07・釣り野伏せ
日本という国で、会戦と呼ばれるほどの規模は歴史上でも指で数えるほどしかない。その最大規模が正史に於ける関ヶ原の役で。大坂の陣は籠城戦でこそあれ会戦ではなかった。
会戦の定義としては大規模な陸上戦力同士が限定された空間で、ごく短時間に雌雄を決する事と氏親は捉えている。敵味方双方にどちらが勝ったかを認識させるのに、これほど分かり易い方法もなかった。
近代に入り、兵器の発展と戦闘領域の拡大で会戦は見られなくなったが、この時代では規模はともかく様式としては会戦に近いものがまだまだ有り触れていた。
「足軽っ、前ぇっえええっ、進めぇええええええ~~~っ!!」
「「「おうぅううう~~~~~~っ!!」」
指揮官の怒号を背に、原勢の先鋒が槍を構えて今川の正面へと殴り込みを掛ける。氏親の本陣は小揺るぎもしていない。父親に続き、その倅も討ち取れば、今川からの圧力が霧散すると考えても、お気楽とは笑えないだろう。
戦を前に、氏親の首に特段の報償を掛けたせいか、兵数の少なさを補って余りある戦意を感じ取れる。勢いに任せているが、この勢いがバカにならない。大軍相手なら籠城戦より、野戦の挙げ句、乱戦に持ち込めば敵総大将を討ち取れるかもしれない。寡兵で大軍を相手取るのは愚策なのだが、軍隊の運用に関し、そこまでドラスティックではないため、時に精神論でねじ伏せる事が多々あった。
「兵、隊列を乱す事なく後退せよっ!!」
氏親の采配に従い、今川勢中央が敵と交わる事すらなく退いていく。柵や塹壕は何のために用意したのか分からないくらい、それは不可思議な行動であった。
「今川の弱兵が引き寄るぞっ! 全員、恩賞は思いのまま、今川の小僧に目に物見せてやれっ!!」
叱咤激励と目の前にニンジンをぶら下げられ、目の色を変えた連中が馬防柵に取り付き、数人掛かりで引き倒していく。荒縄を短刀で切り裂けば、バラバラにするのはそれほど難しくない。次々と引き倒され、前に道が開く。
「何じゃ、思ったほど強くもないの」
「まったくで……どうやら、先代の義忠ほどの武威はなさそうですな」
すっかり氏親を軽んじた発言が交わされる。名門の御曹司だが、彼には実績が皆無で、この発言も彼らの増長というよりは、ごく普通の感性から発せられた嘘偽り無き本音と捉えた方がいいかもしれない。
「叔父上、どうやら掛かったようで」
「ほぉ……半信半疑であったが、なるほど敵の背中を見ると無意識に追い掛けたくなる。その恐ろしさに気付いた時は……一巻の終わりですか」
「ええ……反転攻勢を掛けるっ!! 左翼右翼は押し潰すように。中央は馬で乗り崩せ! 弓隊、一斉三射せよっ!!」
馬防柵を押し倒す内に、整然と後退した今川中央は、遠江勢が塹壕に至った瞬間、それまで使わなかった弓を一斉に解き放った。予め射程距離を計算した上で、後退した今川からの射撃は正確に塹壕穴の兵たちに降り注ぐ。大楯なぞ、敵陣に持ち込めるはずもなく、穴蔵の中で次々と致命傷を受け身悶えている。
先陣が一瞬にして恐慌状態に陥り、遠江勢の進撃が段階的に止まっていく。玉突き衝突のように行き場を無くした彼らは、左右から押し寄せる軍勢に個別対応するしかない。
「長柄槍で中央の敵兵を蹴散らせ! 騎馬隊を敵本陣に乗り込ませれば、遠江勢は崩壊するっ!」
号令一下、水平に構えた長柄の槍が塹壕から這い上がった連中に突き刺さっていく。足場の条件一つで生死を分かつ。死んだ者には不条理かもしれないが、これが現実であった。
左右から各々3,000の兵が丘陵地帯の傾斜に勢いを増して躍りかかってきた。どちらか片方でも自軍の倍に達する。一人の武者に三人が殺到すれば勝てる道理がない。
「小見信昭様ぁ、討ち死にございます!」
