秀忠が居ない-その3-
家康が江戸を発った
=家康が秀忠に上坂するよう使者を立てた9月1日。
この時、秀忠以下徳川の主力部隊は
既に諏訪に達した榊原康政を先頭に
続々と信濃に入国するのでありました。
その本陣たる秀忠の部隊が小諸に達したその時、
思わぬ事態が発生するのでありました。
本多正信
(以下正信):「(声を潜めて)……殿。」
秀忠:「どうした正信。浮かぬ顔をして。」
正信:「大変申し上げにくいことなのでありますが……。」
秀忠:「なんだ。申せ。」
正信:「……実は殿。……お金がありません。」
秀忠:「ん!!何!?カネが無いと……!!
我が軍はまだ(本貫地である)関東を出たばかりであるぞ。
いったい何故カネが無いと申すのか!?」
正信:「申し訳ございませぬ。
なにぶん我が徳川家は、
これまでこれだけの大軍を他国に出したことが無い故。
これまでの感覚で軍資金を用意していたのでありましたが
(上信国境に跨る)碓氷峠にあれだけ手こずることになるとは思っておらず。
……人足を徴発するだけのお金が底をついてしまいました……。」
本多正信
鷹匠として徳川家康に仕えた正信は、
三河一向一揆の際、家康と袂を分かち出奔。諸国を流浪。
その後、徳川重臣・大久保忠世のとりなしにより帰参。
本能寺の変後の混乱に乗じ進出した甲斐・信濃において
旧武田家臣の取り込みと両国の統治に功績を挙げるなど
内政面で徳川を支える存在となった本多正信。
そんな彼に家康は今回。
秀忠以下徳川主力部隊の金庫番を任せたのでありましたが……。
徳川家はこれまで。
自前で他国に部隊を動かした経験。
それも数万の部隊を一度に。は無く。
あったとしてもそれは全て織田・豊臣など他の勢力の要請によるものがほとんど。
同じことは東海道を進む家康にも言えたことなのでありましたが
家康が進む東海道筋の全ての大名が
小山の評定において
城にあるモノ全てを家康に提供することを誓ったため
何不自由無く西へ進むことが出来たのでありましたが……。
秀忠:「(敵領である)上田は目の前にあるぞ。
このままでは(秀忠の居る)小諸と
(先頭の康政が居る)諏訪を分断されることにもなり兼ねぬぞ。」
正信:「申し訳ございませぬ。
急ぎ江戸に戻り、金策し戻ります故。
それまでは仙石殿の好意に甘え、小諸のコメでなんとか……。」
正信は急ぎ江戸まで金策に走り調達。
再び秀忠の軍勢に追いついたのは9月の4日。
秀忠は3日間。小諸で地団駄を踏み続けることになるのでありました。
その間、秀忠は秀忠で
何とか局面を打開しようと考え、
正信が金策に励んでいた9月の3日。
唯一の障害とも言うべき上田の真田昌幸に対し、
昌幸の嫡男・信之と信之の義兄・本多忠政を使者に立て
昌幸との和睦工作に励むのでありました。