関ヶ原-その3-
「石田三成挙兵す。」
との内容が記された密書が
豊臣家奉行・増田長盛より家康に届けられたのは
7月19日のこと。
(ついに来た)
と待ち望んだ朗報に家康が胸躍らせたのも束の間。
家康にとって想定外とも言える事態が
発生していることを知らされるのでありました。
その内容とは
「西軍総大将に毛利輝元就任す。」
(……特に利害関係にあるわけでも無く、
今の状況に満足しているハズの輝元が
何故。全てを賭けることになる総大将の地位に就いたのであろうか?)
その後も長盛からの
「自分は三成と与しているわけでは無い。
これは淀殿も同様のことである。」
や
「淀殿は家康に対し、三成と(大谷)吉継の鎮圧するよう要請しています。」
と言った
自己弁護に終始する
(弾劾文を書いている張本人であるにも関わらず)
内容の文書が届けられるも家康は
それら文書を黙殺し、
7月21日江戸を出発。
3日後の24日。
表向きの目的である会津征伐の前線基地・小山に着陣するのでありました。
そこで家康は伏見城の留守居役を命令していた鳥居元忠より
三成が挙兵し、伏見城攻撃が始まったことを知ることになるのでありました。
それら文書に記された三成に同調した大名のリストには
首謀者である三成ほかに
三成が最初に「家康打倒」を打ち明けた大谷吉継。
安国寺恵瓊の尽力により反家康勢力の総大将に担ぎ上げられた
毛利輝元とその両川。
加えて大老の1人宇喜多秀家に
家康が会津に向かう際。
何かあった時には鳥居元忠が守る伏見に入ることを依頼した
島津義弘もそのリストに記載されるなど
西国の諸大名のほとんどが
三成の考えに同調。
石高に換算すると
現時点で家康と共に行動している諸大名の合計が968万石であるのに対し、
反家康勢力は1100万石を超えている。
(……一揉みで。と言うわけにはいかなくなったな……。
しかも……このまま輝元が秀頼を担ぎ出しでもしたら
秀吉亡きあと
陣営に引き込むことに成功した
今。小山に居る連中。
(ほとんどが秀吉恩顧)
がどのような行動を起こすことになるのかわからないぞ……。)
(……さてどうしたものか……。)
と思案に暮れる家康に対し
上方はどうであったのか?
と言いますと
三成と同調した諸大名の
みんながみんな
「家康の横暴許すまじ!!」
で一致していたのか?
と言えば
必ずしもそうでは無く。
では何故、三成=毛利輝元と行動を共にすることになったのか?
と言いますと
『近江に設けられた関所により、行く手を阻まれてしまったから。』
本来であれば秀頼の命により
家康の指揮下。上杉を征伐するため東へ向かおうとしていたところで。
と言ったモノ。
三成挙兵後。
家康に味方するべく使者を送るも
あまりに関所が厳重であったため、
家康に味方することを伝えることが出来なかった者。
家康からの要請により伏見に入ろうとするも、
全てを失うまで戦うことを家康より拝命されている
鳥居元忠からすれば
他の大名を巻き込むわけにはいかなかったこともあったのでありましょう。
城に入ることを元忠が拒絶して来たため
行き場を失い三成側に加わらざるを得なくなった島津義弘。
更には息子は家康と一緒に会津に向かっているけれども
親は大坂に……
から関ヶ原が終わるまで高野山に追放の憂き目に遭った者など
(……仕方なく、三成と行動を……)
が実状であったものを合わせての
1100万石であった。と……。
同じことは西軍1100万石の内。
最も大きな勢力を誇ることになりました毛利家に置きましても……。