秀次切腹
本人の預かり知らぬところで小早川家を相続することになった金吾のちの秀秋は
養父となった隆景の所領・筑前が
人質も兼ね、集められている諸将の美童が集う
京伏見から遠く離れていることに難色を示し、
それを伝え聞いた太閤秀吉も
対明最前線の要地を
金吾に委ねる気は更々無かったことも相まってか。
金吾はこれまで所領としていた丹波亀山に留め置かれ、
筑前の地は引き続き隆景が。
金吾が養子になったことにより廃嫡となった
隆景の弟・秀包に対し太閤秀吉は
別家を創設することを認め独立。
加えて太閤より
金吾に見合う家格を小早川家に与えなければ。
との考えから
養父隆景に中納言の称号を与えることにより、
小早川の主家たる毛利家と並ぶ
豊臣政権内の地位を得るなど
繁栄の時を迎えた金吾及び小早川家でありましたが。
そんな平穏な日々を引っ繰り返す出来事が
京の都で発生するのでありました。
関白秀次高野山に追放される。
文禄4年(1595年)6月末。
突如として関白秀次が居を構える聚楽第に押し寄せた太閤秀吉の奉行衆は
関白秀次に対し、太閤秀吉に対する謀反の疑いについて詰問。
それからわずか一週の内に
秀次は高野山の追放。秀次近臣を各大名預かりに。秀次の妻妾を監禁したのち
秀次は切腹。
それに満足しなかった太閤秀吉は
秀次近臣に対しても切腹を命じたのち
秀次の妻妾と秀次の子供とそれに連なるモノ全てが
市中引き回しの上、
三条河原で最期の時を迎えるのでありました。
その後、捜査の手は
秀次と繋がりの合った諸大名にまで及び
一時、配流など処罰されるモノありましたが
伊達政宗の
「太閤殿下の慧眼ですら見誤られるかたを
隻眼の私が見誤るのは当然のことでしょう。」
の一撃が太閤秀吉の目を覚まさせることとなり、
諸大名に対する疑いは全て不問に処されることとなったこの事件について
次から話を進めていきたいと思います。