生殺与奪の権-その10-
慶長5(1600)年に入っても
なおも家康の謀略工作は続くのでありました。
亡き太閤秀吉の遺命を無視しての加増や転封を行うことにより
多数派工作に力を注ぐ徳川家康。
その際、用いた領地は全て
『秀頼の直轄領』
つまり家康は
他人の土地を
家康の意志によって与えることにより、
与えられた大名と家康の結びつきが強くなる。
家康の領地は無傷のままで。
このような家康による専横に対し、
憎悪の念を強めて行ったのが
前田利家没後の騒動により、
所領佐和山での閉居を余儀なくされていた
石田三成。
秀吉の遺命を我が物顔で蹂躙し、
その野心を日増しにあらわにする家康に対し、
生前。太閤秀吉より
人一倍恩顧を受けて来た三成にとって
家康の行動は到底受け入れることの出来ない行為であり、
このままでは家康の手によって
豊臣家が滅亡の淵に追いやられてしまう……。
(……家康許すまじ)。
しかし三成の所領は
自身の蔵入り地や身内の土地をかき集めても32万石。
250万石の家康を単独で打倒することは
三成の能力を持ってしても不可能。
そんな折。発生したのが
『会津に不穏な情勢あり』の一報。
会津を領するのは五大老の1人上杉景勝。
慶長4年11月の出羽・戸沢政盛から家康への密書に始まり、
翌慶長5年3月。
上杉景勝のあと越後に入ってから。
と言うモノ
相次ぐ一揆に悩まされていた堀秀治が
景勝の領土である会津に密偵を放ち情報を収集。
分析した結果。
一揆の原因が旧主・上杉景勝にあることを突き止め、家康に告発。
時を同じくして上杉家の重臣・藤田信吉が会津を出奔。
江戸城の徳川秀忠のもとに駆け込み
「景勝に謀反の意志あり」
と報告する事件が発生。
それを受け家康は景勝に対し
事の次第についての説明と謝罪を求め上洛を促すも
上杉家は黙殺。
これに激怒した家康は諸大名に対し出陣命令を発するのでありました。
出陣命令に対し家康を諌める動きも見られたが
家康はこれを無視。
ただそれでは家康と景勝の私戦となってしまうため
それを避けるべく家康は
秀頼から金とコメを受け取ることにより
『大義は家康にあり』
のお墨付きを得。
悠々と会津に向け軍を進めるのでありました。
不必要なまでにゆっくりと……。
家康の狙いは会津にいる上杉では無く……。