官兵衛の関ヶ原-その2-
徳川家康と石田三成の主力部隊が美濃に集まり始めた丁度その頃。
九州・豊後にも動きあり。
これに先立つ慶長5(1600)年7月。石田三成挙兵に伴う動きの中で8月。
豊臣秀頼より鉄砲300丁を含む武具及び軍資金を下賜された
旧豊後の国当主・大友義統は居を構えていた大坂天満を離れ、
故地豊後へ向け出立するのでありました。
途中、官兵衛や旧臣・吉弘統幸の説得を受けるも聞き容れず。
逆に説得に来た吉弘統幸を引き連れ、豊後へ向け歩を進めるのでありました。
この豊後の地。
秀吉の九州征伐の折、大友家に安堵された地ではありましたが
その段階で既に半分は豊臣家の蔵入地(直轄地)になっていたこと。
その後の大友家改易に伴い全てが豊臣家の蔵入地。
ないしは奉行職にあたっていた武将に再分配された結果。
小領主が乱立。しかも豊後のほぼ全ての大名が今回のいくさで
三成方に与することに相なった。
……と言うことは
わざわざ豊臣家にとって大きな蔵入地である豊後の地を
大友義統に返す必要は無いように思うのでありますが
その豊後の地において
唯一徳川方に与することになった場所がありました。
それが杵築の地。
ここは大友家改易後。
石田三成の妹を妻とする福原長堯が治めていた場所でありましたが
三成失脚後。慶長の役における軍監としての行いを咎められ、
徳川家康の命により没収。
代わりに慶長5(1600)年2月。
杵築を治めることになったのが
丹後宮津の細川忠興でありました。
忠興の本拠地が丹後にあるため
豊後にある杵築は言わば飛び地。
そのため忠興は家臣の松井康之を派遣。
同年4月。杵築を巡察した忠興は、既に中津に戻っていた官兵衛と会談。
上方情勢を鑑み、今後に付いての対応を協議。
会津討伐の報を受けた忠興は
自身と主力部隊を率い家康のもとへ向かうと共に
本拠・宮津には最低限の兵力と
何かあるといろいろと面倒なことになる父・幽斎を。
残りの戦力を飛び地である杵築に配備するのでありました。
三成が挙兵すると同時に
豊後の地において唯一徳川方となった杵築の松井康之に対し、
豊臣家の奉行などから三成方に与するよう打診されるも拒否。
8月に入り、今度は大老・毛利輝元や宇喜多秀家の名で書状を発し、
臼杵の太田一吉の子。一成を使者として派遣。
城の明け渡しを要求するも拒絶。
そこに上陸したのが大友義統。
この報を受け、各地に散らばっていた旧大友家臣が合流。
一時的に大友軍が再興されるのでありました。
28日。島津家内紛の折。
老中である伊集院氏側を支援していたことがバレ、
家康より勘気を蒙り、
会津への同道が許されず。
国元である熊本で事実上。蟄居状態になっていた
(この段階では既に徳川方となることを認められていた)
加藤清正より義統上陸の報を受けた杵築城主・松井康之は戦闘の準備を開始するのでありました。
9月10日夜。大友義統は、吉弘統幸を大将に杵築城の攻撃を開始。
その前日の9日。豊後・立石の地に大友勢が陣を構えたことを聞いた官兵衛は
救援に向け、兵を動かすのでありました。
そこで官兵衛が思ったこと。
(……オレ。総大将になって指揮したことって……。あったっけか……。)