秀忠が居ない-その2-
まず触れなければならないのが
なぜ家康は隊を2つに分け、
東海道と中山道を並進することになったのか?
(……真田のこともありますが)
でありますが
理由は次の2つ。
1つは今は石田三成憎しの思いで家康方になってはおりますが
家康に天下を獲らせようとは考えていない。
あくまで家康は太閤殿下の遺児である豊臣秀頼をサポートする立場に過ぎない。
と考えている
福島正則以下。
家康の主君では無く、
あくまで上司と思っている豊臣恩顧の武将の信用度を見る必要があったこと。
彼らを先に東海道筋を上らせ、
もし日和見の態度でもとろうものなら
家康自らの親衛隊3万の兵力で持って……。
と福島らの後ろ(主に江戸)で控えさせておいた。
ただその3万の兵力は実戦向きのモノではなく、
あくまで敵味方。
どちらかと言うと味方に対し、
督戦を目的として。
お飾りとまでは申しませんが……。
の部隊でありました。
一方、残り実戦向きの徳川の主力部隊は?
と言いますと
件の豊臣恩顧の武将が尾張で戦っている間に
関東近辺の地盤を盤石なものにすべく信濃へ兵を進めて行く内に
戦況が変化し、
結果。東海道と中山道の2つの道を並進することになった。
これが1つ目の理由。
そして2つ目に来るのが
……実際。この意味合いのほうが強いのかもしれませんが
道路事情。
今でこそ新幹線に2つの高速道路。
更には在来線に国道1号線など
大量のヒトとモノを運ぶことが出来る東海道でありますが
400年と少し前の当時はまだ
五街道が整備されておらず
道路そのものが貧弱であったことに加え、
宿駅機能も
東海道の難所。箱根峠に宿場は存在せず、
専門の運送業者も居ない。
当時の軍勢は荷物を運ぶのは自軍以外の他人任せ。
そのため箱根のような難所を越えるためには
地元の住民を動員するしかありませんでした。
その箱根には芦川と言う小集落しか無く、
9月はコメの収穫期にあたるため
小田原や三島の農民を大量に導入することも出来なかった。
そのため7万近くにもなる徳川軍の全てを
1つの道で進むことは出来ず。
2つの道に部隊を分けざるを得なかった。
そのほうが効率的であった。と……。
そこで重宝される人材が
大量動員される兵力と物資を滞りなく運ぶ
団体旅行における「幹事」となるべき人物。
豊臣家においてその任務にあたっていたのが
石田三成。
……であるのに対し、
徳川家中において
その任にあたることの出来る人物が居なかったことが。
……その後、秀忠を苦しめることになるのでありました。