1593年当時の小早川隆景
ここで太閤秀吉の密命を受けた黒田官兵衛が向かった先。
小早川隆景の略歴を見てみることにします。
天文2年(1533年)、毛利元就の三男として生まれた隆景は
天文11年(1541年)に継嗣が居ない中、当主を失った竹原小早川家重臣から来ました
隆景を養子に迎えたいの要請に対し、
当時、毛利家が従っていた大内家からの勧めもあり隆景の父・元就も承諾。
数え9つにして元服。
それから3年のちの天文14年(1544年)。
1593年段階の、のちの小早川秀秋と同じ歳。
数え12歳の歳に竹原小早川家の当主となりました。
ここまでは、隆景本人の意志とは無関係でありますが
比較的平和裏に事が運んだのでありましたが
小早川家には竹原以外にも本家筋の沼田小早川家があり、
その当主・繁平が居たのでありましたが
繁平は若年であることに加え、病弱であり。
かつ「いくさ」を行う際、致命的とも言える弱点。盲目のハンデを背負っていました。
(……大将がこれでは……)
と危惧するモノが現れ、
沼田小早川家の中は現当主である繁平を推すものと
竹原小早川家を継いだ隆景を推すものとで分裂。
家中が乱れているところに乗じた尼子家の介入を危惧した
大内・毛利両家は隆景擁立派を支持。
手始めに沼田家当主繁平が尼子と内通したとして拘束。出家させたのち
繁平の妹を隆景に嫁がせることで沼田家を乗っ取る形で小早川家を統合。
繁平派の重臣は粛清の憂き目に遭うことになりました。
この時、隆景18歳。
(因みに秀秋が関ヶ原を戦ったのは19歳での出来事。)
大人が敷いたレールに乗る形で小早川家当主に収まった隆景はその後。
毛利家直轄の水軍部隊として活動。
厳島の戦い。現在の山口県の攻略など毛利元就の膨張政策の一翼を担いつつ
形式上。家督を継ぐことになりました甥の輝元を
兄の。こちらも養子に出されました吉川元春と共に補佐。
父・元就の死後も引き続き毛利家当主である輝元を
兄・元春は主に軍事面を。
隆景は瀬戸内海から入る情報を活かし、対外政策面で支えるのでありました。
そんな中、境を接するようになり、対立することになったのが織田信長であり、
その信長に追われ、毛利領内に辿り着いたのが将軍・足利義昭。
将軍・義昭の要請と言う大義名分以上に
織田家の西進策への対応を余儀なくされた毛利家の中において
瀬戸内海の水軍を掌握している隆景は、石山(大坂)の地で
信長と相対している本願寺に対し、支援物資の運搬を模索。
石山が目前に迫った木津川で織田軍と戦った小早川家は
焙烙火矢などを駆使し快勝するも2年後。
この敗北を受け織田家が開発した鉄甲船に敗れ、
瀬戸内における制海権の後退を余儀なくされたのを境に
織田家の中国方面軍を担う羽柴秀吉との
現在の兵庫から鳥取・岡山での勢力争いでも劣勢に立たされることになった毛利家は、
対立を続ける一方。
外交面を担っていた隆景は安国寺恵瓊を通じ、秘密裏で織田家との和睦を模索。
当初突き付けられたモノよりは緩い案に修正されたところで和平が成立。
互いに誓書が交わされたところで勃発したのが本能寺の変。
ここで関東における滝川一益に対する北条家のようなことを
秀吉に対し毛利家が
(一益が本能寺の件を知った時には既に全国的な噂になっていたのに対し、
毛利より前に本能寺の情報を秀吉が知ることが出来たことの違いはありますが)
行わなかったことが
のちの毛利家の繁栄に繋がることになった。
積極的に。であったかどうかは別として。
あくまで結果的に……。
その後。畿内における秀吉の地位が確固たるモノとなったこともあり
羽柴(豊臣)家に対し正式に臣従。
秀吉の四国・九州攻めに功を挙げた隆景は
四国の際には伊予の国。
九州の際には筑前・筑後両国+αを。
それぞれ与えることにより、
上杉家における直江兼続などと同様。
本家との切り離しを狙った秀吉に対し隆景は
あくまで毛利家からの預かりモノとして扱うことにより回避を模索。
かと言いまして
預かりモノと位置付けました伊予の国。筑前・筑後の国を隆景は
ぞんざい扱ったわけでは必ずしも無く、
肥後の国や東北などで巻き起こりました
新領主に反対する一揆が発生することはありませんでした。
その後、小田原攻め。文禄の役に従軍。
朝鮮半島から日本に帰って来たのが
1593年段階の小早川隆景でありました。
因みに隆景には実子は無く、
秀包を養子として迎えているところに尋ねて来たのが
黒田官兵衛でありました。