#2-2 白い月と暗い影
眞美はいつもその部屋にいた。
それ以外の場所では見たことがない。
昇降口でも、廊下でも、お手洗いの前でも。
眞美はふらりと行くといつもその部屋にいて、何をするわけでもなくただ佇んでいた。
「授業には出なくてもいいのか?」
「あんタに言われたくないわ」
「それもそうだな」
そんな会話の後は、無言でいることも少なくなかった。
それでもよかった。
その部屋の入り口近くの影濃い一辺で佇んで、しばらくしたら出ていく。
それでよかった。
「なるほど……確かにここなら、誰かに見つかることもないな」
「どういうこと?」
「屋上や体育館裏は、居たらすぐに誰かに見つかった」
「……あんタが目立ってただけじゃないの? 屋上から体を乗り出したり」
眞美がこちらに視線をむけることはほとんどなかった。
大抵、眞美は忘れ去られた壁に映える影の向こうをぼんやりと見つめ続けていた。
何かを探しているようでそうでなく、かといって何も考えずに影を見つめ続けているわけでもなかった。
「あんたが、ここにいる理由って何?」
「なんだろうね。私にもわからない」
眞美は視線をそのままにぶっきらぼうに答えた。
「じゃあ、あんタはどうしてここにいるのよ」
「さあ。俺もわからないな」
「ばっかみたい」
眞美はふぅ、と目を伏せた。
「うん、あんタは馬鹿だ。ある意味、馬鹿だ」
「そうかもしれないな」
「そうよ。馬鹿よ。絶対馬鹿よ。うましかよ。突然日本がコートジボワールになったって、アラスカがベーリング海に沈んだってあんタの馬鹿さ加減は変わらないわ」
「すごい例えようだな」
苦笑しながら天井を見上げる。
埃が蜘蛛の糸のように天井から何本も釣り下がっていた。
それはカンダタと何千万の罪人の姿に似ていた。
「ま、俺が馬鹿だとしたら、あんたも馬鹿だろ」
「当たり前じゃない」
眞美は肩で笑った。
「あんたはどうしてこの学校に来たんだ? ここらじゃ一番頭悪くて、素行の悪いやつしか入らないこの学校に」
「他に行く場所がなかったんだもの」
眞美は壁に寄りかかるように座り込んだ。
「もったいないな」
「そう?」
「この学校でコートジボワールを知っていたら、テストで100点をとれる」
眞美は耳にかかった髪を手で払った。
「あんタは? 天井を見てたけど。何か考えてたんじゃないの?」
「あれだよ。天井から、ぶらっとさがってるやつ」
「……蜘蛛の糸ね。もしかして、カンダタとか思ってたわけ?」
「そういうこと」
「呆れた。この学校で、自分で芥川龍之介なんて読んでいるのはきっとあなただけよ。国語で100点とれるんじゃない?」
「その前にテストを受けさせてくれればいいんだが」
「どうかしらね。受けさせてはくれると思うわ」
あんタの答案がどんな形になって返却されるかはしらないけどね、と眞美はため息をついた。
「みんなは芥川を知っているのだろうか?」
「さあ? 羅生門すらろくに授業で扱わない学校だもの、きっと知らないと思うわ」
「あんたもなかなか芥川を知ってるんじゃないか」
「そうね、それなりよ。常識程度だわ」
常識、と彼女はかすれそうな声で呟くと、そのまま俯いてしまった。
決して重くない無言の空気が漂う。
俺も壁に寄りかかって、もう一度天井を仰ぎながら眞美のことを想った。
彼女と俺は、似ているのだろうか。
きっと似ているんだと思う。
境遇までもがそうなのかもしれない。
少なくとも、眞美は初めからここしか進学できない程度の人間ではないことはなかった。
やむをえない理由があって、ここしか選択肢がなかったのかもしれない。
――もしかして。
これ以上は自分の口からは言えなかった。
「何を見てるのよ」
「いや、特になにも」
「……そうね」
彼女も感じているのだろうか。
俺と彼女の距離を。
俺と彼女の接点を。
「クラスは、どこ?」
「1年3組」
「ふぅん……」
「あんたは?」
「ねえ、あんたって言い方、そろそろやめてくれない?」
「じゃあ、眞美?」
「んー……それもなんかな」
「なんて呼べばいいんだよ、そしたら」
「シン」
「へ?」
「『眞』って音読みで『シン』だから。シンって呼んで」
「でも、女の子っぽくないぞ」
「いいよ、それで」
シンはそう言っておかしそうに笑った。
彼女がそれまで笑った中で、一番楽しそうで、一番寂しそうな笑顔だった。
「で、シンは何年何組なんだ?」
「2年1組」
「……年上だったんだ」
「当たり前じゃない。じゃなかったら、この学校についていろいろ知らないわよ」
「んー、なんか、意外」
「何よ、意外って」
シンは拗ねて俺を睨んだ。
きりっとツリ目の彼女は、怒っているようなすましたような表情がとても似合っていた。
「あんタ、どこか変よね」
「シンに言われたくはないな」
「そういうことは言わないの。わかっているんだから」
