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初めて泣いた日  作者: 久遠寺蒼
13/14

#4-5 灰色の亡霊

夢のような時間はあっという間に過ぎ、三月になった。

春の陽気はうららかで、のんびりとした眠気を誘う。

あの広場で、二人で横になって空を見上げる。

薄く青む空に、雲が溶け込むようにたなびいてるのを見る。


都と別れ、一人自宅への道を歩く。

まだ修了式まで日にちがある。

桜はまだ蕾のまま、開花の時を静かに待っているように思える。





――が、今になって、シンのことが、頭から離れなくなっている。






一年前、俺の前に現れて、消えた少女。

一年。

あれから、もうそんなに時が経っている。

俺は、何ができたのだろう。

何もしてやれなかった。

驕りかもしれない。

自分なら、なんとかしてやれたのではないか。

『自分なら』

意味のない。

なんて意味のない。

だけど、忘れることなんてできない。

時々不安になる。

こうして、都と二人でいてもいいのか。

俺は許されるのか。

こんな苦しい感情を人はなんと呼ぶのだろうか。

もしかしたら、俺はいつの間にかシンに惹かれ、恋してしまったのかもしれない。

シンにしてやられたというわけだ。



冬が終わり、春が近づくにつれて、夢を見るようになった。

シンの夢。

シンが泣いている夢。

彼女は顔を隠すように髪を垂らし、顔を手で覆うこともせずに、静かに泣いているのだ。

声にならない叫びが俺の胸を刺す。

キリキリと、キリキリと。

背景が移り変わる。

あの教室、あの夜、あの部屋、あの屋上。

みんな暗い。

闇に覆われ、湿っぽく、とてもじゃないが正常の精神でその場に佇むことなどできない。

彼女は囚われているのかもしれない。

俺に、過去に、世界に。



夜の帳が完全におちている。

街灯の明かりは弱々しく、今にも消えそうなほどに儚い。

ゆらり、と幽霊がその下で待っていてもおかしくない雰囲気。

風はまだ冷たく、首元を濡らすようにして去っていく。


……夢を見ているのか。

ぽっかりと暗くなっている街道の端。

家々が自分の個性などかき消すように平凡に並んだ一角。


シンがいた。

見間違えようがない。

後ろで髪を結んだシルエット、さらっとした長身のスタイル。

あの影の中で俯くように存在していた、その時と同じ姿勢で、何かを待っているように、いた。

口の中が乾く。

いったい、何が、したいのか。

俺を待っているのか?

それとも――。

無意識に俺の足は速くなっている。

俺はいつの間にか、夢の世界にいる。

俺の世界では死者が道端で立っているなどありえない。

世界はそんな風にできている。

だからこれは夢だ。

夢なんだ。

俺の足音に気づいたのか、シンが顔をあげる。

その顔は笑うように泣いている。


彼女と目があった瞬間、彼女はその静寂に溶けて消えた。

彼女がいた、その場所に、誰かがいた痕跡はない。

夢か、幻か。

だけど、俺ははっきりと彼女の影を見てとった。

彼女の存在はとても曖昧で、リアルだった。

ドクン、と一度心臓が軋むように鳴った。

都の顔が思い浮かぶ。

俺は許されるのだろうか。

――誰に? なんのために?





