関ヶ原-その5-
これより先立つこと18年前の天正10(1582)年。
本能寺で敢え無い最期を遂げることとなった主君・織田信長の
仇を討つべく備中から畿内へ急ぐ秀吉の部隊を
背後から衝くことが出来る
=京に上り、覇を唱えることの出来る絶好の機会を。
叔父の小早川隆景の制止があったとは言え。
隆景よりも長兄にあたる
=隆景同等かそれ以上の発言の重みを持つ吉川元春による
「追撃すべし!!」
との意見も飛び交う中、
和議を尊重し、秀吉を無傷のまま見送ったことからも見えますように
輝元自身。天下を奪おうとは
少なくとも本能寺の段階では考えていなかった。
その後。
秀吉が天下を掌握したことに伴い、
一族合わせて200万石を超えんとする領地を獲得することが出来た。と……。
仮に本能寺後、秀吉が負けたとしても
輝元は織田家の内部抗争に不干渉であっただけでありますので
勝った側と即対立関係に陥るわけでは無く、
むしろ秀吉が居なくなることにより
=元の毛利勢力圏が権力の空白地帯になるわけでありますので
秀吉が居ない分。より楽に勢力を拡大することが出来るようになる。
織田家家中が疲弊を続ける中。
毛利の戦力は温存されているわけでもありましたので。
……の成功体験から考えてみますと
今回の上杉と徳川の対立と
石田三成と徳川との対立に関しても
成り行きに任せて置けば良いのではないか?
家康が秀頼を蔑ろにしているわけでは無く、
家康と良好な関係を結んでいるのでありますし、
今以上の石高を輝元が求めているわけでは必ずしも無いのでありますから。
……の気持ちで居城である広島に居た輝元が
独りの外交僧の籠絡により
(もしかすると天下人になることが出来るのかもしれない)
程度の考えで
悪戯に総大将を引き受けることになってしまった。と……。
隆景亡きあとの毛利家筆頭重臣である吉川広家に。
毛利家の浮沈を揺るがし兼ねない重要案件を通さずに……。
輝元の総大将就任を決定してから知らされることになった吉川広家。
三成が家康に挑んだところで三成が勝利を修めることは出来ない。
と判断していた広家にとって
無謀な賭けでしか無い輝元の三成方総大将就任を。
それも朝鮮の役より最悪の関係になっていた
安国寺恵瓊によって担ぎ出されることになってしまったことを知った広家は猛反発。
大坂の城で恵瓊と激論を交わすも
論戦で恵瓊を打ち負かすことが出来なかった広家は
輝元上坂を思い留まるよう認めた文書を携えた使者を仕立てる一方。
家康側近の榊原康政に
「三成の件と輝元は無関係」
との釈明書を送付。
……するも。
広島へ向かった使者と輝元はすれ違いとなり……。
輝元は大坂城に入ることになってしまった……。
ここで広家が腹を括り、
三成がたの勝利
=総大将である主君・輝元の勝利に邁進することになれば
この後の展開も変わったのかもしれませんが。
そこで広家が採った行動は?
と言いますと
毛利家中で考えを一にする重臣・福原広俊と謀議を重ね、
輝元や恵瓊に知られぬよう細心の注意を払いながら
朝鮮の役より親交を深めている黒田長政を通じ、
徳川家康へのコンタクトを図るのでありました。
これら三成が知らぬ中、
続々と送り届けられる
三成に巻き込まれた面々の書状を受け
小山に居る徳川家康と黒田長政は?
と言いますと……。