらぼうなヘルマンの口調に、フローラはその横顔を見つめた。命令、とまで言われてしまえばフローラに否やと言う権利はない。こちら側に向けられている頬には、猫にひっかかれた傷を隠すガーゼがはられている。直接なら恥ずかしくて躊躇してしまうが、あの上からなら何とか、とフローラは決心した。
「分かりました、坊っちゃん」
「は!?」
自分から言い出したことなのに、ヘルマンはすっとんきょうな声を上げた。大きく見開かれた目に、覚悟を決めたフローラの顔が映っている。
「行きますよ坊っちゃん、動かないでくださいね……」
「あ、ああ」
ごくりと、大きく息を飲んだのはどちらだったか。
ぎゅっと瞳を閉じたヘルマンの肩に手を置き、フローラはガーゼ越しに接吻した。
フローラが体を離しても、しばらくヘルマンは同じ体勢だった。
「坊っちゃん、終わりました」
「……え」
なかなか目を開けないヘルマンにフローラが声をかけると、ヘルマンはぱちぱちと瞬きした。
「…………フローラ、お前、本当にキスしたのか?」
「ええ。坊っちゃんの頬に」
「頬?」
不思議そうに自分の頬に手をやったヘルマンは、ガーゼに気付いたらしい。
「まさか、フローラお前」
「はい、ガーゼ越しに」
「なっ!?」
驚くヘルマンに、フローラは言い訳する。
「だって、直接は、……さすがに、恥ずかしいです」
ヘルマンから視線を注がれているのを感じながら、フローラは言い募った。──図らずも、ヘルマンから見ると上目遣いになっているとは知らずに。
「これで、勘弁してください」
ぐ、だか、ぬ、だか何か詰まったような音がヘルマンの喉から聞こえた。
急にヘルマンは立ち上がると、フローラに背を向ける。そのまま立ち去ろうとするかに思えたヘルマンは、フローラを振り返ってびしりと人差し指をつきつけた。
「坊っちゃん?」
「こ、この、小悪魔め! 今日はこれくらいで許してやる!」
ヘルマンの捨て台詞にフローラが呆気にとられている間に、ヘルマンはぴゅうっと駆けていってしまった。
「……小悪魔なんて言葉、どこで覚えたんですか、坊っちゃん……」
当然、フローラの言葉に答える者はいなかった。
その日は珍しく、エリツィク家でパーティが開かれていた。とはいえ、呼ばれていたのは本家であるロディアルカ家といくつかの分家筋の者の身内だけのものだ。“とうとう坊っちゃんの本格的な引き抜きがはじまった”と、屋敷の者たちは噂している。
フローラも裏方の仕事を手伝いながら、遠目にパーティ会場となった中庭を見ていた。
エリツィク子爵に連れ回されているのか、かいま見えたヘルマンは、不機嫌そのものの顔をしている。家柄が上の客相手ですらそんな表情をしているヘルマンの図太さと子供っぽさに、苦笑いがもれた。これは今日もきっぱり断るのだろうな、と思いながらフローラが通り過ぎようとした時、不穏な言葉が聞こえてきた。
「いい気なものだな、エリツィクの倅は」
「おそれ多くも本家より目をかけていただいているというのに、言うに事欠いて騎士志望とは、笑わせる」
庭の端でグラスを傾けながらそう談笑しているのは、分家筋の者のようだ。皆魔術師特有のローブを着ているが、宮廷魔術師の証である銀糸の刺繍は入っていない。よどんだ空気を感じて足早に去ろうとした時、運悪くその中のひとりと目があってしまった。
「おい、そこの娘」
「……はい、何でしょう」
こちらのお仕着せから使用人と判断したのだろう、手招く男たちの顔に嫌な笑いが浮かんでいたが、フローラに無視する選択肢はない。下手に失礼な態度をとれば、エリツィク家は使用人も満足に躾られないのかと不名誉な烙印を押されてしまうかもしれないからだ。
やや緊張して近付いてきたフローラを、男たちは不躾にじろじろと眺めてきた。
