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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Boulangerie、それと幸せの香り

作者: 花緒すず

パリのブランジェリーが舞台のほのぼのBL。このお話は、ツイッターで交流のある三人の共作です。人物設定はmayuさんに、プロットはこのはなさんにご担当頂き、花緒が好き勝手書きました。初めての体験でドキドキ嬉しいです。


mayuさん https://twitter.com/mayu3613

このはなさん https://twitter.com/hana_gomori3

 もうすぐ、もうすぐ彼が顔を見せる。あと二分。

 店内はパンの焼ける匂いで満たされている。小麦が熱を持ち、生地がふんわりと膨らみながら発する匂いは魔法のように特別だ。溶けたバターは豊かな風味を添え、ドライフルーツやナッツのこっくりとした甘みが誘うように広がる。それらが混じり合う幸せな匂いには誰も抗えない。いつも冷静沈着な態度を崩さない、彼さえも。


 店に入ってくるフォースターさんを観察するのは毎朝のささやかな楽しみだ。スリーピースのスーツをジャストサイズでそつなく着こなし、涼しけな顔をして彼はぴたりと同じ時刻に扉を開ける。瞬間、香ばしいい匂いに頬を緩ませ、ヴィエノワズリーが並ぶショーケースに落とした目にふわりと笑みを漂わせる。次に棚に並ぶきりりと縁の立ったバゲットの焼き色を眺め、もう一度匂いを確かめるように形の良い鼻尖をすんと動かす。それは俺にだけしかわからない、ごく短い時間の僅かな変化にすぎない。それでもクールな空気を纏うフォースターさんが美味しいパンの魅力に抗えないのを見てとるのは楽しい。一連の動作の後、カウンターの中にいる俺に向かって視線で合図を送る。きっとそれは、今日も変わらず。



「エドガー、面倒な客が来てるの。注文代わりに聞いてくれない?」

 夏のバカンスが明けたばかりの、一ヶ月ほど前の朝だった。ゴーストタウンのようだった街が突然活気づき、店にも客足が戻っていた。今日も忙しくなりそうだと思いながら裏手で補充する紙袋を取り出していると、アルバイト仲間のティフェンヌが店側からひょこりと顔を出して言った。

「ここはフランスなんだから、フランス語を話すべきなのよ。英語しか喋んないの。悪びれてジェスチャーでもするならいいのに。あれ絶対イギリス人よ」

「ティフェンヌもさ、最初から聞く気ないでしょ?よく聞けばわかるんだから、落ち着いて聞いてみたらいいんじゃない?」

 双方の頑なさとティフェンヌのいい加減な対応に呆れつつ、袋を手にレジへと向かう。カウンターの向こうに困惑顔で立っていたのがスマートなスーツ姿のフォースターさんだ。薄い頬や細い顎のせいか神経質そうに見える。整えられたダークブラウンの髪は一筋も乱れていない。いかにも仕事をバリバリこなしそうなビジネスマンが、外国のパン屋で注文に困るとは少し気の毒になった。短い会話を英語で交わした後、クロワッサンをくるりと薄い紙に包みアメリカンコーヒーと一緒に手渡す。

「ありがとうございます。素敵な一日を」

「ありがとう、君も」

 まっすぐ視線を合わせて発せられた声は不意をついて柔らかなトーンで、心地よく耳に響いた。もう一度笑顔で礼を返すと、ヘイゼルの瞳がわずかに温度を変えた。

「パン屋での注文の仕方ぐらい勉強しておくべきだったな。まさかこんなことで戸惑うなんて。昨日こちらに越してきたばかりでこれが初めて買ったパンなんだ。前を歩いているといい匂いが誘うから思わず入ってしまったよ。期待通り美味しそうだ」

 そう続けたのは、英語を話したことで外国へ来たばかりの緊張が解けたからかもしれない。ドライに見えた男が心からのものとわかる言葉で自慢のパンを褒めてくれるのは嬉しかった。

「うちのパンは美味しいですよ。俺、エドガーっていいます。次も俺があなたの注文を聞きますから、またいらしてくださいね」

「そうしてくれるとありがたい」

 表情が和らいだ気がしたけれど、言い終わる頃にはもうすらりとのびた背中が向けられていた。



 あと一分。店の扉が開くまでに、さっくりと焼き上がったクロワッサンを全部並べてしまおう。香り立つ濃厚なバターを鼻腔に感じながら、崩れないよう注意してトングを持つ手を早める。ふんわりと空気を含み、艶やかないい色に今日もよく焼けている。形もいいし、完璧だ。

