官兵衛の関ヶ原-その4-
官兵衛:「……久しぶり。」
その頃、九州の官兵衛は石垣原で大友義統を撃破したのち
これと言った活躍を示すことも無く、
豊後の国でフン詰まりの状態に陥っていたのでありました。
官兵衛:「……と言っても石垣原から2週間も経過していないのだぞ。」
「……と言うよりも。」
石垣原の戦いから6日後の9月19日。
富来城攻略中の黒田の船が、
大垣城在陣のため不在の城主・垣見一直からの密書を携えた飛脚船を拿捕。
その場で
官兵衛:「え!?家康が勝ったの……。」
の事態に接するのでありました。
その後、後を追うように送り付けられたのが嫡子・長政からの自慢話。
長政:「父上。私の調略により毛利秀元の足止め。
並びに小早川秀秋を裏切らせることに成功し、
わずか1日にして三成ほか主力部隊を壊滅させることに成功致しました。」
官兵衛:「1日で終わったことは敵の船とっ捕まえた時に知った。知ってた。」
「……でもまだ大坂城と毛利輝元が残っているだろ。」
長政からの次なる便りが届く。
長政:「小早川隆景殿が亡くなられてから父上共々懇意にしておりました
毛利家重臣・吉川広家殿。
広家殿には先の毛利秀元足止めの際にも御活躍して頂いたのでありましたが、
その広家様を通じまして今回。
大坂城を無血開城することに成功致しました。」
官兵衛:「……あいつ俺と違って人付き合いが上手だからな……。」
「……もっとも俺の時は、
自分が生き残るだけで精一杯だったから……。
かつての恩義に縋りつくようなことは出来なかったし、
仮に出来たとしても最後は……。」
「亡き太閤殿下の平和の時期があったことが長政には幸いしたのだろうな……。」
「ん!?……まだ続きがあるぞ……。」
長政:「……そうそう忘れておりました。
秀秋の裏切りばかりがクローズアップされております関ヶ原でのいくさでありますが、
私にも功績がありまして。
何だと思います?
……実は私。黒田長政は、此度の実質的な総大将であります
石田三成の家老とも言うべき重鎮・島左近をこの手で討ち取ったのであります。」
官兵衛:「……俺は家臣に助けられ、やっとこ義統を追い払うことが出来ました……。」
長政:「これらの功績により私は、
内府(徳川家康)殿が私の手を両手で握り締めながら
黒田家子子孫孫の罪の全てを免除することを約束する御墨付きを頂戴したのであります。」
官兵衛:「……凄ぇな。あいつ……。」
「……でも……。」
「……悔しいな……。」
官兵衛の返書
『家康はそなたのどちらの手を握り締めたのであるか?』
長政:「右手でありますが……。」
官兵衛の返書
『その時、左手はどうしていたのだ?』
と返書を送り付けると同時に
立花宗茂の護衛のもと
なんとか九州に辿り着いた島津義弘の船を焼き沈める
と言う
八つ当たりとも受け取ることの出来る所業を敢行するのでありました。
父の心情を察した長政は
『黒田家のことを内府殿は粗略に扱わない。
と申しておりますが
それはあくまで我ら黒田家が徳川家に御味方している間のことであります故
身勝手な行動は極力控えますよう宜しくお願い申し上げます。』
官兵衛:(……そんなん言われんでもわかっておる。)
(……と言うよりも、身勝手な行動などもはや取ることなど出来ぬ状況に
九州はあるのだぞ……。)
関ヶ原から2週間経過した九州の状況は?
と言うと
最も高い石高を有する島津家は
家老・伊集院家との騒動が燻っており、
再三の義弘からの出兵要請に応じることが出来なかったため
主力は本貫地である薩摩・大隅に日向の一部に温存されたまま。
その島津騒動の際、裏から伊集院サイドと繋がっていたことがバレ、
家康から勘気を被っていた加藤清正は
会津遠征に同行することが許されなかったこともあり、
島津同様、戦力は肥後北部に集結した状態で維持。
その他秀頼(家康)の要請に応じ会津に向かうも
途中。秀頼(こちらは輝元=三成)が設けた関所に行く手を阻まれ、
新たに出された秀頼の詔。家康打倒に呼応する形で兵を展開するも、
大津城の攻略の翌日に関ヶ原の戦いが勃発。
現地・関ヶ原に到着する前にいくさが終わってしまったため
特に損害を出すことも無く本国に帰還した
立花宗茂や小早川秀包などの筑後勢。
当初。毛利と共に行動するも父・直茂の指示により戦線を離脱した肥前の鍋島勝茂など
肥後南部の小西行長を除き
ほぼ無傷。
更に豊前の国の対岸に位置する中国地方には
こちらも無傷の毛利家が帰国。
官兵衛:(……この状況下で切り取り勝手と言われてもな……。)
(……もはや敗軍の城を受け取りに行くようなモノではあるのだが……。)
と、北九州行脚を始める官兵衛でありました。
丁度その頃。
吉川広家のもとに黒田長政からの書簡が届くのでありました。