「ふうん、端女にしては上玉だな」
「まだ子供だろう、気が早いのではないか?」
漂う酒の匂いから、男たちが酔っているのが分かった。エリツィク家ではまず受けることのないひどい言葉に、フローラは唇を噛んで俯く。
途端にぐいと腕を引かれ、フローラはつんのめった。顔を上げれば、男の赤ら顔が間近に迫っている。酒臭い息に顔をそむけなかったのは奇跡に近い。
「おい娘、こんな家よりうちで働かないか?」
「おお? 引き抜きか、お前も抜け目ないな」
「本家との顔合わせという目的は達したからな、そろそろ土産がほしいと思ったところだ」
「あの、お願いですから放してください」
握られた腕が痛い。思いっきり暴れれば外れるかもしれないが、フローラはためらう。自分だけが無礼だと怒鳴られて済むならいいが、エリツィク家に迷惑をかけてしまうのは避けたい。
どうしよう、とフローラが途方に暮れたまさにその時。
「そこで何をしている」
静かな、しかし何かを押し殺している固い声音でたずねたのは、ヘルマンだ。固まった男たちの表情に、フローラは振り返る。
そこにいたのは、禍々しい気配を身に纏ったヘルマンだった。
ヘルマンをよく知っているフローラですら一瞬息を止めたほどの、とてつもない圧力を感じる。
「ぼ、坊っちゃん?」
「な、何だ小僧!」
「フローラを放せ」
完全に声が裏返っている男たちに対し、ヘルマンはあくまで淡々としていた。はた目には落ち着いて見える彼に、雰囲気に飲まれた男たちは何とか持ち直し、せせら笑う。
しかしその判断は、間違っていた。
「思い上がるな! エリツィク家の小倅の分際で、我々に意見しようなどと……」
「フローラを解放しろと言っている!」
ヘルマンが叫ぶと同時にばちん、と何かが弾ける音がした。ヘルマンの禍々しい気配が、一気に辺りを覆っていく。次の瞬間、轟音と共にフローラの腕を掴んでいた男が吹っ飛ばされた。仮にも魔術師のローブを着ていた男が、為す術もなく昏倒させられたのだ。先ほどまでヘルマンに口答えしていた他の男たちも、言葉を失う。倒れた男がぴくりとも動かないのを見て、フローラはぞっとした。
ヘルマンの視線が残った男たちを見る。その温度を感じさせない瞳を見て、フローラは思わず飛び出していた。これ以上ヘルマンに力を使わせてはいけない、取り返しのつかないことになる。
「坊っちゃん!」
「……フローラ!?」
フローラのすぐそばを風の塊がぶわりと通っていった。頬がぴりっと痛み、濡れた感触がする。ヘルマンは男たちを庇って前に出たフローラに、目を見開いていた。その瞳に驚愕と戸惑いの表情があるのを見て、フローラはほっとする。よかった、いつもの彼だ。
フローラはヘルマンの正面に立つと、口を開いた。
「坊っちゃん、私は大丈夫です」
「フローラ、お前」
「だから、もう、やめて、くださ……」
何故だろう、体が重い。口がうまく動かない。きちんと伝えないといけないのに。
「坊っちゃ……ん……」
「フローラ!」
ずるりと倒れ込みそうになった体が誰かに支えられたのを最後に、フローラは意識を失った。
「……ここは……?」
「気がついたかい、フローラ?」
フローラが次に目を覚ましたのは、エリツィク家に与えられた部屋の中だった。側には、使用人を束ねる婦長の姿がある。普段から何くれとなく世話を焼いてくれる彼女は、フローラを心配してついていてくれたらしい。フローラはしばらくぼうっと彼女を見ていたが、徐々に気絶する前の状況を思い出し、飛び起きようとした。
「え?」
しかし、意志とは裏腹に体は重く、言うことを聞かなかった。
「無理をしなさんなフローラ。今あんたは、坊っちゃんの魔力をまともにあびて、体が疲れているのよ」
労るような婦長の言葉に、フローラは目を瞬かせる。
