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1593年当時の黒田官兵衛

黒田官兵衛。

天文15年(1546年)。黒田職隆の嫡男として播州姫路に生まれた官兵衛は

永禄4年(1561年)に小寺政職の近習となり、

永禄10年(1567年)。父・職隆から家督と小寺家の家老職を継承。

その後、織田信長の畿内・中国地方進出の際。主君小寺政職に織田家への臣従を進言。

播州の主立った勢力の織田信長への謁見に成功するもその後。

中国地方への進出を図る織田家と

将軍・足利義昭を奉じて畿内への逆侵攻を視野に入れる毛利家との争いが激化。

境目を為す播州一帯始め。

畿内の諸勢力は

両勢力による調略の舞台となるのでありました。


そんな毛利家へと鞍替えする諸勢力が続出する中において

途中、1年にも及ぶ幽閉生活を余儀なくされるも

徹頭徹尾織田家への臣従を貫き通したのが黒田官兵衛。

お隣り備前の国での抗争に敗れた浦上家が織田家に転がり込んで来たため

自動的に毛利家陣営となっていた宇喜多直家の織田家転向に成功するなど

織田家の畿内平定。中国地方進出に功績を挙げた官兵衛は、

他の播州勢力同様。毛利家と誼を通じた主君・小寺政職が

織田信長が嫡男・信忠に討伐されると同時に織田家臣となり、

中国方面軍を担う羽柴秀吉の与力となるのでありました。


その後。備中高松城攻略の際用いた水攻めの実現。

本能寺の変勃発により主君信長を失ったことに狼狽する秀吉に対し、

すぐ毛利と和睦し、弔い合戦へ向かうべし。

との進言(真実の程は定かで無し)。

更には秀吉と柴田勝家の抗争で武功を挙げ、

秀吉と徳川家康との戦いの際には本拠地大坂を守る大任を果たし、

四国・九州攻めの先鋒として活躍した彼は

秀吉による九州平定と共に

豊前の国の内6郡を与えられ、

直後起こった内乱を鎮圧。


家督を息子・長政に譲り、

本拠地中津城のことはほとんど全て長政に任せた官兵衛は

引き続き秀吉の側近として仕えるべく伏見や大坂に居住。


家督を譲った翌天正18年(1590年)の小田原合戦において

小田原城の無血開城実現を成功させるなど

数多くの功績を挙げた官兵衛でありましたが


文禄元年(1592年)より始まった朝鮮出兵において

日本では、力による現状変更が出来なくなった反動も手伝ってか。

軍監である官兵衛の指示を利かぬモノ現れ、

思うように指揮を執ることが出来なかった官兵衛は病いと称し一時帰国。

翌年。和平も視野に入れ再度朝鮮に渡るも

今度は石田三成との折り合いが付かず再び帰国。

そこで待っていたのが秀吉の怒り。

仕方なく三度目の渡海。

成果らしい成果を挙げることも無く失敗に終わった朝鮮出兵に対し官兵衛は

軍艦である私(官兵衛)が失敗の責任を負うことになる。

と覚悟。

息子・長政に対し遺書を残すも

秀吉より赦免されたのが

ちょうど秀頼が誕生した文禄2年(1593年)当時の黒田官兵衛でありました。


そんな黒田官兵衛が

関白へのレールを剥ぎ取られたのちの金吾・秀秋に対し行ったことは?

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