シンはすっと立ち上がり、窓際に移動した。
「窓、開けてもいい?」
俺が答えるまでに、シンは窓を開けた。
空気が流れるのがわかった。
風が入りこみ、シンの長い髪を揺らした。
「涼しいわね……いつもこうだといいんだけど」
「ここで俺の言葉は野暮ってことか」
「わかってるじゃない。言葉を発すること自体が野暮かもしれないけど」
「『この世界は流動的で常に変わり続ける、不変を願うことに意味はない』なんて腐った台詞を言われるよりはましだろ」
「ええ。反吐がでそうだわ」
彼女は両肘を撫でるようにしながら窓のフレームに寄りかかっていた。
「ばれない?」
「誰もいないもの。こんな退屈な風景の広がる外を見るような生徒もいないわ」
窓から見えるのは、四角く切り取られた街並み、空だった。
ここから見える空はどこか清々しく見えるのはどうしてだろう。
その下に見える街並みはあんなにも灰色によごれて汚らしいのに。
「……鳥はいいわね」
ぽつりと漏らしたシンの言葉は、郷愁を帯びているような、たゆたさがあった。
「夏が、来るのね……」
空の蒼と、雲の白。
いつまでも、シンと二人で空を見上げ続けていた。
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カチリ、と俺の首元で何かが音をたてる。
うっすらと重く、少々錆臭い。
「なんだ、これは」
「南京錠よ。前、この部屋に来たときに見つけたの」
錆のついたチェーンに、埃でかすれた南京錠がはめられていた。
「……うん、あんタに似合ってるわ」
「それ、シンはナンシーっていうことかな」
「自惚れないで。あんタなんか全然シド・ヴィシャスに似てないわ」
「セブンティーン歌ってやろうか」
「やめて」
はいはい、と南京錠を外そうとする。
「……そういえば、鍵は?」
「ないわよ、そんなもの」
「へ??」
「あるはずないじゃない。そこに転がってたのよ、それ。どうせ誰かが開けた後に放置したんでしょ」
「じゃあ、俺はずっとこれをつけっぱなしってことか?」
「そういうことになるわね」
彼女はすっと、制服の長袖をまくった。
「私もしてるわ。南京錠」
そこには俺と同じように、チェーンが南京錠でとまっていた。
女の子のブレスレットとしては、あまりにごつごつしたチェーンだった。
「いいじゃない。別に死ぬってわけでもないし」
「そりゃ、そうだけど……」
「いつか外れる日が来るかもしれないし、あんタは気長に待っていれば?」
そう言って、彼女は笑った。
「じゃあお礼に、シンにはこれをあげようか」
俺は十字架のピアスを取り出し、彼女に渡した。
その長い髪に隠れて普段は見えないが、シンはピアスをしているのだ。
「へぇ……クロスね。なかなかやるじゃない、あんタ」
「その、シンってさ、罪って意味もあるんだろ」
「そして十字架は罪を表す」
シンは嬉しそうに喋りながら、ピアスを耳につけた。
「私にお似合いってことね」
「そうかもしれない」
シンが髪をかきあげると、耳につけたクロスが妖しく反射し、シンの髪の中へと、消えていった。
「私、クロスが一番好きなの。髑髏とか百合とかも好きだけど、クロスが一番好き」
「結構パンクはいってるんだな」
「そういうわけじゃないわ」
シンは目を伏せながら笑った。
「ただ、そういう環境だっただけよ」
その言葉は、ひどく俺の心をうった。
『そういう環境だっただけよ』
「どうしたの?」
シンが俺の顔を覗き込む。
「同情、してるの?」
「まさか。そんなこと、俺ができるはずもない」
「そうよね。あなたにはできないわよね」
彼女はくすりと笑った。
「もしかして、同情できないことが悔しいの?」
「そういうわけでもない」
「じゃあ、どうしてそんな悲しい顔をしているの? 自分のことを考えてるの? 私のことを考えてるの?」
「どっちも違うと思う」
「そうね。きっとそうだと思う」
彼女はそっと、クロスのピアスに触れた。
「ひんやりと冷たいわ。でも、それが気持ちいいかもしれない」
窓から風が入り込んでいた。
いくらか湿気のこもった空気。
もうすぐ、夏が来るのだ。
「夏か……」
シンがおとすように呟く。
「夏は涼しいところにいたいわね……」
「カキ氷は必需品だな」
「扇風機も欲しいわ。クーラーがあったら最高」
「線香花火や風鈴なんかも涼しげだな」
いつの間にか、二人で窓の外の四角い空を眺めていた。
空は青く眩しかった。
いつだってそう。
あまりに自己中だから、きっと空の血液型はB型なんだろう。
俺たちに関係なく、勝手に流れて、勝手に動いて、勝手に壊れて、勝手に暗くなっていく。
「――あの空の下に、あんタの帰る家はあるのね」
「ああ。一応あるよ。あまりに小さくて、ここからじゃ見えないけど」
「そっか……」
彼女はそっと、視線を床に移した。
