#0.2 XXXXXXXX
母は、とても厳格で、今思えば少し、狂っていた。
自分にとって些細なことでもヒステリーを起こし、自身で気に入らないことがあるとすぐに手をあげた。
夜になると必ず響く、『僕』の頬を打つ音。
憑かれたように繰り返されるその手はどこかリズムよく、しかし打たれた頬は悲しい熱を帯びる。
隠されたドメスティック・バイオレンス。対外的にばれないように巧妙な加減で、その打たれた肌が赤みを残すことはなかった。
痛いと叫んでも止まらない。
やめてと懇願しても逆に火をつける。
長く、永いようで、しかしその一回ごとは明らかに短い。
止んでは、繰り返される。
病んでいるように、何度も、何度も、何度も、何度も。
『僕』はドメスティック・バイオレンスという言葉を知らなかった。
頬を打たれることは、『僕』にとって一つの愛情表現であり、しつけであり、そして日常となっていた。
逆に、父はまったく絡むことはなかった。
よくいるできそこない。
昼間から酒をあおり、リビングでだらしなく横になりながら、つまらないと愚痴をこぼしつつ俗なテレビ番組を見続けていた。
当然のように母は昂ぶり、その余波は『僕』に押し寄せてくる。
母は、父に手をあげない。あげるのはいつも僕の方。
父が強いからではない。歪んだ眉間からは、父に対しての諦めが滲みでていた。
笑う母、冷たい母、右目は開き痙攣する左目を狂わせながら迫る母。
すべて同じ人間で、しかし尋常の無い豹変模様。
それが、須藤家。
そんな環境で生まれ、育った。
欠けた教育、廃れた愛情。
当然、真面目で利口な少年になど、成長するはずもない。
――もともと、大雪の日に生まれた俺は、望まれて生誕したわけではない。
『始まりからして、狂っている』
俺の人生はよじれた歯車のように、滑稽で、醜い音をたて、倦厭されるものだったのだ。
だから、仕方がない。
そう、仕方なかった、のだ。
枯れ果てた草に水をあげても青々とはしないのと同じく、どんなに臨んだとしても、この枯誕からの逆転など――少なくとも今の非力な状態では――できるはずもなかい。
排他的で、暴力的で。
人を拒み、馴れ合いを嫌った。
こんなことがあった。
俺のことをよく知らない女子が、そこらで摘んできたのだろう小さな花をプレゼントしてきた。
俺は笑顔でその花を受け取り、
――笑顔で、握り潰した。
人間とは、傷つけられ、踏みにじられ、磨耗するものだ。
人間とは、傷つけ、踏みにじり、磨耗させるものだ。
くだらないことだと思う。
本当に、くだらなくて、みじめで、あっけない。
人間なんて、そんなものだ。
だから、『トモダチ』なんていない。
一人を好み、一人で遊び、一人で育った。
小学を出て、中学を知り、そして高校に入る。
だれもが忌むような高校だった。
偏差値は最悪、その地域のとびきりのワルが集まるような場所。
頭が悪かったわけじゃない。
ただ、そういう環境の方がよかっただけだ。
自分にとっても、他の人にとっても。
望むことは、とうに諦めた。
枯れた草だとしても、憧れくらいはもつ。
その憧れは、周りが、世間が、そして自分自身で砕いた。粉々に、塵芥として世界のどこかに流されて消えた。
さよならの言葉もなく、発する間もなく。
羨ましいという気持ちさえもすでになく。
悲しいという気持ちすらも持たず。
高校の正門を、遠くから見下ろしながら、遠い遠い過去を振り返ると、やはり、自分は、こうするしかないのだと、苦い溜息を静かに飲み込む他なかったのであった。