秀忠が居ない
9月14日。
自身の親衛隊など3万の部隊を率い、
満を持して対石田三成の最前線基地となっている
美濃赤坂に到着した徳川家康。
そこで家康が目にしたモノ。それは
(……秀忠は何故来ていない……。)
その頃、秀忠ら徳川主力部隊の面々は
美濃から遠く離れた信濃の国・諏訪湖の西岸に位置する
今の塩尻市を急ぎ上坂しているのでありました。
(……オレが出陣する時に、信濃のことは放っておいてよいから
東山道を西へ向かうよう指示を出していたハズなのに……)
と家康自らが出発する9月1日に秀忠に対し、使者を立てたにも関わらず
秀忠が赤坂に辿り着くことが出来ていないことに不満を抱く家康。
では何故秀忠は家康が使者を出してから
2週間の時間があったにも関わらず
未だ信濃の国・諏訪湖をひた走ることになってしまったのでありましょうか。
家康は秀忠に当初課していた任務は
先の小山評定において家康と袂を分かつことになった
信州上田の真田昌幸を打ち破り、信濃を平定せよ。
と言うモノでありました。
しかし先だって東海道筋を上っていた福島正則ら先遣部隊が
敵方石田三成のコーディネートが追いつかぬ内に尾張に帰還を果たし、
次なる係争地となった
美濃の岐阜城をわずか2日で陥落させることに成功するなど
予想以上に早く戦果を挙げたのを受け家康は方針を転換。
家康自身は東海道から。
主力部隊を為す秀忠以下信州平定部隊は中山道筋より
それぞれ上坂し、
一気に雌雄を決するべし。
……と秀忠に指示を出したハズなのでありましたが……。
……肝心の秀忠ら
家康から独立して働くことの出来る部隊が到着していない……。
手元でその動きが出来るのは井伊直政ただ独り……。
ここで秀忠の9月1日からの2週間を見てみようと思います。