広家の本心-その1-
8月14日。福島正則の居城・清州城に入った福島ら東軍の先発部隊は
江戸に居る徳川家康からの軍令を待つのでありました。
しかし彼らのもとに家康から具体的な指示は無し。
業を煮やした正則は
「俺たちを捨て石にするつもりか!!」
と激怒。
娘婿である池田輝政と言い争いになるなど一触即発の事態に。
この報を受けて家康は19日になってようやく使者を派遣。
そこで使者に述べさせた口上は?
と言いますと
「お前たちはこんなところで何をやっておる。
とっとと結果を残して異心無いことを示せ。
そうすれば家康は兵を動かす。」
これを聞いた福島らは
「ならばお見せ致そう。」
と勇躍織田秀信籠る岐阜城とその周囲の城塞へ向け兵を進めるのでありました。
8月21日。
兵を2つに分けた徳川方先遣部隊の内、
池田輝政らの部隊は尾張葉栗郡から木曽川渡河を敢行。
美濃の羽栗郡への上陸に成功した池田隊は
翌22日。今の笠松町続いて今の岐南町において織田隊と激突し勝利。
織田秀信は岐阜城へ退却するのでありました。
一方、福島正則らの部隊は尾張中島郡からの渡河を計画するも
対岸の防備が強固であったため
更に南へ展開し、今の羽島市に上陸し、竹ヶ鼻城を包囲・開城に成功。
22日夜。池田隊と合流するのでありました。
残るは秀信籠る岐阜城。
美濃を代表する名城として知られる岐阜城でありますが
防備に関しては必ずしも……。
と言ったところがありまして
これまで幾度となく落城の憂き目に遭っていたことに加え、
家康方に岐阜城を居城にしていた時期のあるモノが居たことも手伝いましてか
攻城が始まった23日その日の内に岐阜城は落城。
三成にとっては最重要拠点の1つを失い、戦線の見直しを迫られることになるのでありました。
この間、家康は何をしていた?
と言いますと
清州城の忠誠度を図っていたことも勿論ありますが
それ以上に江戸で精力を注いでいたのが書状の作成。
家康側近への指示のほか
小山で家康に味方することを誓った諸将に対する繋ぎ止めと恩賞に関するモノ
は勿論のこと。
更には
今は三成方となっている諸将に対しても誘降作戦を繰り広げるのでありました。
その中には西軍の総大将となった毛利輝元。
正確には家康に
「輝元は騙されているだけです。」
と通報して来た吉川広家のモノもあり、
その中で家康は
「吉川殿の書状拝見しました。
釈明について了解しました。
私は輝元のことを兄弟のように思っていたところ
まさかの大坂入城を聞き不審に思っていましたが
輝元が感知していないことがわかり満足しています。」
と言った文書を
黒田長政を通じやりとりするなど
多忙な毎日を送っていたのでありました。
その頃、毛利輝元は?
と言いますと……。