関ヶ原-その9-
長政:「丹波中納言(小早川秀秋)殿になりますか……。」
小早川秀秋
本能寺の変があった天正10(1582)年に生を受けた彼は
亡き太閤秀吉の正室の甥であることも手伝い
幼少の頃から秀吉の名代を務め、
一時は太閤秀吉。関白秀次に次ぐ豊臣家No.3の立場として
重きを為していた彼でありましたが
文禄2(1593)年の秀頼誕生により事態は急変し、小早川家の養子に入る。
その後勃発した秀次事件に連座するも小早川家当主隆景が機転を利かせ、
隆景自らが隠居することにより小早川家当主の座に収まった秀秋でありましたが
その後の朝鮮の役での行動を咎められ、
筑前から北庄へ左遷。
没収された筑前の地は秀吉の直轄領となったが
そこを実質的に管理運営することになったのが石田三成。
その石田三成が朝鮮の役で担っていたのが
朝鮮での情勢を秀吉に伝えることであったことも重なり、
小早川秀秋は激昂。
大坂城内で三成を捜し回り
斬りかからんとする大騒ぎを起こしているところを
なだめ、秀秋を小早川の屋敷に連れ帰ったのが徳川家康。
太閤秀吉が亡くなったあと秀秋は
旧領である筑前に復帰することになったのでありましたが
その動きをサポートしたのも
徳川家康でありました。
家康:「あいつ……いくさは強いからな。」
長政:「隆景以来の旧臣も残っておりますし。」
家康:「輝元よりはマシ……と言う判断なのかもしれないが。」
長政:「彼も一応毛利の一族である小早川の姓を受け継いではおりますが。」
家康:「彼自身はそのようには思ってはいないであろうな。」
長政:「関白の地位をチラつかせて……。」
家康:「秀秋を関白にして
あいつの面前で頭を下げるために
こんないくさは仕掛けぬぞ。」
長政:「石高と良い、動員することの出来る兵数と良い……。
更に彼も三成に対し思うところあるものの1人。」
家康:「秀吉が現場を見なくなったことによるほつれとは申せ。」
長政:「使われている身の三成は、三成で大変であったとは思いますが。」
家康:「そこに楔を打ち込まない手は無い。」
長政:「ただ注意しなければならないのが。」
家康:「吉川(=毛利)とは異なり、
秀秋には、きちんといくさ場において、三成を裏切ってもらわなければならぬ。」
長政:「傍観者を決め込まれてはなりませんからな。」
家康:「そのためにも信雄の時の失敗を繰り返さぬよう
細心の注意を払わなければならないな……。」
長政:「三成も秀秋に対しては
それ相応の報酬を用意していると思われますからね。」
家康:「伝手はあるのか?」
長政:「秀秋の家老・(平岡)頼勝が私と親戚関係にありますので
その辺りから切り崩しを図っていこうと考えています。」
家康:「毛利と小早川の件。頼んだぞ。」
その頃九州の官兵衛は?