「どうしたんですか? 体調が悪いんですか?」

「いや、それはお前だろ。まだ風邪ひいてるじゃないか」

「けふけふ、そんなことありませんよ」

そんなことがあるから言っている。

あの日以来、俺の中でのシンの影はますます濃くなり、侵蝕するようにじわじわと広がっていった。

引きずっている、のか。

シンへの想いが日に日に募ってゆく。

もう一度、彼女に会いたい。

その気持ちが、都への愛とぶつかり、衝突し、磨耗する。

「最近、ご飯食べてるんですか?」

「食べてるよ。なんだ、俺、頬でもこけてるのか?」

「はい」

都ははっきりと言った。

「別にそんな風になるようなことはしてないんだけどな」

「私の風邪がうつったのかもしれませんね」

「残念、馬鹿は風邪ひかないんだ。この世界はそういう風にできている」

「もう、最近、小説の読みすぎですよ」

「しょうがない、好きなんだ」

「私と小説、どっちが好き?」

「小説」

ひっどーい、と都は頬を膨らませ、ぷいっと子供のようにそっぽを向いてしまった。

「冗談だよ、冗談」

「冗談でも傷つきました」

「都が一番だよ」

滑らかに口から出てきた言葉に、はっと、一瞬の違和感をかんじた。

その違和感は疑問ではなく、そう言いきれてしまう自分の不甲斐なさのようなものだった。

シンと都を比べたら、俺は。

もちろん、俺は都を愛している。



……馬鹿馬鹿しい。

シンはもうこの世にいないんだ。

想うだけ、疲れるし、都を悲しませるだけだ。

――でも、どうしてそれなのに。

「……瑠汐さん? やっぱり今日は変ですよ」

都が心配そうに俺の顔を覗く。

「なんか、ボーっとしてます」

「うーん、徹夜で小説を読んだのがまずったかも」

都が俺の頭を小突いた。

「あっはっは、ごめんごめん」

都の方に顔を向ける。

都の膨らませた頬が目前にある。

さっと風が吹く。

都の長い髪が流され舞う。

その髪の間。






シンの姿が、そこにあった。







「………っ!」

目を凝らす。

しかし、そこには何もない。

「えっ、どうしたの?」

都も後ろを向く。

が、やはり何もない。

「何かあったんですか?」

「い、いや……」

何も言えない。

「かわいい猫が見えた気がしたんだ。でも、気のせいだったみたい」

パンパンと頬を叩く。

しっかり、しなくては。





「………」

都が俺の顔を覗き込む。

何もかもを見透かされているような、そんな奥の深い瞳に、俺の姿はバツの悪そうにして映っている。

「何か、隠してませんか」

「別に……何も」

「………」

都は口を尖らせている。

俺はその唇にそっと口づける。

「都が心配したり、都に何かあるような隠し事は、何もないよ」

「……そうですか」

都はくるりと表情を変える。

「だったら良かったです。なんだかとても深刻なことのような気がしたもので」

「そんなことはない」

ふっと笑った後で、俺は都に聞いた。

「なあ、都。幽霊って信じるか?」

「幽霊をですか?」

都はうーんと唸りながら眉をひそめた。

「私は信じますよ。心霊写真とか、怖くて怖くて」

「そっか……じゃあ、なんで幽霊っているんだと思う? たしか成仏できずにこの世に残っちゃったやつが幽霊になるんだろ?」

「うーん、それは、その幽霊によって違うんじゃないですか?」

右手の人差し指を顎にあてて、都は笑った。

「なんでいきなり幽霊の話なんか」

「いや、最近、幽霊に出くわす夢を見てさ。なんでだろうと思って」

「あ、もしかしてさっきからボーっとしてるのはそのせいですか?」

「かもしれない」

都は声をあげて笑った。

「なあんだ、心配して損しちゃった。瑠汐さんって、案外怖がりなんですね」

「そうでもない。死んだはずの人間がいきなり現れたらびっくりするぞ」

「嬉しくはないんですか?」

「え?」

「ほら、死んじゃった人に会えたんですから。また会えたって、嬉しくなったりしないんですか?」

時々、都はドキッとする言葉をはく。

「うーん……どうだろ。わからないな」

俺はシンに会えてどうだったのだろう。

嬉しかった?

