第六夜:月野の失踪
学生時代の友人で岐阜の山奥に住む月野と云う男が失踪したと連絡をうけた。
すでに失踪から数ヶ月が経過していると云う。
月野は大自然とギターを愛する寡黙な絵描きだった。最後に彼と会ったのは3~4年前になる。毎年、年賀状だけはおくっていたが返信はなかった。
月野は一見温和そうに見えたが、キレるスイッチがわかりづらく、繊細であつかいづらい一面をもちあわせていた。喜怒哀楽をストレートに表現できる性格ではなかったため、多くの人はそのことに気づいていなかった。
私が彼の近くにいれば失踪の原因や兆候に気づいてやれたかもしれない。
「月野が失踪した」と連絡をよこしたのは月野の女だと云う。
私は女と面識がなく、月野に女がいることも知らなかったが、私は女の云うことを信じた。
女の求めに応じて、私は岐阜の山奥を訪ねた。
私が足を運んだところで事態が好転するはずもなかったが、女とじかに会って話を聞くだけでも、女の心労を軽減してやれるかもしれないと思った。
刷毛でひいたような鈍色の雲から透ける陽の光が、空一面をぼんやりと黄土色に染めあげていた。山の緑が黒い影を落としている。
私はもより駅から1時間に2本しかない路線バスに乗った。ザリザリに錆びついたバス停以外はなにもない山の奥でバスを下りた。
帰りのバスの時刻を確認すると、駅へ向かう最終バスは18時8分だった。長居はしていられない。
舗装だけはしっかりとされている山あいの道路を10数分も歩くと、ゆるやかなカーブをあがったところに、さほど古くない2階建てのアパートが見えた。
かつて1度だけ訪れたことのある月野のアパートだった。今は女が月野の部屋で、彼の帰りを待っている。
月野の部屋の呼び鈴を押すと、私は自分が失踪事件の聞きこみにきた刑事のようだと思って苦笑した。
私を出迎えたのはもの静かで品のある細身の白い女だった。いかにも幸のうすそうな印象で憂いに沈む表情が痛々しかった。
挨拶をかわすと女は力なくほほ笑んだ。とまどいと安堵の入りまじった表情だった。
私は小さなちゃぶ台の前へ座り、ほうじ茶と羊羹を馳走になりながら、女の話を聞いた。
女の口数は少なく、話も要領を得なかった。言葉をさがして沈思する時間も長かったが、私はせかすことなく静かに次の言葉を待った。
とにかく女の間あいで話を聞いてやる必要があると感じていた。そんな具合で数時間、私は女の言葉と沈黙にじっと耳をかたむけていた。
時おりカリッとあえかな音がした。女が手をそえる黄瀬戸の湯呑み茶碗の粗いおもてを、無意識のまま右手の薬指の爪でかいていた。爪の先が割れて血がにじんでいた。
無音の六畳間に女のもどかしさが小さく爆ぜて消える。
しだいに戸外の陽もかげり、灯りのともっていない室内に水墨画のような仄冥い闇がじわじわと濃度をましていった。
気がつくと、女の表情もうかがえなくなるほど冥くなった室内に、格子状の桟が黒い影を落とす障子だけがぼんやりと白くうかんでいた。
台所と六畳間を仕切る曇りガラスの扉の向こうで玄関の開く音がした。ガラス扉が開くと黄色い灯りのともった玄関を背に少しやつれた顔をした月野が立っていた。
「やあ、弓彦さん。きてたんだ」
彼はなにごともなかったかのように、ほほ笑みながらそう云った。
「よお」
私もそう応えた。
〈おわり〉