#4-4 夢があるんです
「私、夢があるんですよ」
雪がたくさん降った日のことだった。
「へえ。まるでキング牧師だな」
「キング……牧師??」
「いや、気にするな」
軽く笑って、都の頭を撫でる。
「もう、私、子供じゃないです」
「同じようなものだって」
都は俯きながら顔を少し赤らめている。
「お、また雪が……」
「え?」
都が頭をあげる。
それと一緒に、俺の手も都の肩にすべりおちる。
「わぁ……」
都が右手をかざす。
小さな、本当に小さな雪の結晶が都の小さな手のひらに舞い降りる。
すぐに溶けて消える。
「冷たいですね」
「そりゃ、雪だからな」
「もう、情緒も何もないですね」
雪は次第にぱらぱらと多く、大きくなっていく。
灰色の空から、白色の雪が降る。
浄化されて、この世界に舞い落ちているのだろうか。
灰色の空から生まれ、灰色の街に降り注ぐ。
雪とは、なんのために生まれ、なんのために消えていくのだろう。
生まれた場所も、消滅する場所も、濁っている。
「で、都の夢ってなんなんだ?」
「ええ、実は」
コホン、と一度咳払いをする。
「私、お医者さんになりたいんですよ。父が医者なんです」
「――医者?」
「はい。お父さんのような、お医者さんになりたいんです。お金がない人でも診察をしてあげる、動けない人がいたら診察に行く、そんなお父さんみたいに」
「へぇ、そっか、都のお父さんは医者なのか」
「はい、そうなんですよ。瑠汐さんのお父さんは、何をしているんですか?」
そこで、言葉に詰まる。
父。
いったい、今頃、どこで何をしているのやら。
パチスロでもしているのか、はたまたどこか飲み屋で潰れているのか。
家にいたとしても、俺はもうあいつに話しかけはしない。
『父親』に、いい想い出はない。
シンのことが脳裏に浮かぶ。
父親を殺し、父親に殺されたシン。
「あ、何か気まずかったですか……」
「ん、いや、今何してんだろうなと思って。ほら、生活の時間が違うからあんまり会わないんだ」
「ああ……そ、そうなんですか」
「それにしても、医者か……」
俺は医者が嫌いだった。
注射をするから嫌いだった。
母を見殺しにしたから嫌いだった。
あの矛盾で満ちた医者の世界が嫌いだった。
……でも、都が医者になるのなら、俺は医者を少しは好きになれるかもしれない。
雪が、二人に積もる。
「寒くないか?」
「ちょっと。寒いというか、冷たいですね」
頭を白くしながら、都が笑う。
「まったく……」
都の頭から、雪を払いおとす。
次に肩、そして腕、背中。
いつの間にか、二人は抱き合うような形になっていた。
都の瞳が、俺の瞳を見つめている。
反射的に、俺は都にキスをした。
やや乱暴に、それでいて優しく。
都はそっと目を閉じる。
唇が、震えている。
静かに、唇を離し、都と見つめあう。
そして戸惑う。
どうして、自分は口づけをしてしまったのか。
迷いに気づいたのか、今度は都から唇を這わせてくる。
それに、答える。
頭に手を添え、腰に腕をまわす。
都が、確かにそこにいることを確認する。
――雪が、いつまでも降り続いている。
いつまでも降り続けばいい。
今は、今だけは、何も言わず、静かに。
世界が、白に染まっていく。
全てが等しく、白に染まる。
山も、木々も、街も、建物も、電柱も、石垣も、道路も、人も、犬も、俺も、都も。
胸の奥から、言葉に出来ない気持ちがあふれてくる。
締め付けられるように、痛い。
これも、痛みだろうか。
なら、都にも伝わっているのだろうか。
『嬉しい』という痛みが。
「……っ」
唇と唇が、離れる。
都は目にいっぱいの涙を溜め、俺の瞳だけを見ていた。
俺の背中にまわされた両腕は離れないまま。
時が流れる。
雪が大粒になり、空からの数も多くなっている。
しんしんと、しんしんと。
世界が、暗く沈む。
雪だけが、浮かび上がる。
その中に、二人だけがいる。
二人は、一つの世界の中で、繋がっている。
俺は、その胸に都を導く。
強く、強く、強く。
折れてしまっても構わない。
都がいる、都がここにいる、それを確認したくて。
都を、離したくなくて。
離したら、どこか遠いところに行ってしまう気がして。
俺は、強く、都を抱きしめた。
白い世界の中で、また明日と言い合う。
名残惜しく、その指をいつまでも触れ合わせて。
指が、離れる。
一瞬、心が不安にかき乱されそうになる。
負けないように、俺はおもいきり笑顔を作る。
「明日な」
「はい」
都は手を振りながら、一歩、後ろにさがる。
「大丈夫ですよ」
都が笑う。
「私は、明日もちゃんと来ますから!」
そして、自分のあるべき場所へと、帰っていった。
「………都」
唇の感触がまだ残っている。
初めてからめた舌の感覚。
胸が高鳴る。
悪くない。
どう歩いて帰ったか、覚えていない。
気がつけば自分の部屋で、丸まったティッシュが転がっていた。
