関ヶ原-その6-
石田三成による
「亡き太閤殿下の遺訓
並びに
遺児・秀頼様を蔑ろにする
奸臣・徳川家康を追討すべし」
の号令に
(家康を中心に秀頼様を盛り立てていけば良いのでは?)
と考えていた
上杉景勝征伐のため東に向かおうとするも
近江で足留めを喰らってしまった諸将。
留守居役として大坂に留まっていたため
巻き込まれることになってしまった諸将。
知らぬ間に主君が総大将に祭り上げられてしまった吉川広家などからの
言い訳なのか
保険なのか定かでない
悲痛な叫びとも受け取ることの出来る
これら書状を手にしながら
黒田長政
(以下長政):「……このまま放って置いても
(三成方は)勝手に瓦解するのでは無いのですか?」
徳川家康
(以下家康):「いやいや不安定な状況にあるのは、むしろこっちの方だぞ。」
長政:「三成挙兵の報は、各諸将の耳に入っておりますからね。
ただ幸いなことに彼らのところにはまだ
秀頼様が家康殿を弾劾していることは知らない様子。」
家康:「今はまだ(小山に居る)我々に錦の御旗はある。」
長政:「どちらも秀頼様の意志とは無関係であることには変わり無いのでありますが
今小山に居る彼ら豊臣恩顧の諸将と
徳川殿との間を繋ぎ止めることの出来る
秀頼様による上杉討伐命令が
三成作成の家康征伐に上書き保存される前に
方向性を決めなければなりませぬな。」
家康:「そのためにも抱き込む必要があるのが……。」
長政:「福島正則であります。」
福島正則
永禄4(1561)年。現在の愛知県あま市で生まれた彼は
母が秀吉の叔母であった縁もあり
幼少の頃より秀吉に仕え
天正6(1578)年の播磨三木城攻めで初陣。
その5年後の天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いにおいて
一番槍、一番首の手柄を立て5000石が与えられ。
その後も四国・九州征伐に従軍し、
天正15(1587)年に伊予・今治11万石の大名に昇進。
文禄の役に参陣。
秀次切腹事件後、尾張・清州24万石に栄転。
慶長の役には参加しなかったが
翌慶長4(1599)年の大規模渡海部隊の総大将に
石田三成と共に抜擢されるなど
故・太閤秀吉からの信任厚く、
正則も亡き秀吉への忠誠心は揺るぎ無いものであり、
それがそのまま遺児・秀頼に対しても向けられていた。
この点では
三成と共通しているのでありましたが……。
家康:「三成と正則との仲が絶望的に悪いからな……。」
長政:「結論が同じ(この場合は秀頼第一主義)モノ同士程そうなるものであります。」
家康:「ただ正則は三成とは異なり、他の諸将からも慕われている。」
長政:「現場からの叩き上げでありますからね。」
家康:「それを今。利用しようとしているのではあるのだが。」
長政:「そのためにも秀頼様からの新たな命令書
(私。秀頼を利用しているだけの逆賊・家康を討つべし)
が正則のもとに届く前に
正則の決断を促す必要がありますな。」
家康:「……うまく丸めこんどくれ。」
長政:「御意にございます。」
家康:「小山に居る諸将に関する件とは別に
もう1つ気になっているのが……。」
長政:「輝元のことでありますか?」
家康:「左様。彼が三成側に付くとなると
あれだけの大部隊を動かすことの出来るモノが居るとなると……。」
長政:「三成側が勝つかもしれないと
今は仕方なく三成に従っているモノが
本気で持って家康殿に立ち向かうことにもなり兼ねませんからね……。」
家康:「負けぬとは思ってはおるが。」
長政:「彼らの手元・大坂城には秀頼様がいらっしゃる。」
家康:「秀頼様がいくさ場に現れるとなると……。」
長政:「さすがに三成憎しの福島であったとしても。」
家康:「翻意してしまう危険性が残されている。」
長政:「ただ幸いにも秀頼様の蔵入り地を管理している増田長盛は
此度のいくさ。三成が勝てるとは思っていない様子。」
家康:「同じことは毛利の中にも居る様子。」
長政:「吉川広家でありますな。」
家康:「相変わらずあいつは外交が下手だな。」
長政:「魯粛みたいでありますな。」
家康:「この2つのカードに対しては
しばらくの間、泳がせておけ。
増田に対しては大坂城は無関係であることはわかっておる。
広家に対しては輝元が知らぬ間に
総大将に祭り上げられてしまっていることを
家康は知っておる。と……。」
長政:「悪い人ですね……。」
家康:「お前の親父よりはマシだと思うがな。
それはそうと今。喫緊の課題である正則の件。頼んだぞ。」