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島津の退き口

関ヶ原の戦いについて

改めて20年以上前に購入した資料などを

読み返して居て思ったことなのでありますが。

三成による

あれだけの備えが、

たった独りの裏切りによって、あっという間に……。

と言うことは

良くあることではありますので

このこと自体は特に気にならなかったことなのでありましたが

昔から語られています

笹尾山の大筒の話が事実であり、

かつ14日の夜の間に

大垣城から南宮山を南へ迂回しながら関ヶ原に到着し、

関ヶ原の北側に位置する各要所に

宇喜多秀家に小西行長。そして石田三成を配備することが出来た。

と言うのが本当の話であったとするならば

石田三成は家康と相対する際し想定していた防衛ラインの1つに

関ヶ原も考慮の内に入っていた。

小早川秀秋の行動によりクローズアップされた松尾山同様。

笹尾山や南北天満山。更には近江に通じる山中村も要塞化されていた。と……。

故に小早川の裏切りが発生するまでの間。

ほぼ全勢力を投入した家康を喰い止め、押し返す場面も生じていた……。

と見るほうがむしろ自然なことなのかも……。

さすがにあの時代。大砲抱えて数時間で大垣から関ヶ原へ。

それも遠回りして辿り着くことは出来なかったと思われますので……。


とは言え小早川秀秋の裏切りにより壊走する関ヶ原の三成方の中で

唯一無傷のまま敵中で孤立することを余儀なくされたのが


島津義弘。

ここで島津義弘が何故今。ここにいるのかについて触れてみようと思います。

島津義弘は薩摩・大隅両国の全土及び日向の一部を領する島津家の当主。

とは言え実質上のトップは兄・義久であったこともあり、

権限らしい権限を義弘は持っていなかった。

加えて毛利などと同様。

豊臣秀吉の介入により

秀吉のことを快く思わないもの(主に薩摩本国)と

秀吉やその側近と誼を通わせていたもの(主に大坂駐留)とに家臣団が分裂。

そこに追い打ちをかけたのが

関ヶ原の前年に発生した

義弘の子・忠恒による

豊臣の島津攻めの際。

島津家降伏のまとめ上げに奔走し、秀吉の信任を得。

都城8万石を領するまでになった重臣・伊集院忠棟の殺害。

主家・島津家のプライドを踏みにじる態度に我慢ならなかった。と……。

この事件により

伊集院の家臣が伏見の島津邸を襲撃するのでは?の風評が流れ。

国元では忠棟の子・忠真が都城において叛乱。

この危機に手を差し伸べたのが徳川家康。

この間。実力第1位の徳川家康と

豊臣家の大番頭・石田三成との仲が険悪となり、

前田利家の死を契機に三成は中央政界から追放され、

迎えた会津攻めの際。

島津義弘は会津へ下向する家康を山科まで見送るのでありました。

その時、家康から義弘に託した伝言が

『伏見城に何かあったら助勢してくれ。』

つまりこの段階で義弘は既に三成の挙兵を予見することが出来ていた。

その後、三成が挙兵。

鳥居元忠籠る伏見城を攻めた際、

家康の要請通り義弘は伏見城へ入ろうとするも。

元忠より

……まさかの拒絶。

その時、義弘の手元にいた兵はわずか200。

行き場を失った義弘。

これが小早川秀秋のように石高に見合った兵力。

おいそれとは手を出すことが出来ないだけの数を有して居れば

まだ良かったのでありましたが……。

さすがに200だけでは日和見を決め込むわけにもいかず。

三成方に与することに相成った。と……。

とは言え200では何もすることが出来ないため

国元へ援兵を求めるも

和睦が成立したとは言え、

忠真がいつ再び反乱を起こすかわからない状況であったため

島津本家から大部隊を派兵することが出来ず。

日向佐土原の島津豊久の800を除いては

2、3人ないし5、6人

と言った数人ずつ

思い思いに辿り着く有様。

結果。関ヶ原の地で家康と相対した三成方随一。

70万石以上を有する島津義弘が

この日動員することが出来た兵数は

わずかに1600。

布陣したのが北国脇往還のまさに街道筋。

北の笹尾山には石田三成。

南の天満山には小西行長に宇喜多秀家。

と言った家康方諸将との激闘が繰り広げられている間の

特に高台がある。

と言うわけでも無い場所に

わずか1600しか居ないにも関わらず

なぜ島津家は大勢決した午後2時の段階で

ほぼ無傷であることが出来たのか?


1つは家康方の

とりわけ豊臣恩顧の諸将のターゲットに

島津家が入っていなかったこと。

加えて島津家が日本で最も危険な部隊であったから。

それでも号して1600の小隊でしかありませんから……。

と狙いを定めても良いと思われるのでありますが、

彼ら島津が得意としている戦法の1つが

相手正面に小隊を配置し、

小勢とばかりに勇躍突っ込んで来た敵を

撤退するフリを(時には見殺しに)しながら後退させ、

相手を敵陣深く侵攻させたところで

三方から伏兵で持って迎撃する

『釣り野伏せ』。

(あの島津が……1600しか居ないわけはない……。)

そしてなにより島津は鉄砲の扱いに長ずる一族である。

(……いつどこでなにをしてくるかわからない……。)

そんな危険な。

今回のいくさにおいてさして重要人物でも無い。

すぐ横には実質的な総大将である石田三成がいる中。

向こう(島津)がこちらに刃を向けているわけでは無いのであるから

(……寝た子を起こす必要は無いな……。)

と放置された島津義弘は結果。

敵中の中、取り残されるハメに遭うのでありました……。

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