 このひと欠片をフォースターさんが口に運び、その美味しさに表情を崩す瞬間を想像するだけで口元が緩んでしまう。実際には食べるところなんて見たことがないけれど。毎日買いに来てくれるのだから、うちのパンを気に入ってくれているのだと思う。決まって薄いアメリカンコーヒーと一緒にクロワッサンを一つだけ。ティフェンヌだってもうそれを知っていて、毎回俺が注文を聞く必要はないにも関わらず、フォースターさんはすっかり俺の日常に入り込んでしまっていた。


 ケースにパンを並べ終えアメリカン用のカップをコーヒーメーカーにセットする。振り向いたのと同時に扉が開いた。食欲そそる香りを放つ行儀よく並んだパンに、フォースターさんは一瞬子供のような目を向ける。その様子をこっそり観察し思わず笑みがこぼれる。一度視線を合わせた後、カウンター越しにきちんと向き合ってから挨拶を交わす。

「おはようございますフォースターさん、ご注文は?」

「おはようエドガー、クロワッサンひとつとアメリカンコーヒーを頼む」

いつもと同じ声、同じ注文。

「あ、待って。これ、初めて見るな」

「ピスタチオのデニッシュです。ピスタチオクリームが練りこんであって、チョコチップが少し入ってるんですけど、甘いの平気だったら…」

「じゃあ試してみよう。ピスタチオは好きだし、緑が鮮やかで美味しそうだ」

「本当に!?これ、俺が初めて提案して作ってもらったパンなんですよ。フォースターさんが最初のお客さんです。嬉しいな。よかったら感想聞かせてくださいね」

 クロワッサン以外のパンを初めて彼に渡した。絶対美味しいからとパン職人を口説いて試作品を作ってもらい、店長に頼み込んで今日やっと店に並べてもらったものだ。新商品に気づいてくれたことに驚き「本当に嬉しいです」と繰り返した俺に、フォースターさんは口角を少しだけ上げて返した。一日終始ご機嫌でテキパキ仕事をこなしたのは、ピスタチオのデニッシュがすぐに完売したからか、最初のお客さんがフォースターさんだったからなのか、よくわからない。


 早速次の日、ローストしたピスタチオとクリームのバランスが良かったとか、チョコレートは少なめでもいいかも知れないとか、しごく真面目な顔で感想をくれた。

「美味しかったよ。定番としておいてもらえるようになるといいな」

「他にもアイデアはたくさんあるんですよ。店に並んだら、また食べて欲しいです」

 その日からふたりの会話は日にちょっぴりずつ長くなって、フォースターさんに渡すパンも毎日違うものになった。クールなフォースターさんが少しずつ態度を和らげてくれるのを楽しみに、ほどけ目を探しながら毎日英語で会話を交わす。焼き具合などのクオリティーによってパンを勧めたり、彼の好みを聞き出したり。好みって、もちろんパンの好みだ。



 昼の混み合う時間帯を過ぎた頃、「いつも行くデリが改装工事中でね」と言ってフォースターさんが姿を見せた。朝以外に来るのは初めてだ。ランチ用のセットの選び方とサンドイッチやサラダ、デザートの種類を順に説明していく。ショーケースの中をじっと見ながらそれを聞いている顔が、まるで何かの論文を読んでいるかのように神妙で笑ってしまった。

「何?」

 ふと顔を上げ、グリーンがかった瞳で俺を見る。毎日見ているはずなのに、光を反射し思いのほか鮮やかに輝く瞳にどきりとした。きっといつもと店の明るさが違うから違って見えるんだ、こっそり言い訳めいたことを思う。

「あっ、ごめんなさい。フォースターさんって真面目だなぁと思って。」

「普通だよ。君がちゃんと説明してくれてるのに、次にまた手間を取らせたくないからね」

「そういうのを真面目だって言うんですよ」

 コールドチキンのサラダとリンゴのタルトを入れた紙袋を手渡しながら言った。

「混んでる時間じゃなくてよかったよ。ちゃんと教えてもらえて助かった。忙しい時間のパン屋の人のさばき方はこの国の人間とは思えないほど手際がいいからね。流れを止めちゃいけないと思って、未だに少し緊張する」

