#4-3 灰色の町、紅の彼女
目が覚めると、乱雑にちらかった自分の部屋だった。
空になったカップ麺のカップが部屋の隅で山積みとなり、外装のビニールもあちらこちらに飛び散っている。
うっすらと暗い。
ひびの入った目覚まし時計を手にすると、しかしすでに八時になっていた。
もともと、この部屋は日当たりがよくない。
布団をひっぺ返したら、キノコが生えているかもしれないほどに。
壁にはシド・ヴィシャスやアグリス・ジェナーのポスターが貼られている。
好きというわけではない。
ただ、その廃頽的で排他的なシンボルや、何もかもを否定しているような孤高の目に強く心を惹かれたのだった。
今日も彼らは訴えかけている。
明日より昨日が美しいと。
首元の南京錠が、キンと光る。
「……行こう」
学ランを纏う。
埃っぽく、思わずむせそうになった。
緑は翳り、木々は厳しい冬に向けて備えはじめていた。
今年の雪はまだ降りそうにもない。
自分一人分の足音が聞こえる。
たった、一人。
広場に着く。
まだ、日は沈まない。
あと1時間くらいだろうか。
今日はいつもより早く来すぎてしまった。
「………」
手の甲にできた、真新しい生傷を舐める。
そこまで痛くないのだが、じんじんと浮かび上がるような痛みに苛立ちが募る。
「………」
あたりを見渡す。
昨日の女の子は来ていないようだった。
「まあ、いないならいないで、構わないんだけど」
ふっと目を閉じると、昨日よりもさらに冷たい風が、手足を掠めて去っていった。
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どうして、と彼女は言った。
涙ぐんだ目で、俺の顔をとらえながら。
『どうして、そんな寂しいことを言うんですか?』
『俺に言われても……』
『自分が、嫌い、なんですか?』
『よくわからないな。考えたこともない』
『………』
彼女は目尻を指でそっとすくうと、さっきよりもしっかりした目で言った。
『何か、辛いことが、ここにあったのですか? もしくは、楽しかった想い出とか……』
『――別に』
『じゃあ、なんで……』
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「そんな淋しそうな目をしているんですか?」
ふっと、後ろからかけられた声で現実に戻った。
「……今日も来たのか」
「はい、来てしまいました」
「呆れたやつだ」
俺は彼女の方に向き直る。
「昨日は、逃げられてしまいましたから。今日は逃がしません」
「アホか。そんなこと……」
そう言って、俺は口づまってしまう。
「………?」
「なんでもない。今日はまだ、時間あるみたいだな」
「そうですね。昨日は、結構ギリギリの時間に来てしまいましたから」
彼女が俺の隣に移動して、そっと腰をおろす。
俺も腰をおろして、街を眺める。
灰色の街だった。
つまらなくて、何もなくて、悲しいことばかり起こって……。
だけど、ここは、気持ちよかった。
自分でもわかる。
あの赤い時間が来るのを楽しみにしていることを。
傷ついた心が高揚していくことを。
悲しいことが起こるとここは俺を無言で癒してくれる。
そんな日に見る夕焼けはなぜかとても赤くて、綺麗で、眩しかった。
万物が真紅に燃えあがる。
「興奮、しているんですか?」
「そう見えるか?」
「はい。なんだか、無邪気な子供みたいです」
「……心外だな」
その場で横になる。
空が目の前に広がっている。
霞ゆく空が、悠然と流れている。
「そういえば、名前、なんて言うんですか?」
視線を彼女に向ける。
「俺の名前?」
「はい。名前知らないと、呼ぶ時に不便ですから」
「……ああ」
視線を空に戻す。
そこにある雲が、シンの顔になり、じょじょに崩れて変哲のないただの雲になる。
「俺の名前は……」
「名前は?」
「無い」
「……え?」
気の抜けた声で、彼女はがくんと力なくした。
「なんですか、それ。名前くらいみんなあるはずです」
「名前はある。素性の知れない人間に教える名前は無いだけだ」
「素性……?」
彼女は一瞬、困ったような複雑な顔をしたが、すぐにぽん、と手を叩き、風にのせて微笑んだ。
「私は、この街の……ほら、あそこに見える高校の1年生です」
「……ふぅん」
「最初に自己紹介しときましょうか?」
「んー……やりたいなら」
