官兵衛の関ヶ原
官兵衛:「……九州に居て良かった……。」
家康の了解のもと。ひと足早く大坂を離れることが出来た官兵衛は、
その後の三成挙兵に端を発した
大坂城内における
「お前!家康の味方なんじゃねえのか!?」
の内ゲバに巻き込まれることも。
既に家康と行動を共にしていた長政と
袂を分かたざるを得なくなる事態に陥ることも無く、
領国のある中津に腰を下ろすことが出来た官兵衛でありましたが
中央の情勢には目を光らせて置かないことには。
と大坂に早舟を残し、
情報収集にあたるのでありました。
「……毛利が動いたか……。」
毛利輝元が反家康がたの総大将に就任したことを知った官兵衛は
「……毛利の主力部隊が中国に根を下ろし、
近隣の家康勢力掃討にあたると面倒な事態になるな……。」
と心配するも
直後。輝元が大坂に入ると共に
毛利宗家並びに吉川小早川に至る主力部隊のほぼ全てが
上坂したことを知った官兵衛は。
三成からの
「反家康に手を貸し、勝利を修めた暁には
九州の内7つの国をそなたに進ぜよう。」
の誘いに対し、
あいまいな返事を取りながら
九州に居る反家康がた勢力を上坂させる時間を稼ぎ、
めぼしい兵力のあらかた全てが九州から離れた頃合いを見計らって官兵衛は
中津に貯めておいた財産を開放し、
兵を募るのでありました。
九州で官兵衛の前に立ち塞がるようなツワモノは誰も残っていない。
と無人の荒野を行くが如く進軍を始める官兵衛の前に現れたのが
大友義統
永禄元(1568)年大友宗麟の子として生まれた彼は
天正4(1576)年父の隠居に伴い大友家22代目の当主となるも
天正6(1578)年の日向・耳川の戦いに敗れてから
島津・龍造寺の圧迫に加え、
家臣団の分裂。
更には父との対立に苦しめられることになり、
天正14(1586)年の島津氏よる豊後侵入により、
本国である豊後も蹂躙されてしまう事態に陥るのでありました。
幸い
翌天正15(1587)年の秀吉による九州出兵に助けられるのでありましたが
かつて北九州全域に影響力を及ぼしていた栄華を取り戻せるわけでなく、
義統に安堵されたのは豊後と豊前の一部に留まるのでありました。
その後の朝鮮の役において
救援を求めて来た小西行長は既に戦死している。
との誤報を信じた義統は助けに向かわなかったばかりか
自身の陣地も撤収。
のち行長が自力で窮地を脱したことにより事が露見。
領国は没収。
全域は秀吉の直轄領となるのでありました。
そんな無主の国、豊後でありますので
官兵衛:「少し脅しておきさえすれば……。」
ぐらいの気持ちで官兵衛は兵を進めていたのでありましたが
その豊後の国に
故地奪還を図るべく勇躍上陸して来たのが
大友義統でありました。
官兵衛:「実はオレ。……人を説得するのは得意では無いんだよな……。」
豊後で兵を展開させようと試みる義統に対し官兵衛は
「止めとけ」
と説得にあたるも
「勝利の暁には豊後の国をそなたにお渡しいたそう。」
の三成の言葉と
毛利輝元の後援を得て活動している義統が
なんら報酬を与える権限も有していない官兵衛の説得など聞くハズも無く
交渉は決裂。
「……まぁそうだわな……。」
と官兵衛は、義統に取り囲まれた
豊後杵築城の細川家重臣・松井康之らの要請を受け、
兵を動かすのでありました。