「いつ来てもらっても、俺がフォースターさんの注文を受けますから大丈夫です。俺はあなたの担当ですからね」

 昼でも安心して来てもらうために言った言葉に、自然と笑顔がついてきてしまう。


「オフィスはどちらなんですか?」

「すぐそこの近代建築のビルだよ。せっかく古い街の中で働いているのに、ただの四角い箱で味気ない。」

「あれってRBBホールディングスのフランス本社じゃないですか。フォースターさんってエリートさんなんですね!」

 パン屋でアルバイトをする俺が見ても、彼のスーツは上質で、格段に仕立てがよく体に馴染んでいることがわかる。近代的なオフィスで仕事をこなし、自信に溢れ颯爽と歩く姿が容易に想像出来る。知りもしない遠い世界を思い描いていると、ふふっと息遣いが聞こえた。

「エリートって」

 口元に軽く握った手を遣りフォースターさんが笑っている。周囲の空気が急に解けだし、ほっとするような笑顔だった。

「わぁ、フォースターさんも笑うんですね」

「私だって笑うよ。なんだと思ってるんだよ。君みたいにいつもいい顔で笑えないけど」

 彼は笑顔のまま、今まで見たことのない親しみを込めた表情で俺を見ていた。

「俺は…、仕事ですから。美味しいパンも笑顔で渡された方が、もっと美味しくなるじゃないですか。それで今日もちょっといい一日だったなって思ってくれたら、嬉しいから…」

 それはいつも仕事をしながら思っていたことだったけれど、フォースターさんの言葉に対する照れ隠しでもあった。話していると自然と笑顔になってしまう、本当はそれだけだ。

「…そうだな。アパートメントの近くにも君が働くパン屋があればいいのに。私のことはアランでいいよ。フォースターというラストネームが好きじゃない」

「どうしてですか?」

「E・M・フォースターが嫌いだから」

 また距離が近づいた嬉しさと、なぜか微かに横切る不安。でもどちらかと言うと嬉しさが優って、考えるのをやめた。


 フォースターさん改め、アランの後ろ姿を見送っていると、ティフェンヌの好奇心に満ちた視線にふと気づく。

「エドガー、あのスーツのイギリス人、タイプでしょ?」

「えっ?な、なにっ?なんでっ?そんなに見てた?」

 思ってもいなかった言葉に、必要以上に狼狽えてしまった。

「何焦ってるのよ。大丈夫よ。エドガーはその辺の女の子よりずっと素直だし、可愛いんだもん。目なんかくりっとしたブルーグレーで髪はふわっふわのストロベリーブロンド、羨ましい」

 ティフェンヌは肩から下がるアプリコットブラウンの髪を比べるように見おろす。

「俺はただ久しぶりに英語話すのが楽しくて…別にタイプとか…」

 何か言いたげに含みのある笑いを知らんぷりして、トレイを唐突に手に取りトーションで拭き始める。正直、男性を恋愛対象として見ることに抵抗はない。それでもアランは店のお客さんで、このカウンターの距離を超えることはない。単にささやかな楽しみ、それ以上の気持ちを持つことは、きっとない。



 思った矢先、あっさりカウンターを超えてしまった。仕事を終え裏口を出た時、そこにアランが通りかかった。ふたりの間に隔てるものがないのは初めてだった。

「あっ、アラン、今お仕事帰りですか?早いんですね」

 早朝から働いているから上がる時間は他の人より早くて、まだ夕刻に入ったばかりだ。エリートの銀行マンには少し早すぎる気がする。

「今日は特別。なかなか仕事の区切りがつけられなくて終電帰りが続いてたから、絶対早く帰るって決めてたんだ。部下がみんなのんびりしててペースを作るのにまだ慣れない。みんなエドガーみたいに手際よく仕事してくれるといいんだけどな」

「そんな…俺は自分にできることをやってるだけですから」

 アランの冗談まじりの言葉に大袈裟だと思いながらも嬉しくなる。ふっと漏れた笑みが温かかったのは、きっと思い違いではないと感じる。そう感じさせる誠実さがアランにはあった。

「ロンドンにいた時より責任ある仕事を任されてるんだから、私も愚痴言ってられないな。エドガーにはいつも励まされてばかりだ。仕事終わるの毎日この時間?」

 励まされてるなんて、嬉しい気持ちをもらってるのはこちらなのに…、言葉の端々にまで気配りをするアランは真面目なだけでなくやっぱり優しい人だ。そう思いながら深いヘイゼルカラーの瞳を見つめていると、ティフェンヌに言われたことが不意に頭をよぎった。『あの人、タイプでしょう?』急に胸がうるさく鳴り始め、視線を外して下に落とす。俯いた先の自分の手にある紙袋に目を留めた。

「はい。あ、これ、新しいパンの試作なんですけど、よかったら食べて感想聞かせてください。りんごとカスタードのデニッシュなんです。りんごのコンポートはよくあるけど、これは生のりんごを乗せて焼いてて歯応えも違うし、クリームとの相性もいいと思うんですよね」

