9月14日夜
大垣城に居る石田三成のもとに
『小早川秀秋!松尾山に入城する!!』の報が入る。
三成:(……あいつは何をしようとしているのか?)
三成ほか5名の連著により提示した破格とも言える好条件に
秀秋が呼応したもの。
と受け取った三成でありましたが
三成:(……にしても何故我が方の伊藤(盛正)殿が陣取る松尾山を……。)
と既に家康と通じていることを疑おうともしない三成は
秀秋の行動に不審感を抱くも。
三成:(あれだけの大部隊があの要害に入ったのであれば
西の備えを気にする必要も無いか……。)
とひとりごちしていたところに
今度は赤坂に居る家康の部隊が
三成ほか前線拠点である大垣城を無視し、西進を始めた。
との報せが三成のもとに舞い込むのでありました。
その少し前。
小早川秀秋が松尾山を首尾よく制圧したことを知った家康は
共に従軍していた臨済宗の禅僧・閑室元佶に易による占筮を行わせ、
『大吉』
と出たのを見た家康は
自分の手となり足となる指揮官クラスのほぼ全員が未だ到着していない。
=家康にはどうすることも出来ない不確定要素を抱えてはいるのであるが
『勝負を賭けるのは今しかない。』
と出陣を決断。
大谷吉継をエサに三成を大垣城から引きずり出すべく
東山道を西へ向け兵を進めるのでありました。
三成:(……家康が動いた……。)
(東山道を西へ向かった……。
となれば
家康が狙っているのは……。)
ここで三成ほか大垣城の諸将が採った行動は?
と言いますと
赤坂の宿営地から東山道を西へ行く家康が
関ヶ原に駐屯している大谷吉継と武力衝突しているところを
赤坂よりやや南東に位置する大垣城の主力部隊が
家康の背後を襲い掛かり挟み撃ちにする。
と言った方策は採らず。
毛利秀元らが陣取る安全地帯でもある南宮山南麓を迂回する形で
先回りし、大谷吉継との合流を目指したことから考えますと
三成:(……このままでは吉継が危ない。
……秀秋の兵を持ってしても家康を防ぎ切れるとは限らない。)
と家康の進路から外れた南宮山の南から
南宮山と松尾山の間を通り
関ヶ原へと兵を進めるのでありました。
その頃、関ヶ原にいた大谷吉継は
吉継:(……厄介な奴が入って来たな……。)
と自陣を構えた山中村から見上げた位置にある
松尾山の小早川秀秋の一隊を眺める吉継。
吉継:(奴単独で、味方である伊藤盛正を追い払ったわけでは勿論ない。)
吉継:(……裏で糸を引いているのは……。)
(……と言うことは家康が動いて来る……。)
(……だが近江に通じる東山道の要を離れるわけには参らぬ。)
(……ここで時を稼ぎ、大垣の部隊とで挟み撃ちを狙うほかないか……。)
と北陸において前田利長を翻弄した時から行動を共にして来た
脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠に赤座直保ら諸将を松尾山の麓。
秀秋が我が方に襲い掛かって来るならここ。
と言うポイントに配置し、
自らは家康の進撃に備えるのでありました。
家康方が関ヶ原に到着する前に
三成ら大垣城を出発した諸将は大谷吉継と合流。
挟み撃ちを考えていた吉継であったが
こうなったのであれば。
と吉継自らが抑えた東山道(中山道)のほか
関ヶ原から通じるもう1つの要路・北国脇往還を抑えるべく
三成ほか諸将は
より高所の場所を選び
急ごしらえで陣の構築に入るのでありました。
この間の三成の行動の中で
今後の戦局を左右することになる
失策を犯してしまっていることに
三成は
まだ気付いていないのでありました。