秀忠が居ない-その4-
真田信之(信幸)と信之の義兄=昌幸の義理の息子・本多忠政による
徳川と真田昌幸との和睦交渉は9月3日。
昌幸の助命並びに上田の開城を申し入れることにより決着。
(まだ本多正信が戻っておらず金欠に苦しんでいた)
秀忠は大いに喜び即座に昌幸を赦免。
上田の開城=蔵が開け放たれるのを今か今かと待っていたのでありましたが
……一向にその気配は無く……。
そうこうしている内に4日。
今度は潤沢な軍資金と兵糧を持った本多正信が秀忠と合流。
秀忠本隊は上田へと進出。
まず真田幸村(信繁)籠る砥石城へ向け、秀忠は幸村の兄・信之を進軍。
攻城側に兄が居ることを確認した幸村は戦わずして砥石城を放棄。
父・昌幸の居る上田城へと引き上げるのでありました。
これを受け秀忠は砥石城に信之を容れ、
本隊を上田城へと進め、領内にて刈田を強行。
阻止すべく城を出た真田の軍を徳川軍が迎撃。
算を乱し城へと逃げる真田兵を追う徳川軍。
上田の城もあとわずかの科野大宮社に
徳川軍が迫ったところで、突如として真田の伏兵が登場。
その後も一進一退の攻防が繰り広げられるも多勢に無勢。
耐えきれなくなった真田軍は上田城の中へと逃げ込むのでありました。
これを見て上田城へと雪崩れ込もうとする徳川軍。
そこへ上田城の北方、虚空蔵山の林の中から現れたのが
百姓・町人を交えた真田の一隊。
徳川軍の本営目掛け一直線。
彼らの銃声と鬨の声に驚いた徳川軍が足並みを乱したところに
上田城の大手門が解き放たれ、鉄砲が一斉に射撃され、
その背後から無傷で砥石を退いた幸村が出撃する。
昌幸・幸村真田親子の術中に嵌った徳川軍は大混乱の中、
為す術も無く討ち取られるのでありました。
9月5日から始まった上田城の戦いは
徳川軍が大量の兵力を導入したにも関わらず
攻め落とすこと叶わず
多大な損害を出した秀忠は8日。小諸城へと引き返すのでありました。
その翌9日。失意の秀忠のもとに
追い打ちを掛けるが如くもたらされたのが
父・家康が一週間以上前の9月1日の日に江戸を発ち上方へ向かったこと。
並びに秀忠も信濃のことは後回しにし、全軍率い上方へと進出するように。
との報せでありました。
家康の使者が秀忠のもとへ向かったのは家康が出発した時とほぼ同じ。
その日は、くしくも本多正信が小諸を発ち江戸へと向かった日。
その正信が戻って来たのが9月の4日。
しかもその間に正信は金策に励んでも居る。
一仕事をし、大量の物資を抱えてもなお
3日の月日で往復することの出来た道のりを
なぜ家康の使者は
軽装で。報せを伝えるだけの任務のためだけのために
9日モノ月日を要することになってしまったのか……。
小諸で金欠に陥ったとは言え
その問題は正信が帰還した4日の日には解決していたこと。
同じ速度で走ったのであれば
スタート地点が江戸の家康の使者のほうが
正信より早く秀忠のもとに到達することが出来たのは当然のこと。
道のりの全てが徳川領
と言うなんら行く手を阻むモノが何も無い。
もし正信より早く家康の指示を帯びた使いが秀忠のもとを訪れたのであれば
正信の帰還(軍資金の補充)と同時に秀忠は上田を無視し、
上方へと針路を取ることになったのは当然のこと。
ただ肝心の家康からの報せが秀忠のもとに届いたのが9月の9日であったため
上田において徳川軍は多大な損害を出すことになってしまった。と……。
踏んだり蹴ったりの目に遭った秀忠は
上田城攻めを勝手に始めた牧野康成を上州に配流する
と言う八つ当たりとも取ることの出来る処分を下し、
急ぎ上方へ向け兵を進めるのでありました。