「どうした?」
「……無いのよ」
「何が?」
「家よ。私には、無いの」
シンはため息をつきながら、沈むように呟いた。
「家がないって……それは、どういうことなんだ?」
「そのままの意味よ」
彼女は顔をあげて、俺の方を見た。
「私には帰る家がないの。一応あるけどね。そこに私のいるスペースはないから、私は帰れない。帰ったとしても、いいことなんて無いわ」
「………」
「眠ることもできないし、荷物をきちんとしたところに置いておくこともできない。服もないし教科書もない」
「じゃあ、今はどうしているんだ?」
「転々としてるわ。一応友達だっているし、私に同情してくれる男なんていっぱいいるし」
「へえ……」
「でも、勘違いしないでね。私、男と変なことなんてしないから。体まで渡しはしない」
彼女はそっと、俺に寄りかかって、言った。
「ねえ、あんタんち、行ってもいい?」
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その夜は静かで空虚だった。
湿った青草が月夜に映えていた。
二人の間に何かがあったわけでもない。
キスはおろか、手をつなぐという行為さえない。
俺がいて、シンがいる。
それだけ。
二人はあまりにも似ていて、二人の夜はあまりにも日常とはかけ離れていた。
「あんタの家も、壊れているんだね」
ぼそりとシンが呟く。
「あはは、やっぱり、あんタと私は似てるよ」
「そうだな……そう思う」
「うん、よかった。なんだか一人じゃないって思えるよ」
「ある意味ではね」
月光がシンの黒い髪を濡らすように差し込んでいた。
街は暗い。
部屋の電気は消してある。
それに意味はない。
二人でいるのに必要以上の明かりはいらないし、音もいらなかった。
「あんタって、不思議だよね」
「どうして?」
「なんとなく。だって、自分で不思議だと思わないの?」
「考えたこともないな」
「そっか……私には考える暇もなかったよ」
そうぽつりと呟くシンの瞳は、濁るように澄んでいた。
彼女は今何を思っているのだろうか。
彼女は長い夜を、何を思って過ごしてきたのだろうか。
「ねえ、あんタって幸せを感じたことある?」
「わからないな。そもそも幸せってなんだ?」
「幸せって言うのはね」
シンは月を見つめながら言った。
「普通の人間なら当たり前のように手に入れて、私たちは手に入れられなかったものよ」
「………」
幸せ。
少なくとも、俺はそれに触れたことはある。
偽物だったかもしれない。
でも、確かにそれは幸せと呼んでよかったと思う。
「俺は……忘れたな」
「そっか。じゃああんタはまだ救われてるんだ」
「シンは違うのか?」
「違うわ」
吐き捨てるようにシンは言った。
「私は……それすら奪われ、失くしてしまった」
それきり、お互い黙ったまま、窓から見える月を見上げ続けていた。
名前の知らない虫が鳴いている。
その声を聞きながら、月を見上げながら、二人の夜は、更けた。
「ねえ、散歩に行かない?」
シンに任せながら、夜の街を歩いた。
シンはこの街に精通しているようで、俺の知らない場所をいろいろ教えてくれた。
寂れた廃屋とか、深夜でもやってるゲーセンとか、スポットとか。
それだけじゃない。
「ちょっとこっち行ってみない?」
シンに連れられてやってきたのは、家から少し離れた場所にある寂れた地区だった。
病院があり、民家がちらほらある他は田んぼだったり茂みだったりした。
そこを過ぎると山というには大げさな高台があった。
どちらかというと丘と言った方がいいかもしれない。
夜にそびえるそれはサイレント・ヒルのようだった。
シンがその奥へと入っていく。
「何があるんだ?」
「何もないよ」
シンはそのまますたすたと歩いていく。
俺もそれに続く。
道は道でなくなり、獣道のようになった。
「なあ、いったい何があるんだ?」
「だから、何もないってば」
彼女は怒っているようで、嬉しそうな声で言った。
「もうすぐ着くから、黙ってついてきて」
彼女が導いたのは、小さな広場だった。
森の茂みの中にひっそりと隠れるように佇む広場。
そこからは自分の街を臨むことができた。
暗い中に、淡い光がぽつぽつと残っている。
これが、自分のいた街の姿なのか。
あまりにちっぽけで、あまりにのっぺりとした印象を受ける。
「ここ、夜だからこんなだけどね。夕暮れの時とか、すごいわよ」
「夕暮れの時?」
「うん。こう夕日が沈むときにね、ここから見る景色はいいんだ」
そうなんだ、と俺は答えた。
「ここだけだと、本当に何もない場所でしょ」
「確かに。ホント何もないな」
人が立ち寄った形跡もほとんどない。
わざわざこんな場所まで来るやつもいないのだろう。
しばらく二人でそこから街を見つめ続ける。
空では、白い月が暗い影をおとしていた。