島津の退き口-その2-
(……なぜこのようなことになってしまったのか……。)
慶長5(1600)年9月15日午後2時。
味方が軒並み敗走していく中、
独り関ヶ原の只中に取り残された島津義弘は呟くのでありました……。
(本来であれば私は、内府(家康)の要請に応じ、
……伏見城に入っていたハズなのに……。)
(なぜ私は今。その家康に命を狙われるハメに遭ってしまったのであろうか……。)
(……鳥居元忠に拒絶され……。
と、のたまわったところで殺気立っている今の状況で
聞く耳を持つものなどおらぬであろうし……。)
(とりあえず落ち着くまでは。
と逃げようにも真裏の北国脇往還に土地勘は無い……。)
(近江に入れば味方がいるも。
通り道である山中村は既に家康方に制圧された模様……。)
(……逃げることも許されぬのか……。)
(……もはや最期か。)
……と家康本陣へ割って入り討ち死にすることを決意する義弘。
そこに待ったを掛けたのが島津豊久と安多盛淳。
なんとしてでも義弘だけは国元に戻さなければ面目が立たぬと説得。
義弘の翻意に成功するも
ここで問題となったのが
……どうやって?
『伊勢路が宜しいかと。』
と進言したのは後醍院喜兵衛。
伊勢路に出れば大坂へ出る道が開け、
今回のいくさの主犯格たる石田三成が伊吹山中へ去っていった。
=家康方の追撃がそちらへと向かう
その逆方向へ逃げることが出来れば
薩摩へ戻る段取りは幾分か楽なものとなる。
確かにそうなのではありますが
そこで湧いて来る素朴な疑問。
伊勢路に出るためには
今、島津を取り囲んでいる家康方諸将を突破しなければならない。
家臣一同息をのむ中、
『我が意を得たり』
と即座に断を下したのが
大将である島津義弘。
島津豊久を先頭に島津は1つの塊となり
敵中突破を試みるのでありました。
人に触れれば人を斬り、
馬触れれば馬を斬る。
たとえそれがどんな相手であろうとも容赦はせぬ。
動く凶器と化し伊勢路へと進む島津軍。
その島津軍を最初に見つけたのが福島正則。
宇喜多隊を撃破するなど勢いに乗る福島軍。
一方、戦い敗れ退却を試みる島津軍。
心境の差がモロに出るこの場面で正則が下した決断は。
(……追うな……。)
島津の強さを知らしめて来たこれまでの実績が活き、
指示に従わなかった福島正之の追撃を受けるも
福島隊全体の攻撃を回避することに成功した島津軍。
その島津軍の前に次に現れたのが
徳川家康自らが率いる3万にも及ぶ親衛部隊。
ここで大坂夏の陣における真田幸村の……。
が発生しても不思議では無い場面なのでありましたが
島津の目的はあくまで当主・義弘を無事薩摩へ送り届けるためであったことに加え、
3万居るとは言え
その大軍を動かすことが出来るのは家康ただ1人であった。
威圧感を与えることは出来ても。
実戦には不向きな構成であった大き過ぎる部隊であったことが
島津には幸いし、
無事。家康の横を通過。
このまま伊勢路へ脱出することが出来るのか。
となったその時。
このまま逃がしてなるものか。
島津の兵何するものぞ。
と追い掛けて来たのが
関ヶ原に間に合った徳川の独立部隊である
井伊直政に松平忠吉。そして主力を嫡男忠政に預けている本多忠勝の三将。
これに対し島津軍は豊久以下主立った武将が自らの命と引き換えに相手を足止めする
捨て奸を敢行。
全滅したら次の殿軍。その殿軍が全滅したらまた次の殿軍を。
と数人ずつ
義弘を死地から脱することのためだけに踏み止まり、
更に彼らの得意とする鉄砲により
井伊直政と松平忠吉を狙撃。
本多忠勝の馬を討つなど
家康の指揮官クラスを行動不能とすることに成功した島津軍は
80前後の兵に激減するも
無事。義弘脱出のミッションを成功させるのでありました。
そんな危機的状況にあった義弘でありましたが
こんな時でもないと出来ないことでもあるので。
とばかりに
『今回図らずも敵味方に分かれることになってしまいました。
私は戦いに敗れ。今、内府殿の横を通り薩摩へ戻る途中であります。
私の心境につきましては、後日改めて。』
と義弘の今の気持ちを使者に託し、
家康の陣に向かわせるのでありました。
こうして関ヶ原から家康方を除く全ての勢力が居なくなったのでありましたが
これを持って家康の勝利が確定した。
というわけでは
まだ無いのでありました。