隆景の死・太閤の死-その2-
翌慶長2(1597)年2月。
太閤秀吉より朱印状が与えられた西国諸将14万の軍勢は対馬海峡を押し渡り、
上陸地。釜山において各々の任務を遂行するための準備を進めるのでありました。
そんなある日。
行軍を共にしていた毛利家重臣。吉川広家から黒田官兵衛に1つの報せが届くのでありました。
『小早川隆景逝去』
広家からの報告によると
隆景は
突如。脳卒中の発作で倒れ、
治療の甲斐無く
慶長2(1597)年6月12日に急逝したとのこと。
死に際し隆景は
主君・輝元に対し
「たとえ天下が乱れたとしても
輝元は軍事に関与せず。
自分の領土を守ることだけに全神経を集中させよ。
なぜなら輝元には天下を保つだけの器量を有していないのであるから。
もし分不相応に色気を出し、
天下の謀に加わったり、
領土を拡げようとしようものなら
きっと今持っている領土を失うこととなり、
輝元自らの身を危ういものとなるであろう。」
報せに来た広家に対して隆景は生前。
「備中高松におけるのちの太閤殿下との誓約を守ったからこそ
今の毛利家の地位があるのだぞ。」
と今後訪れることになるであろう
秀吉後の騒乱を予想し、
その際。毛利が為すべきことを
臨終の間際になってでも
こんこんと諭し続けたであろう
隆景の姿を思い浮かべながら官兵衛は
「これで日本に賢人が居なくなった。」
とひとり呟くのでありました……。
その後、毛利家は
これまで隆景が担って来た
主君・輝元を支える役目を
一時輝元の養子に入っていた毛利秀元と
重臣・吉川広家が務めることになり、
隆景逝去に伴い
隆景が隠居する際、行動を共にした
旧来からの家臣団は毛利家に復帰。
太閤秀吉より新たに派遣された家臣団が
当主・秀秋を補佐することになりました。
一方、官兵衛が軍監を務める遠征軍は
7月。朝鮮水軍を打ち破り制海権を握るや否や進撃を開始。
目的である朝鮮半島南部の拠点確保に着手。
当初は順調に事が進むも
冬を迎え明・朝鮮連合の反撃に遭い
一時。窮地に立たされた遠征軍でありましたが
慶長3(1598)年正月。
毛利秀元の援軍が到着すると戦況は一変。
明・朝鮮連合軍を撃退することに成功。
その際、朝鮮半島南部の拠点が立地上突出しているため
援軍を派遣することは困難を極めることになることがわかった遠征軍は
戦線の縮小と拠点の放棄を上申することを模索。
いざ太閤殿下にその旨を伝えようと動き出したところで
その後の豊臣政権を暗示する事件が発生するのでありました。