関ヶ原-その1-
大谷吉継の説得に成功した石田三成は翌7月12日。
吉継の言を容れ、
大将となるべき人物と大義名分を獲得するため
2人の人物を
三成の居城・佐和山に呼び寄せるのでありました。
1人は安国寺恵瓊。
元々彼は安芸武田氏の人物。
世が世であれば守護大名として
頭を下げられる立場になっていた彼なのでありましたが
彼がまだ生まれて間もない
天文10(1541)年に安芸武田氏は毛利元就との戦いに敗れ滅亡。
のちの恵瓊は家臣に守られ脱出。
安国寺に入り出家したのち京の東福寺で修行に励むのでありました。
そこで恵瓊の師匠となった人物・竺雲恵心が
毛利元就の嫡男・隆元と親交があったことが縁となり恵瓊は
一族の仇敵であった毛利家との縁が生まれることになり、
毛利外交の舞台で活躍。
特に亡き太閤秀吉との関係において功績多く、
伊予の国において6万石を知行する大名に抜擢される一方。
本来の仕事である僧としても順調に出世を果たし、
中央禅林最高の地位に就くのでありました。
そんな恵瓊対し三成が要請したのが
家康打倒の総大将に毛利輝元を担ぎ上げる。
と言うミッションでありました。
太閤秀吉亡きあと
家康の勢力が拡大の一途を遂げることは
=家康とのパイプが太い吉川広家の地位が
毛利家の中で増して来ることになる。そのことは
=豊臣家との繋がりで出世して来た恵瓊の立場が
相対的に弱くなることになる。
それで無くとも恵瓊は広家と異なり毛利の一族では無い上。
これまで彼の後ろ盾となっていた小早川隆景は3年前にこの世をあとにしている。
このまま徳川の独走状態が続くことは
自らの立場を危うくすることにもなり兼ねないため
何としても避けねばならない。
そんな中、三成より要請された
家康打倒のため輝元を総大将に担ぎ上げよ。
のミッションは
まさに渡りに船。
恵瓊はすぐさま行動に移し、
4日後の16日に輝元を大坂城へ入れることに成功したのでありました。
そしてもう1人。
三成の要請を受け佐和山に呼び寄せられたのが
増田長盛。
豊臣政権下における5人の奉行の1人として三成と共に活躍。
特に三成失脚後は百万石にも及ぶ豊臣蔵入り地を
実質管理・運営する立場になっていたため、
彼を味方に引き入れることは
=豊臣秀頼の名前のもと。
文書を発給することにより家康を弾劾することが出来。
かつ豊臣家の資材を家康打倒に注ぎ込むことが出来るようになる。
是が非でも自分の陣営に置かなければならない。
しかも彼との仲は
他の豊臣恩顧の家臣とは異なり
破綻を来しているわけではなく、
今も良好な関係が続いている。
と三成は説得にあたり、長盛も快諾。
そこで
1、輝元を総大将に据えること。
2、近江の国に関所を設けることにより、
会津遠征に参加する諸将を引き止めること。
3、織田信長嫡孫・秀信に豊臣秀頼の後援を要請すること。
4、既に会津に遠征している諸大名の妻子を人質に取ること。
の以上4点を決定。
即座に行動へと移すのでありました。
その前日。三成の説得を容れた吉継は
先の前田征伐の折。家康の膝下に入った前田家の動向を見据えるべく
吉継の居城・敦賀において前田家の上坂を防ぐ任に入る一方、
彼が味方になることにより発生した思わぬ副産物。
娘が信濃の真田昌幸の次男・のちの幸村と婚姻関係になっていたため
家康打倒のあかつきには甲斐・信濃両国を与えることを条件に
会津で孤立無援の状態となっていた上杉景勝との連絡路の確保に成功するなど
三成のプランは着々と実行に移されていくのでありました。
ありましたが……。