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豊臣家No.3としてデビューするも、秀頼誕生によりハシゴを外された「金吾・秀秋」は……

天正10年(1582年)。羽柴秀吉の正室「おね」の兄・木下家定の五男として生まれた

幼名辰之助は天正13年(1585年)。

羽柴秀吉の養子となり、幼少の頃より秀吉の正室「おね」に育てられた辰之助は

早くも元服。木下秀俊と名乗った彼は天正16年(1588年)。

数えわずか7歳にして後陽成天皇の聚楽第行幸の際、

秀吉の代理として天皇の誓いを受け取るなど表舞台に登場。

翌天正17年(1589年)には

論功行賞に不満を述べたことにより秀吉の怒りを買い除封された

豊臣秀勝の領地。丹波亀山10万石を与えられ、

2年後の天正19年(1591年)に豊臣姓。

更に翌文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、

「権中納言」と呼ばれると共に

諸大名からは太閤・秀吉。関白・秀次に次ぐ豊臣家No.3。

いづれは豊臣家の総帥となるべき人物と見られていたのでありました。


……が。そんな彼の運命を一変させる出来事が発生したのでありました。それは……


翌文禄2年(1593年)。

秀吉の側室・淀君から(たぶん)秀吉の実子が誕生。

秀頼と名付けられた彼の存在により、

これまでの豊臣家序列3位の地位から

クーデターでも成功させない限り、順番が回って来ることは無い

成功者に群がる「自称親戚」の独りに成り下がっただけならまだしも、

なまじ後継者と見られた時期があったがために

(秀頼のためには邪魔となり得る存在は今の内に……)

と、いつなんどき秀吉の目が向くかもしれない不安定な立ち位置に置かれることになった

のちの「金吾・秀秋」


これが律儀者を演じ続けた徳川家康や、

参勤交代で江戸へ向かう日に合わせ、鼻毛を伸ばした前田利常のように

様々な経験を経ることにより、身の処し方を見つけることが出来たのであれば

まだ良かったのでありましたが


その時、秀俊(金吾・秀秋)は数えにしてわずか12歳。

秀吉の代理などの役割を担って来たとは言え、

そのほとんど。

と言うより全ては

大人が書いたシナリオに沿っているだけ。

自らの意志を行使する間もなく。

であったことを思いますと

これまで自分(金吾・秀秋)に向けられてきた

養父・秀吉からの愛情の全てが

秀吉の実子たる秀頼に注がれることになる。

と同時に

秀頼と齢の近い秀俊(金吾・秀秋)が今後。秀頼の競争相手。

担がれる神輿となるかもしれない。

そうなるのであれば……。

……と痛くも無い腹を探られぬよう

立ち居振る舞いするだけの処世術をわずか12歳で身につけよ。

と言うのは無理な話。

このままでは……。

と考えるモノが秀吉家中におり、

主君たる秀吉の臨みである実子秀頼を後継者とし、

更には元後継者候補であった秀俊(金吾・秀秋)の安全が担保された形で身の立つように。

秀頼の競争相手とならない形で。

と秀俊(金吾・秀秋)の再就職先探しに奔走したのが

秀吉の懐刀。黒田官兵衛でありました。

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