「坊っちゃんの、魔力ですか?」
「そうさ」
婦長はフローラの言葉に頷くと、事の次第を話しはじめた。
あの時、フローラが男たちに絡まれているのを見て、ヘルマンは怒りのあまり魔力を暴走させた。ヘルマンからわき上がった魔力にあてられてフローラのように何人か倒れたが、幸いにして死者は出ず、ヘルマン自身も多少疲労したくらいで無事らしい。魔力の塊で吹っ飛ばされた分家の男も気絶程度ですんだそうだ。
「よかった……」
取り返しのつかないことになっていないことに、フローラはほっとした。そんなフローラに、婦長が苦言を呈する。
「あんたねえ、いくら坊っちゃんが大事だっていっても、あんな恐ろしい状態の坊っちゃんの前に堂々と立ちふさがる奴があるかい」
言われてみれば、被害こそ軽微だとはいえ、あの時のヘルマンはただ事ではなかった。冷静になって考えると、自分でもよくあんな行動がとれたものだと思う。
そう告げると、婦長は「ほんとあんたは……」とため息をついた。
それから思い出したように、婦長はああそうそう、と切り出す。
「坊っちゃんは、正式にロディアルカ家の養子になることが決まったよ」
「……え?」
「今回の暴走で、やっぱり坊っちゃんの魔力は野放しにはしておけないと思われたみたいでね。魔術師になるよう訓練をするんだと」
「でも、坊っちゃんは」
「坊っちゃんも、頷いたって話さ」
「え、そうなんですか?」
あれほど頑なに拒んでいたヘルマンの姿を思い浮かべていた、フローラは意外に思った。
「坊っちゃんも、年貢の納め時が来たってことさ」
婦長はそうひとりごちると、意味ありげにフローラを見た。
「……何でしょう?」
フローラがきょとんと首を傾げると、いや何でもない、と婦長は首をふる。それからさああんたはもうゆっくり休みな、と婦長に言われ、フローラは大人しく瞳を閉じた。
その音に目を覚ましたのは、たまたまだった。すっかり辺りは暗くなり、壁にかかった時計を見ると真夜中を過ぎていた。
フローラは起き上がり(自分の体が思い通りに動くことに安堵する)、窓際に移動する。
同時に、コンコンと断続的に窓を叩いていた音が止まった。
「坊っちゃん」
フローラが窓を開けて外を見ると、ヘルマンの姿があった。フローラがヘルマンの遊び相手をしていた時、武術の訓練で朝が早いヘルマンは、よくフローラをこうやって起こしていたのだ。屋根の上に立っているヘルマンを、フローラはいつものように部屋の中に入れようとしたが、ヘルマンは首を振って断った。
「落ちないでくださいね」
「落ちるか、今更」
慣れた調子で減らず口を叩いたあと、ヘルマンは真面目な表情になった。
「すまない、フローラ。お前に、怪我をさせた」
頭を下げるヘルマンに、フローラは慌てた。
「頭を上げてください、坊っちゃん! 怪我って、何のことですか?」
魔力にあたって気を失ったが、怪我はしていないはず、とフローラが記憶を探っていると、ヘルマンが言った。
「気付いていないのか、頬の傷に」
「頬の傷?」
フローラはぺたりと頬を触った。片方にざわりとした感触があって、ガーゼをはられていることにようやく気付く。実物を見たわけではないが、痛みもないしあまり深くない傷だろう。
「こんなの、何てことないですよ」
「俺は、……俺は、お前が分家の奴らに絡まれているのを見て暴走して、よりによってお前を傷付けた」
ヘルマンはぐっと拳を握る。力を入れすぎてふるふると震えるそれをフローラはそっと両手で包んだ。はっと顔を上げるヘルマンに、フローラはふわりと笑った。
「大丈夫ですよ、坊っちゃん。こんな怪我すぐに治りますし、結果的にちゃんと助けてくださったじゃありませんか」
「だが」
複雑な表情を浮かべるヘルマンに、フローラはたずねた。
