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石田三成の戦略と誤算-その2-

伏見城は最初。

文禄元(1592)年、秀吉が伏見の指月に築かれたのでありましたが

当初この城は秀吉の隠居先の位置付けであり、

それ程大規模なモノではありませんでした。

しかし文禄4(1595)年の秀次事件。

更には翌文禄5(1596)年の大地震で城が倒壊したこともあり、

新たに桃山丘陵に縄張りされ再建。

これまで聚楽第に居た全国の大名が

秀吉の居る伏見城下に屋敷を構えるようになり

伏見は巨大な政治都市へと拡大。


それに伴い城の規模も

本丸を始め、高石垣に囲まれた6つの丸。

その外にも2つの丸が設けられ、

更には城南方に流れる宇治川の川向かいにも出城が築かれる

一大要塞の城に変貌を遂げるのでありました。


慶長3(1598)年に秀吉が没すると

秀頼は父と共に暮らしていた伏見から大坂へ移り、

代わって伏見の城に入ることになったのが徳川家康。


慶長5(1600)年6月。

家康が上杉討伐のため会津に向かう際、

留守居役に任じられたのが

鳥居元忠でありました。


その鳥居元忠に対し、家康が命じたモノ。

それは……。


1日でも長く三成を伏見の地に足止めせよ。


つまり


徳川の天下のために死んでくれ。


と言うモノでありました。

城兵わずか1800。

後詰めを期待出来るモノ無し……。


7月18日。毛利輝元の名のもと。

伏見城を行為したのは宇喜多、小早川に毛利秀元。

更には家康の指示に従い伏見に入ろうとするも

全滅覚悟で籠る城に……

の配慮からか元忠に入城を拒絶され、

行き場を失ってしまった島津義弘など

総勢4万。


歴然とした兵力差から短い日日の内に攻城側が……。

と当初、思われていたのでありましたが

秀吉が最後に築いた難攻不落の堅城であったことに加え、

元忠以下。全兵玉砕覚悟で抵抗して来る守備隊に手を焼き攻城側は苦戦。

業を煮やした三成の督戦もあってか、

攻城開始から2週間後の8月1日。

やっとこさっとこの思いで伏見城を陥落させるのでありました。


ここで費やした2週間により、

小山より反転した伊勢の徳川方諸将の帰城。

並びに籠城の準備を許すことになり、

その伊勢方面へ兵を進める前に

徳川方の福島正則らは清州帰城。


三成が当初考えていた尾三国境での徳川迎撃案は頓挫するのでありました。


一方、先年。徳川に屈した加賀の前田利長を抑えるべく

敦賀に戻った大谷吉継は?

と言いますと

慶長5(1600)年7月26日。

徳川方北陸方面総司令官として

2万5千の兵を率い金沢を出発した前田利長は

三成方の丹羽長重が籠る小松城へ兵を向けるのでありました。

しかし城外を泥地で守られた小松城を正面から攻めるのは困難。

と悟った利長は小松城を避け、

小早川秀秋が北ノ庄に左遷されるまでの重臣。

山口宗永が守る大聖寺城に兵を進めるのでありました。

再三再四の降伏勧告を拒絶した山口は

利長の総攻撃の前に討ち死に。

利長は余勢を駆って青木一矩が守る北ノ庄目掛け

越前の国に雪崩れ込むのでありました。


そこで利長が耳にしたモノ。


大谷吉継が越前へ救援の兵を差し向けた。

と言うモノ。


この報に動揺する利長に対し、

更に追い打ちを掛けたのが


大谷吉継の別働隊が海を使い加賀へ攻め込む。

と言うモノでありました。


これを聞いた利長は北ノ庄への攻撃を中止し兵を2つに分け、

1つは加賀へ。

もう1つは海陸両面から挟み撃ちに遭う危険性を除去すべく

小松城へと向かうのでありました。


8月9日。小松近郊の浅井畷にて丹羽と激突した前田利長は大苦戦。

利長は死地を脱するも

殿を務めた長連龍には多くの犠牲者を出し、丹羽と和睦。


利長が再び金沢を出発出来たのは

最初の出陣から2ヶ月近く経た9月の半ば。12日のことでありました。


これら一連の大谷吉継の動き。

全て吉継が流したデマ。

利長は見事に踊らされた格好に相成るのでありました。


前田を抑えることに成功した吉継は三成らと合流すべく

越前から美濃へと向かうのでありました。


朝廷との絡みが面倒くさい細川幽斎が籠る丹後・田辺城には

(悪いようにはしないから素直に開城して……)

とお願いしつつ……。


尾三国境での迎撃を断念した三成は

次なる迎撃ポイントを濃尾国境に定め、

岐阜の織田秀信と連携すべく三成は8月9日。

居城である佐和山を進発し、翌10日大垣城に入るのでありました。


そこで三成は、岐阜・大垣ラインに

もしも……

の事態に陥った事も想定し、

更なる布石を打ち込むのでありました。

それが……

松尾山に新たな要塞を築く。

と言うモノでありました。

近江と美濃の間にそびえるこの山は、

南北朝から戦国時代。国境を守る城として機能。

織田信長が浅井長政を攻略する際に奪った城であり、

その後。信長から秀吉に掛け

近江と美濃は同じ勢力が支配して来たことも手伝い

城としての機能を失っていたのでありましたが、

松尾山事態が要害であることには変わりは無く

江北を治めていた三成がそのことを知るハズも無い。

彼の地に新たな城を築くことにより、

西上を試みる徳川家康を迎撃してみせよう。

と伊藤盛正に大規模な土木工事を命じるのでありました。


この松尾山に毛利輝元を容れ。

三成の居城・佐和山に豊臣秀頼を奉ずることにより、

近江手前の関ヶ原の地に徳川家康を誘い込んだ上。

持久戦に持ち込み、

秀頼を担ぎ出すことにより

今は家康に付いている豊臣恩顧の諸将を動揺させ、

最後。徳川家康を殲滅して見せよう。

……とプランを実行へと移そうとするのでありましたが……。

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