「いただくよ。エドガーは本当にパンが好きなんだな」

 もう一度まっすぐ見返すことができなくて、俯き気味にデニッシュが入った紙袋を渡した時、かすかにアランの指に触れた。思った通り、冷たかった。



 ファーストネームで呼ぶことで、距離が縮まったと思っていたのは俺だけなのか。アランは突然姿を消して、すでに十日が過ぎていた。『パンがない一日みたいに長い』っていう言い方がフランス語にはあるけれど、パンがあってもアランに会えない一日はとても長い。カウンターを超えたことになんて、何の意味もなかった。店員とお客さんという立場は決して変わることはない。アランが店に来ない限り会えないし、また会える確証なんてどこにもないという、当たり前のことをやっと自覚した。

 仕事を終えて駅に向かうのに、遠回りをしてみる。アランみたいにスマートなガラス張りのビルディングを見上げ、ため息をついた。今彼があの扉を押して出てくる、なんてことはないんだろうな。たとえそんな偶然があったとしても、会ったところでどうしようもない。何やってるんだろう。説明できない気持ちを持て余し、足早に駅に向かう。


 アパートメントにたどり着くと、灯りもつけず暗がりの中でベッドに倒れこんだ。頬に触れるシーツの冷たさを感じながら目を閉じる。

 ブリティッシュの発音で俺の名前を呼ぶ声が聞きたい。クールな顔が綻び、笑う瞬間が見たい。パンの紙袋を渡す時ふと掠めた冷たく長い指に触れたい。あ、俺は、アランのことが好きなんだ。きっとすごく好きになってしまったんだ。好き…、そうなんだ。

 いくら自分の気持ちを認めても、大銀行で働くエリートのアランが俺を受け入れてくれることはないだろう。すらりとした長身にしわひとつないクラシカルで洗練されたスーツ、いつもぴかぴかに磨かれている靴、隙ひとつないアランの立ち姿を思い出す。彼の隣に似合うのはきっと知的な美女といったところで、俺じゃない。そういえば、E・M・フォースターが嫌いって言ってたのは、同性愛を嫌っているということかもしれない。あのころすでに俺の気持ちになんとなく気づいていて、釘を刺した可能性だってある。そんなこと全く気にも止めず、好きになってしまった。

 体を折り曲げて横に転がる。暗闇に気持ちを沈め紛らわせようとするのに、思い出すのはアランの言葉とふと見せる笑顔ばかり。会いたい、そう思うばかり。俺は全然素直じゃないよ。もし次に会えるなら、多分もっと素直になれると思うのに。



 アランに会えないというだけで、笑っても表情がうまく作れない。香っているはずのパンの匂いが体の中まで届かない。店に来なくなって半月が過ぎても、いつもの時間が近づくと時計を確認し、コーヒーカップを手に取りそうになる。そしてため息をつきそうになる。扉が開いた気配に手を止め振り返り、思わず息を飲んだ。

「アラン…」

「おはよう、エドガー。出張でロンドンに戻ってる間、ここのパンが食べたくて思い出してたよ」

 カウンターの向こうに少しも変わらないアランがいた。目の奥にツンと走るような刺激を感じる。なんだろう、この感じ…考えると同時に言葉が溢れていた。

「…だって、もう会えないのかと思った。思えば俺、あなたのこと何も知らなくて。今まで毎日会えるのが当たり前だと思ってたのに、あなたがこの店に来てくれることしか、接点はなかったんだって、やっと気づいたんです」

「それで、どうして泣くの?」

 気づけば涙が頬を濡らす感覚があった。仕事中に泣くなんて、どうかしてる。そう思っても冷静ではいられなかったし、口をついて出る言葉を止められはしなかった。

「本当にわからないんですか?気付かないフリ?俺、あなたのことが好きなんです」

 明らかに戸惑った表情をアランは見せる。当たり前だ。朝のパン屋に恋の告白は似合わない。

「俺があなたの恋人になれる可能性ってありませんか?」

 返事はない。息苦しい空気に風を吹き込むように突然扉が開き、馴染みの客が顔を見せた。「ボンジュール」と言った後ティフェンヌと会話を交わす賑やかな声を遠く聞く。注文も聞かずに、絶望的な気持ちでクロワッサンとアメリカンコーヒーをアランに手渡した。