「……坊っちゃんは、ロディアルカ公爵家の養子になられるそうですね」
「ああ」
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「坊っちゃんは、どうして魔術師になりたくなかったんですか?」
これから魔術師にならざるを得ないヘルマンに対して、酷な質問かもしれない。しかし、彼との日々を思い返してみて、そういえば聞いたことのない質問だった。
ヘルマンは、じっとフローラを見た。まるで、フローラに答えが書いてあるかのように。
「坊っちゃん、私の顔が何か……?」
「やっぱり、覚えてないんだな」
「え?」
はあとため息をついたヘルマンに、フローラは不思議そうに首を傾げる。そんなフローラをどこか恨めしそうに見ながら、ヘルマンは口を開いた。
「お前がここに来たばかりの頃、絵本を一緒に読んだこと、覚えているか?」
「はい」
幼い頃、字を覚えたてのヘルマンが、得意気に読み聞かせてくれたのを思い出す。
「その中に、騎士と姫が出てくる物語があっただろう?」
「ああ、“虹の騎士の物語”ですね」
神に選ばれた勇者である虹の騎士が、幾多の試練を乗り越え、最後は恋仲の姫と結ばれる有名なお伽噺だ。
「それじゃあ坊っちゃんは、その物語の騎士に憧れて」
「違う」
ヘルマンは食い気味に否定する。頭に疑問符を浮かべているフローラに、本当に忘れているんだなとぼやいた。
「お前は忘れているようだが、その物語の悪役に悪い魔術師がいた。死体を操って騎士にけしかけたり、姫の恋心を封印して騎士のことを忘れさせたりした恐ろしい魔術師がな」
「……そういえば、いましたね」
「当時のお前はそんな魔術師を怖がって、“魔術師なんて嫌い!”とよく言っていた」
「まさか、それが理由なんですか!?」
驚きのあまり叫んだフローラに、ヘルマンはしっと人差し指をたてた。フローラは押し殺した声で言う。
「そんな、私ごときの言葉を真に受けて“魔術師になりたくない”なんておっしゃっていたのですか?」
「何だ、悪いか」
不貞腐れた様子で言うヘルマンは、どこか開き直っているように見えた。ああもう、とフローラは頭に手をあてる。
「今の私は魔術師なんて怖がったりしませんから、ちゃんと魔術師になってくださいね?」
「分かってる」
しっかりと頷いたヘルマンは、不意に真顔になった。
「今更なんだが、お前は俺が怖くないのか?」
「え? どうしてですか?」
きょとんとするフローラに、言いづらそうにヘルマンは続ける。
「俺はお前を助けるためとはいえ、魔力を暴走させて人を吹っ飛ばしたり気絶させたり、挙げ句の果てにお前を傷付けたんだぞ?」
「だから、それは魔力の使い方を覚えて、訓練したらなくなるのでしょう?」
「……分からん」
「はい?」
「つまり、その、お前を守るためだったら俺は、──自分を押さえられる気がしないってことだ」
「それは」
何でですか、と聞く言葉は飲み込まざるを得なかった。
ヘルマンの顔が不意に近付き、フローラの頬──ガーゼに覆われている部分に口付けたからだ。
しばらく夜の静寂が、二人の間に漂う。
「その、なんだ…………じゃあ、またな」
それだけ告げると、ヘルマンは屋根をおり、夜の闇に消えていった。
残されたフローラは、そっとガーゼに覆われた頬に触れる。
触れた感触すらなかったのに、その下の頬がじわじわと熱を帯びていくのが、はっきりと分かった。
“お前を守るためだったら俺は、──自分が押さえられる気がしない”
ヘルマンの言葉が繰り返し頭に浮かぶのと同時に、フローラはずるずると座り込んだ。
「……何てことに、気付かせてくれたんですかあなたは」
それから数年後。
フローラは17歳になっていた。エリツィク家の使用人としてきびきびと働き、婦長をはじめとして同僚たちにも一目置かれるようになって久しい。