………分からない。

でも、そこにシンがいる。

それだけで良かった。

それ以上は何もなかった。

もしかしたら嬉しいのかもしれない。

ただ、胸は高まらないし、泣きたくなるような衝動もない。

諦めているのかもしれない。


「俺は……わからないな。夢のことだし」

「あはは……夢じゃしょうがないですね」

「ああ、しょうがない」

「じゃあ、もしも私が幽霊になって、瑠汐さんの前に現れたら、その時は喜んでくださいね」

「俺を呪おうとしないなら、嬉しがってやるよ」

二人で笑った。











「……くしゅん!」

「まだ治らないんだな、都の風邪は」

「あ、あはは……情けないです」

都が笑う。

「夜はしっかり寝てるんですけどね」

「しっかり食べてるのか? 少し頬がこけたんじゃないか?」

「え……?」

掠るような手で、都は自分の頬をさする。

「やつれてるように見えますか?」

「どちらかというと、少し痩せたみたいに思う」

「そうですか。あ、あはは……」

すっと、都が立ち上がる。

「実はダイエットしてたんですよ。裏目にでちゃったみたいです」

「おいおい、そんなする必要なんてないだろ」

「そんなことないですよ。ほら、こことか」

すっと、都が腕を出す。

ほっそりと白い。

「いや、全然大丈夫だと思うぞ」

「そうですか? 私はもうちょっと痩せたいなあと」

「でも頬こけたりしてるし、ちょっと無理なダイエットなんじゃないか? すること自体は別に構わないと思うけど、不健康になったら元も子もないぞ」

「そうですねー。最近自分でもちょっとやりすぎかなと思ってましたし、少し自粛します」

そして二人はじゃれあい、キスをした。

都の微笑みは、天使の祝福のように思えた。

それを都に言うと、実はロマンチストだったんですね、と揶揄された。

そうじゃない、本当に、背中に羽が生えているように思えるんだ。

それくらい、都は俺の中で大きく、俺の生きるそのものだった。







------





病室に漂うくぐもった臭いが気分を害する。

病院は嫌いだ。

滅入るし、医者はいるし。

そもそも、空気があわない。

広場の麓に位置する、この病院でさえ、それは当てはまる。





     ――俺は、真実を知らされた。





都は、ある日、歩けなくなった。


「都! どうしたんだ、その車椅子は!!」

その日、いつもの場所に向かおうとした俺の前に、車椅子に乗った都の姿があった。

「あはは……風邪で、体力がなくなっちゃったみたいで……治るまでの間、借りることにしたんです」

「風邪で体力って……熱があるんじゃないのか?」

「い、いえ、そんなことないです。きっと一時的なことだと思うので、心配しなくても大丈夫ですよ」




それから俺たちは、まず広場の麓で会うようになった。

いつもの広場は車椅子では行けないので、俺が都を背負ってそこを目指す。

彼女の体は驚くほどに軽かった。

俺の前で交差している腕は、以前にも増して白く、細くなっていた。

昔読んだ石川啄木の「一握の砂」という短歌集の中に『たはむれに…』という短歌がある。

俺はまさにその時の啄木の気持ちそのものだった。

そのことを都に話したら、『じゃあ私は瑠汐さんの母親ですね』と俺に笑ってみせた。

いつだって、都は笑っていた。

だから、俺は都がすぐに治るものだと、信じてやまなかった。









思えば、シンの幻は予兆だったのかもしれない。

都が倒れたその日、俺たちは気分転換に公園へ出かけた。

都は笑っていた。

いつもよりも楽しそうに。

「どうしてそんなに楽しそうなんだ?」

「だって、こうやって他の場所に行くなんて、最近あんまりしてなかったから」

風が強い日だった。

公園で世間話に花を咲かせ、いつものように夕焼けを眺める。

その公園から見る夕焼けは、どこか有限の寂しさを思わせる。

風が二人の背中をそっと押す。





        ――パタリ。






都は口元を赤く染めて、意識を失った。

笑顔のままで。

「……都!」

そこだけ、時間の流れが遅くなったような気がした。

都が前に傾きはじめてから、地面に倒れるまで、どんなに長かったことだろう。

そして、俺は何をしていたんだろう。

都の体に手を差し伸べもできず、ただ、その場で都が倒れるのを見ているしかできなかった。

なんて自分のふがいないことか。

「………っ!」





その日の彼女は、いつも以上に、リアルだった。

「……シン」

シンが、無言で俺の背後に立っている。

気配で分かる。

地面に映る彼女の影で分かる。