はい、と彼女は言うと、髪をとかし肩や腕をはらった。
「私は都。水野 都と言います」
「みやこ……ね」
「あなたは、なんてお名前ですか? 私、名乗りましたし、素性も言いました」
「……ったく、しょうがないな」
コキコキと首を鳴らす。
「須藤 瑠汐。お前と同じ、あの高校の2年生だ」
「そうなんですか……すごい偶然ですね」
「そうだな。あんま学校の連中はこの辺にいないし」
「先輩だったんですね。ちょっと、びっくりしました」
都は今にも跳ね上がりそうなほど喜んでいた。
「……あだな、あるのか?」
「え? 私のあだなですか?」
「ああ。あればの話だけど」
「んー……みーちゃんとか、みみとか、そんな感じで呼ばれてました」
「――そっか」
「先輩にはあるんですか?」
「先輩はやめてくれ。そんな風に呼ばれるほどできたやつじゃない」
「なら、るっしーとか」
「俺がそんな柄に見えるのか、お前の目には」
「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」
「……瑠汐」
思わず、眞美にシンという呼び名を聞いた時のことがフラッシュバックする。
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『あんたって言い方、そろそろやめてくれない?』
『じゃあ、眞美?』
『んー……それもなんかな』
『なんて呼べばいいんだよ、そしたら』
『シン』
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「瑠汐さん、ですか……」
「ああ、それでいい。それがたぶん一番ましだと思う」
「うーん、瑠汐さん……」
都は人差し指を頬にあてながら、うんうんと唸った。
「どうした?」
「いえ、どこかで聞いたことある名前だなと思いまして。瑠汐さん、学校で何か委員会とかしていますか?」
「……いや、何も」
これほどの問題児の名前を、あの陰険な教師どもが口にしないはずがない。
おそらく彼女はそれを聞いたのだろう。
たぶん、『クズ』だの『ゴミ』だのというニックネームと一緒に。
「では私の思い違いですね。すいません」
彼女がぺこりと小さくお辞儀をする。
「それにしても、珍しい名前ですね。なんだかうらやましいです」
「いや、別にそんな……」
言いかけて、やめる。
「………?」
「なんでもない。気にするな」
「あはは……そうですね」
都は笑った。
「そういえば、その胸に光ってるの、かっこいいですね」
「これ?」
首元にさがっている南京錠を指で吊り上げてみる。
「南京錠ですかあ。なんだか、何か大切なものを封印しているみたいですね」
「そうだな……そうかもしれない」
「昔、同じように首に南京錠をしていた人いませんでしたっけ。ロックみたいな曲歌っている人……」
「シド・ヴィシャスのことだな」
ポスターと同じポーズをとってみる。
「そうそう、そうです、その人です! 友達が好きで、部屋にいっぱいポスター飾ってありました!!」
「それはある意味、変態だな」
乾いた笑みがもれる。
「瑠汐さんの南京錠、何を守っているんですか?」
「守っている?」
「はい、でなきゃ鍵なんてかけません」
都の目が、真剣なそれにかわる。
「恐れているんですか? 自分が変わることに。想い出が薄れることに。時が流れることに」
「――そんなこと」
「それとも、それは自分を束縛するためのものですか? 縛られた人間だから?」
「……何が、言いたい」
「あなたは、自分を偽っています。それでいて、今の自分を嘆いている。違いますか?」
「………」
山端が、じょじょに赤くなっていく。
「あなたは心がどこか欠けています。けっして正常なそれじゃない。でも、壊れているわけじゃない。ただ普通よりも世界に矛盾しているだけ。自分自身に矛盾しているだけです」
「………っ」
「ここの夕日を好む人に、健常者はいません。あまりに赤すぎるからです。ここが、この場所から見える憧憬が、血塗られていると錯覚するほどに、紅いからです」
じょじょに、全てが赤くなっていく。
「でも、瑠汐さんはそれを美しく思う。何もかもが赤いから。猟奇なそれとは違った赤を、この中に求めています」
言葉が出てこない。