いつものように仕事に精を出していると、使用人仲間たちのおしゃべりが聞こえてくる。
「今度、坊っちゃんが帰ってくるらしいよ」
フローラはどきりとした。あの日──ガーゼ越しにキスされた日から、実はヘルマンとまともに話したことはなかった。ヘルマンはロディアルカ家の養子となり、そこからさらに王都の魔術学院に通うようになってからも、何度かエリツィク家に帰ってきてはいた。もともと、ヘルマンは貴族で今は公爵家の人間で、フローラはエリツィク伯爵家の一使用人だ。里帰りのたびにいちいち言葉を交わさなくても、当然といえば当然だ。
だから、これは普通なのだ、とフローラは自分に言い聞かせていた。
たまたま廊下ですれ違ったときにこちらを見やるヘルマンを気付かずにやり過ごすのも、ヘルマンが里帰りしている際は昼夜問わず自室のカーテンを引き、物音がしても寝たふりをつらぬくのも。
あの日、気付いてしまった自分の恋心をこれ以上育てないために。
「フローラだけは許さん」
「何故ですか、父上!」
たまたまエリツィク子爵の部屋の前を通りかかったフローラは、扉の隙間から漏れ聞こえてきた言葉にはっと息を飲んだ。いけない、と思いつつも扉のそばに寄り、聞き耳をたてる。
「何故か、だと? 理由はお前自身がよく分かっているだろう?」
「俺は、他のことを疎かにするつもりはありません」
「たわけ、それは当然だ!」
どん、と大きな音がした。子爵が、机を拳で叩いたらしい。室内の剣呑な状況に、フローラの体も強ばる。
「これはお前だけの問題ではない。フローラのことも考えろ」
「父上」
「避けられているのは分かっているな?」
フローラはどきりとした。まさか、子爵が自分の行動を把握しているとは思わなかった。
「……はい」
苦しそうな声音で、ヘルマンが肯定する。
「ですが、俺は」
言い返そうとするヘルマンに、子爵はいっそ優しく告げた。
「いい加減大人になれ、ヘルマン」
「父上」
「お前の選択は、お前のためにもフローラのためにもならん」
「……分かりました」
耳に入れたくないことほど、はっきり聞き取ってしまうのはどうしてだろう。
しばらくの沈黙のあと、ヘルマンは言った。
「フローラのことは、諦めます」
「何て顔色だい、フローラ!」
あの後、どこをどうやって歩いたか記憶にない。いつの間にかフローラは使用人の休憩室にたどり着いていた。顔を見るなりそう叫んだ婦長によって自室に連れていかれ、強引に寝かされた。
「仕事が、まだ」
「真っ青な顔で何言ってるんだい!」
さ、休みなと背中を優しく叩いてくれた婦長に、フローラは力なく首を振る。
「本当に、体調が悪いわけではないんです」
「……じゃあ、何だってまあ、そんなひどい顔つきになったんだい?」
「……私、思い上がっていたんです」
「思い上がっていた?」
おうむ返しに言う婦長に、フローラは子爵の前で聞いたことを話した。
そして、ずっと閉じ込めていた自分の気持ちのことも。
「“諦めます”って坊っちゃんがおっしゃられた時、咄嗟にこう思ったんです。“私は、まだ好きなのに”って」
婦長は目を見開いた。
「あんた……」
「私、いつの間にか坊っちゃんのことを好きになっていたんです。……身の程知らずにも」
きっかけは、ヘルマンがロディアルカ家へ養子に行く前日にかけられた言葉だった。しかし、自覚がないだけで、本当はずっと心にあったのだ。
それでもなお、気付かないふりをした。貴族であるヘルマンと、使用人でしかも孤児であるフローラでは身分に差がある。仮に想い合っていたとしても、いずれは離れなければならないのなら、最初からなかったことにしてしまおうと、フローラはヘルマンに会わないように逃げた。また顔を会わせてしまえば、この想いが溢れてしまいそうな気がして、怖かった。フローラの方から身勝手に切り捨てようとしていたにもかかわらず、ヘルマンの言葉で裏切られたように感じてしまうなんて、思い上がり以外の何ものでもない。