馬鹿か、俺は。
だが、都の言葉は不思議と俺を安心させた。
『大丈夫ですよ。私は、明日もちゃんと来ますから』
都は、俺の痛みを全て知っているような気がした。
それだけじゃない、俺が思ったこと、俺が感じたこと、俺の全てさえ知っているような。
普通なら怖がるのだと思う。
だが、俺はそうじゃない。
それも一つの欠けていることなのかもしれない。
欠けた自分。
俺はどれほどのものを無くしたのか。
もしかしたら。
そこまで考えて、やめる。
その考えに、意味はない。
しかし、そこに『レッテル』が浮かび上がってくる。
俺の人生を一つの方向に結びつけた、忌み嫌うべきもの。
今は感謝したいくらいの特別なもの。
レッテルによって、ここまですれなければ、俺はシンや都に会うことはなかったのだから。
二人の時が動き出す。
その出会いはまるでドラマみたいだったね、と二人で笑いあう。
駅の近くのファーストフードに行って、季節限定のハンバーガーを食べる。
新芽が地面から出てきているのを見て、もうすぐ春だねと囁きあう。
大人から見たら、どれほど稚拙な交際に見えるだろう。
だけど、俺たち二人にはそれだけで十分で。
普通の高校生なんて、こんなもの。
そして、俺は今、普通の高校生と同じことをしている。
望んでも手に入らなかった生活。
それが、今、ここにあるのだ。
「何かいいことでもあったんですか?」
くすり、と都が笑う。
「嬉しそうな顔をしてましたよ」
「ああ。都といれることが嬉しくてな」
「もう! いつからそんな口がうまくなったんですか」
頬を赤く染めた都はかわいい。
その小さな口に、アップルパイが消えていく。
「今日はいきなり寒くなりましたね」
「そうだな……昨日が暖かかったからな」
「ですね……また暖かくならないかな」
「都は暖かい方が好きなんだ?」
「はい、好きですよ。春とか、大好きです」
「そっかそっか。俺も春は好きだ」
「あれ、前、冬が好きだって言ってませんでした?」
「都といたら春が好きになった」
「もう、さっきからそういうことばっかり」
「あっはは……」
厳しかった冬の寒さは過ぎ去っている。
じょじょにやんわりと包み込まれるような春の暖かさが、世界を穏やかにしていく。
まだ残る寒さも、ファーストフード店内には届かない。
目の前に都がいて、笑っている。
春が、近い。
学校生活にも、変化が訪れた。
嘔吐感しかなかった苦痛も緩和され、教室にいる時間が多くなった。
黒板に書かれていることをノートに写すなんてこともやった。
分からないことをクラスの人間に聞こうとしたりした。
初めはとまどったクラスメイトも、次第に俺からの質問に答えてくれるようになった。
『何を今更。お前なんかが勉強したって、無意味だ』
そんな視線も気にしない。
……やりたかったんだ。
英米文学をいそしみ、知的な友人と知的な会話を繰り広げることを。
……目指してたんだ。
ピアノを演奏したり、哲学を学んだり、美術館に行ったり。
……届きそうなんだ。
都に出会って、俺は変わり始めることができたんだ。
教師からの扱いはあいかわらず冷たい。
だから、あえて職員室に通ってみる。
悪いことをしに来たんじゃない、勉強を教えてもらいにきたんだ。
それなら、追い出すことはできない。
たまに職員室から放り出されたりしたがくらいついた。
これだけ熱心なんだと、伝えるために。
自分の夢のために。
誇らしげにかざしてた『孤独』という名の陳腐なプライド、『ワル』という名の形無きレッテル。
それは、つまり全て自分から逃げるための堕天使の羽にすぎなかった。
悲劇のヒーローを演じるための要素でしかなかった。
俺は弱かった。
全てを人のせいにし、レッテルのせいにし、自分のせいだとは思わない。
余裕が無く、いつも苛立ち、冷めた目でしか物事をとらえられない、哀れな存在。
本当は、変わろうと思えばいくらでも変われたのだ。
だから変わる。
これからスタートする。
夢にむかって。
『夢があるんです』
そう言った都が驚くくらい。
「大学に、行こうと思うんだ」
大学。
専門的なことを学びたいわけじゃない。
勉強がしたくなったのだ。
否、したかったのだ。
大学なら、そんな環境がある。
少しでも上の大学へ。
環境の整った大学へ。
お金なんて無いから、奨学金とバイトで学費を稼いで、勉学に真摯にうちこむ。
大学の友達と飲んだり、テスト近くなってひいひい言ったり。
車の免許をとって、休みの日には都と遊びに出かけて。
「おもしろそうなキャンパスライフですね」
都も一緒に思いを馳せてくれる。
「瑠汐さん、とても楽しそうに話すから、聞いてるこっちも楽しくなります」
都は自分のことのように喜んでくれた。
とても嬉しそうに笑ってくれた。
だから、俺も自分に自信をもって、生きていくことができた。