「ありがとうエドガー、よい一日を」

 アランはいつものように言ってコインをぴったりカウンターに置き、すぐに背を向けた。『ありがとう』も『さよなら』も言えなかった。

 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。また会えたら素直になろうと思っていた。でもこういうやり方ではなかったはずだ。せっかく会えたんだから、今まで通り短い会話を交わすだけの関係も続けられたのに。



 一日どうやって仕事をこなしたのか、アランに会えなかった時以上にわからない。午後六時、ずっしりと重い気持ちのまま裏口から店を出ようとした時、ありえない光景に扉を押す手が止まった。出てすぐにある石畳の中庭にアランがいた。

「仕事おつかれさま、エドガー。待ってたよ」

「どうして…」

 カウンターを超えて来てくれても、ふたりの関係は変わらないし、近づけない。たとえ少し距離が縮められても、その心に手は届かない。それなら、こんな風に姿を見せないで欲しい。自分勝手な想いが胸を渦巻く。気持ちに蓋をするようにぱたりと扉を閉めた。

「まだ仕事が終わる時間じゃありませんよね?」

「今日は早めに切り上げたんだ。それくらいの職権はあるんだよ、私にも。…君は綺麗なブリティッシュイングリッシュを話すよね」

「父親はロンドンの出身のイギリス人でハーフなんです。ラストネームはブライトマンっていいます」

何もなかったかみたいに話すのはやりきれない。でも、それ以外に何を話せばいいのか、どうすればいいのかわからない。

「どうしたの?いつもの元気がないみたい」

「それは好きな人に告白してフラれたところなんで。楽天家の俺でもそんな時は笑えないし、元気じゃないです」

「本当に珍しく悲観的だ。私は…YESって答えを持ってきたんだけどな」

すぐには言葉の意味が理解できなかった。YES?YESって何?

「………えっ?えっ?ええっ?本当に?」

心に染み込むような笑顔を向けるアランの言葉に嘘があるとは思えなかった。それでも、あまりの驚きに思考も呼吸もうまくできない。

「エリートさんなのに男が恋人でいいの?」

「そんな偏見ないよ。同性の恋人は初めてだけど」

「だって、E・M・フォースターが嫌いだって言うから、男はダメなんだって…」

「別にそういう意味じゃないだろ。それにあれは君にファーストネームで呼んでもらう口実だよ。仕事だから笑うって言われた時、ちょっとショックだったんだ。私に笑いかけてくれるのも仕事だからなんだって。でもすぐに違う意味だってわかった。エドガー、君と一緒にいれば、毎日が香ばしくて美味しくなると思うんだよ」


 優しく手をとられ、もうすぐ唇が触れるほどの距離までアランの顔に近づけられる。ドキドキして手首がひどく脈打ち、心ごと全部その手に包まれてしまうのではないかと思う。

「パンのいい匂いがする、エドガーの手」

「パンの匂いはこの国では幸福の香りですよ。今度アランがパンを食べるところ、見てみたいな」

「私が食べるところ?一緒に食べればいいじゃないか」

 アランらしい率直な言葉にやっと緊張が解け、ふふっと笑った。手をそっと握り返すと、指に力が込められ返される。あぁ、幸せ。こんな幸せ、一瞬前まで思い描きもしなかった。

「その方がきっと美味しいよ。だから、エドガー、そばにいて欲しい」

 いつものようにまっすぐ俺を見て言ったのに、最後に照れたように視線を落とした。知らなかった、いつもと違う仕草、表情。もっともっと知りたい。見せて欲しい。

 密やかにアランがパンを食べるところを想像する。しっとりとしたクロワッサンを引き裂き、そのひと欠片を口に運ぶその指は溶けたバターで艶やかに濡れている。唇に触れた瞬間素材の味わいはすでに口内に広がっているはずだ。ほっそりとした顎で咀嚼しながら、ふわりと満足気な表情を浮かべる。ふと俺の視線に気づきこちらを見て、アランはそれまでよりもずっと優しく微笑む、きっと。

「そばにいて、あなたのこと、もっとたくさん知りたいです」

 幸福の香りに包まれて、あなたを味わってみたい。それは贅沢過ぎる望みかな。店からは夕食用に焼くバゲットの香ばしい香りが漂う。握られたままの手を引き、近づいてきた薄い瞼のふちに唇をつけた。


fin. もしくは Happy End

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― 新着の感想 ―
[一言] 行ったこともないのに、フランスのパン屋さんの匂いが漂ってくるようで、無性においしいパンが食べたくなりました(笑)エドガーくんのパン、私も食べたい(笑) 恋に堕ちたつらさや戸惑いが心情だけでな…
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