「ごめんなさい、婦長。個人的なことでご迷惑をおかけして」
「……え、ああ、うん。それはいいさ、普段働き者のあんただ、たまの休みだと思って一日ゆっくりしな。あたしから皆には風邪って言っとくよ。もちろん、本当の理由は内密でね」
「ありがとうございます」
去り際、ぼそりと呟いた婦長の言葉は、フローラの耳には届かなかった。
「それにしても、あの坊っちゃんがねえ……」
いつかの晩の、再現のようだった。
コンコンという断続的な音に目を覚ましたフローラは時計を見る。時刻は真夜中を過ぎたあたりで、フローラははっと窓を見た。そこが音の出所で間違い無さそうだ。
フローラはシーツをかぶって息を殺した。どうか、諦めてかえってほしい。
やがて、物音が止んだ。
息をそっと吐いたフローラが耳にしたのは、ずるりと何かが滑る音とうおっという短い悲鳴だ。
「坊っちゃん!?」
慌てて起き上がり窓を開けたフローラが見たのは、屋根の端を辛うじて掴んでいる手だ。
助けを呼ぼうとフローラが動く前に、少し苦し気だが歌のような旋律が聞こえてきた。ふわりと体を魔術で呼び出した風に乗せ、彼は危なげなく屋根の上に降り立つ。
「久しぶりだからな、下手をうった」
「そんな格好で屋根に上がるからですよ!」
魔術師のローブを着ているヘルマンに、フローラは部屋に入るよう言った。
しかし、ヘルマンは断る。
「俺は、段階をきちんと踏む男だからな」
「何訳の分からないことを言っているんですか、早く入ってください。また落ちかけたらどうするんですか」
「………………お前が、そうまで言うのなら」
渋々、といった体で入ってきたヘルマンに、フローラは今更ながら二人きりであることに気付く。失敗した。ヘルマンの窮地に、つい体が動いてしまった。
窓の側に立つヘルマンは、背丈も伸び、逞しくなっていた。中性的で繊細な顔立ちは変わらないが、もう彼を女性と間違える人はいないだろう。
「どうして、こんな時間にいらっしゃったんですか?」
「使用人たちが、お前の具合が悪そうだと噂していてな」
確かに顔色が悪い、と覗きこまれてフローラは視線を外す。夜の闇で、頬が赤くなっているのが見えませんように、とフローラは願った。
フローラは、意識して平坦な声を作る。
「こんな一使用人の体調まで気にかけてくださり、ありがとうございます」
頭を下げながらそう言うと、ヘルマンはぽかんと口を開けた。
「一使用人?」
「はい」
必死に無機質に対応していたが、フローラの心は期待と現実の差異に押し潰されそうだった。わざわざ様子を見に来るほど気にかけてもらっているという期待と、他ならぬ彼から聞いた“諦めます”の言葉。フローラは腕を組んで、極力ヘルマンと目を合わせないようにした。
「お陰さまで休めましたし、明日には業務に戻れますから」
「そ、そうか……それなら良いが」
我ながら素っ気ない言葉に、フローラは自嘲して笑いたくなったが、何とかこらえる。部屋にはまだヘルマンがいるのだ。
「お見舞いありがとうございました。もう大丈夫ですので、お戻りください」
そう言ってフローラは扉を示したが、ヘルマンは動かなかった。
「坊っちゃん?」
「いや、その、見舞いの品があるんだ」
「見舞いの品、ですか?」
「ああ」
ヘルマンは懐から、花を取り出した。魔術で何か加工がされているのか、萎れた様子もなく、白く淡い花弁が月の光に照らされて輝いていた。その花を見て、フローラは息を飲む。
「その花は」
「リナリア、というらしい」
「あなたは……あなたという方は……」