「瑠汐さんは、実はとても臆病なんです。そして恐がり。寂しがり屋。自分の気持ちを他人に伝えるのが下手なんですね。だから独りを好む。独りなら、誰かと接触しなくてすむし、意見を伝える必要もない。
でもそれは瑠汐さんが望んだ瑠汐さんじゃない。本当は独りになんてなりたくはないんです。誰かと一緒にいたい。あなたはこの夕焼けの中に、他人との繋がりを求めているんですよ。
でも、それを伝えることはできない。伝えようと、努力はしているんですけどね。
だから瑠汐さんは今のままでいるし、今のままでいたくないんです。『ワル』という扱いと独りでいるということは、自分を主張するには十分目立っていますから。
誰かに押しつけられた価値観を否定しつつ、その価値観に準ずるしかない。自分はひどく弱い人間なんだって、そう責め続けている。
さらに自分を理解してくれる人間を求めている。でも、人間は他人を理解することなどできないことを知ってしまっている。だから、求めていると同時に諦めてもいる。
瑠汐さんは様々な矛盾を自分の中で抱えています。でも、それは誰だって同じ。人間は矛盾する生き物なんですから。ただ、瑠汐さんはそれを一層強く感じてしまう節があるだけです」
都がふぅ、と一呼吸すると、どっと、見えない何かが俺の肩にのしかかってきた。
「近からずも、遠からずってところですかね」
「鋭い洞察力だな」
「いえいえ。おかげで私も同じような扱いを受けてますけどね」
「……というと?」
都が空を仰ぐ。
「私、人の痛みが分かってしまうんですよ。心は分からないのに。だから、その人がどんな辛いことを抱えているのかとか、少しは分かってしまうんです」
あはは、と都は笑った。
「障害者と同じ扱いですよ、私。まあ、いろいろとありまして」
「――障害者か」
「私も、欠けているのかもしれませんです。こうして、瑠汐さんとお話しているんですから」
「……まあ、普通なら話しかけてはこないな」
のしかかる圧力が軽くなる。
「どうして、俺に話しかけようと思った? 俺の痛みを知ったからか?」
「うーん……そうかもしれないし、そうじゃないからかもしれないです」
「というと?」
「私にも分からないです。ただ、寂しそうな目をしてるなって、そう思ったから」
どうしてでしょうねぇ、と都は頬を人差し指で掻いた。
世界が、赤く、染まる。
「……みんな、赤いですね」
二人で夕日を見つめる。
「そうだな……赤い」
ここに他人との繋がりを求めているのか。
他人との共通点を欲していたのか。
だから涙しているのか。
ごらん、世界は、美しい。
「あの、瑠汐さん……?」
「うん?」
「私のこと……怖く、ありませんか?」
横目のまま、都が尋ねてくる。
「――あまり怖くはない。怖い理由がない」
「でも、私、瑠汐さんのこと、いろいろ昔から知ってるかのように言っちゃいましたし……」
「一つの真実の姿だ。それに、知られたくないことじゃなかったし。むしろ自分の心を少しなりとも整理できたと思う。そういった意味では感謝したいくらいさ」
「……そうですかぁ」
都はほっとしたのか、目から一筋の涙がこぼれた。
「真剣な顔したり、笑ったり泣いたり、大変だな」
「そんなこと言わないでくださいよ、もー」
都は泣きながら笑い、笑いながら泣いた。
どうして泣いているのか――俺には分からない。
首元の南京錠が、キンと泣いているような気がした。
「あはは、ちょっと恥ずかしいところを見られたです」
「気にするな。泣きたい時には泣けばいいんだ」
「瑠汐さんは泣いているんですか?」
「……泣きたいと思ったことがない」
「うわ、クールっていうかハードボイルドっていうかワイルドっていうか、そんな感じですね」
「二番目は明らかに違うと思うぞ、うん」
あたりはすでに暗く、静寂が漂っていた。
今日はもう、夕焼けは見れない。
「でもよかったです、瑠汐さんとこうしてたくさん喋れて」
「そうか?」
「ええ。いろいろ知ることもできましたし……」
「何をだ?」
「わっと。なんでもない、なんでもないですよ!」
明らかに挙動不審である。
「――ま、いいけどな。そろそろ帰るか。送っていくぞ」
「うーん、そうしてもらいたいですけど、家がすぐ近くですので大丈夫です。一人で帰れます」
丁重に断わられてしまった。
「じゃあ、もう帰りますね。ではでは、また!」
敬礼すると、都は笑顔で走り去っていった。
「……都、ね」
肺から押し出される吐息が白く冷たかった。