「なんだって、こんなところにいるんだ」

シンは答えない。

「ここにいるのは、何か理由があるのかい?」

返事はない。

「……とにかく、救急車を呼ばないと」

都を抱えようと腕を伸ばす。





「……え?」

腕が動かない。

腕が、シンに掴まれている。

ありえない。

「シン? 君は……」

「……彼女に触らないほうが、あんタのためだと思って」

「な、なんでまた、そんな」

「絶望したい?」

そこで、ふっと、視界がぶれる。

腕が自由になる。

「……自分で、決めるのね」

シンの姿は、もうどこにもなかった。




「――シン」







------




「病院でずっと入院していたんですが……」

都は、命に関わるくらい重要な病気を患っていた。

先天的な、とても重い病気。

病名は難しく、説明されても覚えられない。


都はこっそり病室を抜け出して、そして俺に会いに来ていたのだ。

だが、ここしばらくは、あまりいいとは言えない状態だったらしい。




「あなたには、辛いかもしれませんが……」


医者は、真実を患者に、そして関係者に伝える責務がある。


「水野さんはですね、もう……」


思い返せば、いろいろ不自然なことは多かった。


だけど、都が笑っていたから、その違和感は勘違いだとばかり思った。


それは間違いだった。


でも、俺はそうするしかなかった。


間違いだったから、どうだと言うのだろう。


都から本当の事を聞いて、もう会わないようにしたのだろうか。


いや、しなかった。


そして、都もしないはずだ。


それに、間違いだなんてどうしてその時思えるだろう。


間違いだの正解だのは、全て事が起こってからわかるもので。


だから、俺は、こうするのが一番二人のためになるのだと、思っていた。








「……もう、長くは、ありません」







壊れてしまいそうなほど激動な感情が、胸の底から沸き起こる。


それは肺を通過し、喉を越え、涙腺にまで届く。


目頭が熱くなる。


心臓が圧迫され、心拍数が脈々とあがる。


やはり、病院の空気は苦手だ。


息がどんどん苦しくなる。


目眩さえする。


誰か換気をしてくれ、じゃないと倒れてしまう。








「彼女に、会いますか?」




「あなたは、彼女に、会えますか?」










「……会うよ、会えるよ」


「本当に?」


「会えるよっ!!」


嫌な汗が頬を伝う。


俺は都に会えるのだろうか。


俺に嘘をついていた彼女に。


もうすぐ死ぬと分かっている彼女に。


俺は会えるのだろうか。


そして、今までと同じように振舞えるのだろうか。


都に笑顔を向けられるだろうか。


俺に、そんな簡単で難しいことが、できるのだろうか。








「もう一度聞きます」

主治医が無感情に言う。







「あなたは、水野さんにお会いしますか」











心に、トリカブトの染みこんだナイフが刺さったような痛みを感じる。


嗚呼どうして。


シンの姿が頭に浮かぶ。


シンの笑っている姿が、シンの死に様が、脳裏に浮かんでは消える。


俺が悪いのだろうか。


俺と関わると、皆死んでいくのだろうか。


シンが死んだ。


都も死ぬ。










……ダメだ、そんなことを考えては。

都はまだ死んではいない。

まだ生きる可能性だってある。

そうだ、生きるんだ。

都は生きて、回復して、医者を目指して大学に進んで、医者になるんだ。

俺が消極的になってどうする。

都は死ぬって決まったわけじゃない。










「会います。俺、都に会います」




「……わかりました」














(家がすぐ近くですので)


病室に向かう廊下で、都の言葉が鮮明に思い出される。


悔しくて唇を噛む。


血が、顎を伝い、首元を濡らす。


その日の病院はとても静かだった。


患者たちの喧騒も聞こえない。


音一つない。


鳥のさえずりもない。


木々のささやきもない。


生命維持装置の活動音もない。


自分の足音もない。


影が濃い。


窓から入る光が眩しい。


都が倒れて、一日が経とうとしている。


都は無事なのか。


ふっと、その陰影のコントラストの強さで、一瞬、目眩がする。


シンがいたあの教室に似ていて、まったく違う。


春なのに。





「――シン」


君は今、どうしているのだろう?

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