リナリアを差し出すヘルマンの姿が、徐々に滲んでいく。
「フ、フローラ?」
狼狽えるヘルマンの様子から、取り繕う間もなく、涙が溢れたのが分かった。
「私は、受け取れません」
「フローラ?」
「受け取りたくありません」
「何だ、この花が嫌いなのか?」
見当違いの解釈をするヘルマンを、フローラはきっと睨んだ。気圧されたように、ヘルマンは数歩下がる。
その間の抜けた顔が腹立たしくて、フローラは叫んでいた。
「他ならぬあなたが、諦めるといったではないですか!」
「諦める? 何の…………まさか」
ヘルマンは何かに思い当たったように目を見張った。
「昼間の、父上との会話を聞いていたのか」
フローラは無言で頷く。ヘルマンはきまり悪げに頭をかいた。
「あれを聞かれていたとは……でもどうしてそれが、今お前が泣いていることに繋がるんだ?」
「坊っちゃんは、リナリアの花言葉はご存知ないのですか?」
「花言葉?」
はじめて聞いた、とばかりに返すヘルマンに、フローラはかすかに笑う。
ヘルマンは知らなかったのか。何という偶然だろう。
そして、最悪の偶然だ。
リナリアの花言葉は、“この恋に気付いて”。
瞠目するヘルマンに、どこか開き直った気分でフローラは告げる。
「私は、あなたへの恋に気付きたくはありませんでした」
「フローラ」
「あなたへの恋を自覚して、不毛だと必死に押し込めて、あなたと会って悟られないよう隠していたのに」
「フローラ、待て!」
ヘルマンはフローラの肩を掴んだ。
「まず、俺の話を聞いてくれフローラ! 誤解を解くぞ」
「……誤解?」
「ああ」
リナリアを一旦懐にしまい、ヘルマンは言った。
「まず昼間の件だ。俺が諦めたのは、“フローラを俺専属の使用人として連れていくこと”だ」
「…………はい?」
フローラの顔から悲壮感が薄れ、目が点になる。
「俺の通っている魔術学院ではな、優秀な成績を修める一部の生徒は専属の使用人を持っていいことになっている」
「はあ」
「それでお前を連れていこうと思ったのだが、父上に反対された。先に言っておくが、お前の使用人としての能力が低いからではないぞ! 父上が反対したのは……だな……その……」
段々声が小さくなると同時に、ヘルマンは下を向いていく。ついにはぶつぶつ呟くような声量になり、フローラには聞き取れなくなっていた。
「坊っちゃん、あの、もう少し大きな声でお願いします」
フローラの言葉に、ヘルマンはぐん、と音がなりそうなほどの速さで頭を起こした。
しばらく目を泳がせていたヘルマンは、覚悟が決まったのか瞳をぎゅっと閉じて言い放った。
「お前を好きすぎる俺が、お前に手を出す恐れがあるからだ!」
「は……はい?」
緊張からか全力疾走した後のように息を荒げながら、ヘルマンは続ける。
「専属使用人は生徒の身の回りの世話をするため、必然的に二人きりになることも多い……俺自身、そんな状況で我慢しきる自信はその、情けない話だがあまりない。いやもちろん、お前の意志を尊重するが」
だから、とヘルマンは大きく息を吸って言った。
「お前を使用人として連れていくのを諦めたのであって、お前自身を諦めた訳じゃない!」
「そ、そうなんですか」
色々衝撃な事実が多すぎて頭が追い付いていないフローラがそう返すと、ヘルマンははあっと大きく息をついた。
「だから、お前が俺を避けていると気付いた時、とても辛かった」
「坊っちゃん」
「知らぬ間に嫌われたかと思っていた」
だが、とヘルマンはフローラを見る。その瞳が喜色を帯びているのを見て、フローラは自分が口走ったことを今更思い返した。同時に、どんどん頬が熱くなっていく。
「そうじゃ、ないんだよな?」
「……はい」
「フローラは、俺のことをどう思っている?」
