#2-4 冷たい傷
――街に、雪が降った。
季節は冬になっていた。
寒い寒い12月。
12月に雪が降るのは、いったい何年ぶりだろう。
雪を見ると、思い出す。
まだ幸せに触れていた幼き頃を。
俺とシンの関係も続いていた。
夜になるとふらりと現れ、二人で街を散歩して、帰って寝る。
そこに肉体的接点はない。
学校での生活も同じ。
ふらりと訪れると、シンはそこにいた。
「授業、出なくて大丈夫なのか?」
「少なくとも、テストで悪い点を取るほど私は頭わるくないから」
「でも、授業休んでばかりだと、テストの点は良くても留年するんじゃ?」
「そこらへんはうまくやってる。問題ないわ」
それに、とシンは呟いた。
「あんタ、人のこと言えないでしょ」
「確かに」
彼女は笑っていた。
心から楽しんでいる笑顔ではなかったが、少なくともその顔には辛い何かは含まれていなかった。
「もうすぐ年も変わるのね」
彼女は窓辺から外を見ながら言った。
まだ12月になってからそんなに日は経っていなかったが、シンにとってそれはとても長く感じたのだろう。
シンの中に、明日はあるのだろうか。
分からない。
次会ったらシンに聞いてみようか。
そう思って訪れた、再び雪の降った日のこと。
そこに、彼女の姿はなかった。
初めてのことだった。
いつも、シンはその闇に紛れるように存在していた。
今日、そこに、シンがいた跡はなかった。
俺は待った。
彼女が現れるその時を待った。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、それでも俺は待った。
だが、その日、彼女がその部屋に現れることはなかった。
その夜に、俺の家に現れることもなかった。
「どうしたんだよ……」
俺の胸で、南京錠が冷たく揺れた。
彼女は、忽然と、その姿を消したのだった。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間が過ぎ、クリスマスが過ぎ、大晦日が過ぎた。
シンと会えないまま、年が変わってしまった。
その間、俺に安息の日々はなかった。
シンの不在で胸が締めつけられたわけではない。
息苦しい毎日が続いていただけだった。
さらに月日が流れる。
白い世界が淡い世界に彩られはじめる。
明日は修了式。
3学期が過ぎれば、この学校での生活の三分の一が終わる。
ぼんやりとそんなことを考えながら、部屋で横になる。
シンは今どうしているのだろうか。
うつらうつらしはじめた頭でそんなことを考える。
やがて、だんだんと、目蓋が重く、なってきて――。
彼女がすぐそばにいる気がする。
静かにドアを開けて、俺の枕元に座り、ぽつりぽつりと語りだしている。
眠りながら聞いて。
私はもう、ダメだから。
今ね、私のお腹に赤ちゃんがいるの。
相手は誰だと思う?
……父親よ。
本当の父親とは違うけど。
私は母と愛人の間に生まれた子なの。
蒸発しちゃって、今はいないけど。
出て行ったのか、消されたのか、それは私にもわからない。
とにかく、父親にとって私は憎かったんでしょうね。
私、本当は妹がいたの。
でも、母と一緒に消えてしまった。
妹は本当に、母と父親との間に生まれた子だったのに。
父親は自分が愛した全てが憎かったのかもしれない。
先日、たまたま町で父親に見つかっちゃって。
そして……ここから先はとても口に出せないわ。
私はあの男に乱暴され、犯された。
体だけは、誰にも許したことなかったのに。
ウリなんかやったことなかったのに。
あの男は、私を、汚したのよ。
――だから、私は、あの男を、殴り殺しました。
本当は殺すつもりなんてなかった。
でも、結果として、殺してしまった。
ガツンて鈍い音がして、それは私があの男の後頭部を鈍器で殴った音で。
それに気づいたら、いつの間にか私は何度も何度もあの男を殴り続ていたわ。
あの男は、殴るたびに水を失った金魚のように、びくんびくんって跳ねてた。
その時のあの男の情けない声といったら!
あの男が動かなくなっても、私は何度も何度も何度も何度も殴り続けて。
終いには、あの男の頭は腐って潰れた林檎のようになったわ。
でも、それは当然の報いよね?
だって、あの男は私を汚したんだもの。
嫌がる私を押さえつけ、まだ濡れてさえいない私に無理矢理挿れてきたのよ。
あの男は気づいていなかったんでしょうね。
私が、すでに壊れていたことを。
ねえ、欠けたあんタなら、私のこと、分かるわよね。
私たち、本当によく似てたよね。
孤独で、無関心で、意味がなくて、壊れている。
でも、決定的な違いがあった。
あんタは、もうそのことに気づいているんでしょう?
私は、もう終わり。
目は開けないでね。
たぶん今ひどい顔をしていると思うから。
ごめんね、それから私はあんタに謝らないといけない。
私、実はあなたのことが気に入ってたの。
あんタが入学した時から、ずっと。
あんタは知らないと思うけど、私、ずっとあんタのことを見てた。
雰囲気で分かっちゃったのかな、あんタから目が離れなかった。
だから、どうすれば私のところに来るかなって思って。
屋上にいることも、体育館裏にいることも、あの学校にいる馬鹿達に教えたの、私が。
すぐに見つかるって、あんタ言ってたよね。
それ、私がみんなに言ってたから。
そうすれば、あんタはどこか誰もいない場所を探すだろうと思って。
そしたら思ったとおり私のいる部屋に来て。
笑っていいわよ、別に。
あなたはそうしてもいいんだから。
だから、ごめんなさい。
あんタを見つけてしまってごめんなさい。
あんタを気に入ってしまってごめんなさい。
あんタに隠していてごめんなさい。
ごめんなさい。
そして、ありがとう。
私、この事を伝えたくて。
……もう、行くね。
あんタは、気長に待っていて。
私の南京錠は、もう外れることはないと思うから――。
------
そして迎えた修了式の日。
警察がたくさんうようよする中で行なわれた修了式。
そこで俺は、シン――いや、楠木眞美の死を知った。
彼女は、昨夜、学校の屋上から飛び降て、死んだ。
お腹の子供も道連れに。
警察に頼んで、どんな状況だったのか聞いてみた。
しかし、誰も教えてはくれなかった。
でも、俺は彼女の死に様をありありと想像できた。
きっと彼女は両手を広げ、首を変な方向に曲げながら、十字の姿で死んでいったのだろう。
南京錠のブレスレットは外れないまま。
赤い池を冥土の入り口として。
沈むように、彼女は横たわって冷たくなっていったのだろう。
さようなら、シン。
さようなら、楠木眞美。
俺を南京錠で縛りつけたまま、シンはこの世を去った。
『いつか外れる日が来るかもしれないし、あんタは気長に待っていれば?』
思えば、この時から、破滅の足音が忍び寄っていたのかもしれない。
いや、もしかしたらずっと昔……。
眞美という名前をさずかった時から、運命の歯車は廻りだしたのかもしれない。
狂々と、狂々と。
――シンは、美しくなんてない。
Sin(罪)、Sinister(不吉な)、Sink(悲しみなどに陥る)、Sinuosity(曲がりくねる)。
Since, she was born...
だが、最期の彼女は、俺に対してSincerity(正直, 誠実)であった。
俺には、それが彼女の唯一の光のような気がした。
そして、シンの罪の姿である気がした。
シンの言葉が何を意味しているのか、今の俺には分からない。
俺の胸に空虚な種を植え付けて、彼女は俺の前から永遠にいなくなった。
あとで、あの広場に行ってみようか、と俺は思った。
そうして、冷たい傷を残しながら、俺の最初の高校一年は終わりを告げた。