「……意地悪ですね、坊っちゃんは」
「フローラの言葉で聞きたい」
「坊っちゃん……」
「きょ、今日は上目遣いをしてもダメだ、ちゃんと言ってもらうからな」
「上目遣い? 何のことです?」
「無自覚か」
フローラ、と吐息混じりに名前を呼ばれて。
フローラも、覚悟を決めた。
「坊っちゃん、私も……あなたのことが好きです」
想いを告げた途端に、フローラはきつく抱き締められていた。
「坊っちゃん、苦しいです」
「ああそうか、夢じゃない、夢じゃないんだな!」
ようやくフローラを解放したヘルマンは、晴れ晴れとした表情をしていた。フローラも想いが通じて嬉しいが、彼のように手放しでは喜べない。
「坊っちゃん、私とあなたには、身分の差が」
「それは大丈夫だ」
「そんな軽々しく越えられるようなものではありませんよ」
「案ずるな、すでに外堀は埋めてある」
「はい?」
何かとんでもないことを言われたが、ヘルマンが跪いたことにより、一時的に頭から遠退く。
真面目な顔つきになったヘルマンに、フローラの心臓は高鳴った。
リナリアの花を差し出しながら、ヘルマンは言う。
「フローラ、誰よりも愛している。どうか、俺の妻になってほしい」
「坊っちゃん」
「妻になるなら、呼び方も変えないとな」
「坊っちゃん、私はまだ頷いていませんよ?」
「呼び方が違うだろう、フローラ」
リナリアの花を受け取りながら、フローラは笑った。
「はい、ヘルマン様」
「坊っちゃんの気持ちに気付いてなかったのは、フローラ様くらいですよ」
あの後、フローラと両想いになり有頂天になったヘルマンが騒いだため皆起きてしまい、そのままヘルマンは子爵に回収されていった。“夜間にフローラの部屋を訪れるとは、やはりフローラをお前の専属使用人にはできん!”という特大の拳骨付きで。なぜあの時間帯になったかというと、フローラに避けられていたことからもしかして嫌われているかもしれないとなかなか部屋に行く勇気が出なかったからだそうだ。勇気の出し所が違うのでは、とフローラは思ったが、自分の行動に原因があるので口には出さなかった。
身分違いの恋でまわりに迷惑をかけるのではというフローラの不安は、杞憂に終わった。
フローラが使用人から貴族の婚約者へと変わったというのに、周囲は驚いていなかった。むしろ“やっとか”や“坊っちゃんの片想いで終わらなくてよかったねえ”という雰囲気で、フローラが困惑していた所に婦長の先の言葉である。フローラが部下から仕える相手となり、言葉遣いこそ変わったが、婦長や仕事仲間たちをはじめとする屋敷の者は相変わらずフローラに優しい。ヘルマンの両親であるエリツィク子爵夫妻も、フローラを当然のように受け入れ貴族社会のことなど必要なことを教えてくれる。それどころか、「うちの馬鹿息子をよろしく頼む」「フローラ、私のことはお母様と呼んでね!」と非常に好意的だ。
「いつから外堀を埋めてらしたのですか?」
久しぶりにエリツィク家に戻っていたヘルマンにそう聞くと、下手な口笛を吹かれて誤魔化された。フローラがじっとヘルマンを見ると、その視線から逃げるようにそっぽを向かれる。
そっちがそうくるなら、とフローラが頬にキスをすると、ヘルマンは頬を押さえて絶句した。
「フ、フ、フローラ! こ、この小悪魔!」
「あら、懐かしい言い回しですね」
フローラは小さく笑う。
「でも、そう言われるのも不本意ですから……」
フローラは瞳を閉じた。
「フローラ、何の真似だ」
「どうぞ、ヘルマン様のお好きなところに」
ヘルマンは唸った。苦渋にみちた呻きだった。
「だからお前は小悪魔なんだ」
「あら、されないのですか?」
「する」
即答したヘルマンに、くすくすとフローラが笑うと、頬に手が添えられる。
そのキスは、とてつもなく甘かった。