「中門政重様も同じく!!」
次々と舞い込む凶報に原満胤を筆頭に本陣は恐懼する。万の勢でも正面同士でぶつかれば、相応の被害は出ると彼らは踏んでいた。初めから和睦ありきの戦なのに、今川は本気で潰しに掛かって来る。応仁の乱での京でもここまでの殲滅戦は有り得ない。氏親という人物を幼年かつ未熟者と侮ったツケがここで噴き出した。
「今川勢、中央を撃破ぁ! 持ちこたえられません、殿、お逃げください!!」
「逃げるも何も、どこに逃げるんじゃ!!」
本拠の掛川まで指呼の距離、ここで逃げ、居館に籠もったところで、援軍の充てもない以上、時間の問題でしかない。いくつかの懇意にしている国人衆の顔が浮かび、いっそ他国にまで逃げようかと思案している途上にも事態は悪化していく。
「今川の関口隊が我らの後方に回り込もうとしています!」
「なっ!? いつの間にあんなところまでっ!!」
正面を叩かれ、左右からの圧力に必死だった遠江勢は、弓形に回り込んで来る関口隊の動きに遅れを取ってしまった。
今川国氏の子、経氏に始まる今川刑部少輔(今川関口)家は、幕府奉公衆や三河の将軍家御料所管理まで承っており、今川の陪臣ではなく将軍の直臣として扱われている。当主、関口氏縁は一門の通字である”氏”の字を持つ事からも分かるように、代々の当主から重用されてきた。
一隊、1,000余を氏親から預かり、総大将原満胤を討つべく、混戦の中を本陣へと突き進んでいく。どのみち氏親の身は一つで、駿河にしろ遠江にしろ、拠点がどちらかなら、誰かを名代にしなければならない。ならば、外様よりは親族をと考えるのも自然の成り行きであった。
回り込む関口隊に牽制すべく一隊が相手取るが、数に及ばず、勢いで更に及ばず。鎧袖一触、錐のような鋭さで先頭を撥ね返し、満胤本陣へと遂に辿り着く事が出来た。
「殿をお守りしろっ!! 敵を寄せ付けるなぁ~~~~~~っ!!」
「ぐはぁ……」
「か、数がぁ」
槍の石突きで馬を殴られ、暴れたせいで落馬する。そこに端武者が群がり、次々と首を狩っていく。戦ではなく、まるで狩猟のようだが、その犠牲者にしたら堪らない。
「こ、こんな戦があってたまるかぁあああっ!!」
満胤の咆吼が戦場に轟くが、それに感銘を受ける者も応える者もいない。本陣を守る旗本(後年の旗本とは意味合いが異なる)すら散り散りになって、轡を取る小者しか大将の側にいない。
「原殿とお見受けいたす、それがし関口刑部が臣、佐中隼人正と申す。お覚悟っ!!」
「抜かすな雑兵ずれに遣られてたまるかぁ~~~っ!!」
敵総大将に一番槍を付け、それを打ち払っていると、存在に気付いた連中が雲霞の如く押し寄せてきた。大将首=報償、加増の近道である。騎馬の敵将を何とか落とそうと、馬を狙う者や石礫を投げる者もいた。
「くぅ……今川は戦の作法も知らんのかっ!!」
石礫自体は別に卑怯でも何でも無い。印地打ちとも呼ばれ、日の本すべてで見られる。有名処は武田の石投げ部隊で、小山田一族がそれを率いていた。だが、乱戦で大将を狙い打ちにする石礫は確かにあまり聞かない。激昂するのも分かる気がするが、氏親からすれば人質に刃を突き付けたわけでなし、非難される謂われがなかった。
「敵将、原将監満胤殿ぉ、野分弥三郎が討ち取ったりぃいいい~~~っ!!」
数の暴力に抗しきれず、太股に槍を突き立てられ落馬したところを、皮肉にも馬乗りになられて首を刈られてしまった。三方から狭まった包囲網は、大将の落命時に完成し、後は一方的な虐殺へと移り変わった。
「氏親殿……」
「叔父上、分かっております。今は黙っていてくだされ……」
「う、うぬぅ……」
上方の戦では、勝敗が決したら早々に矢止めをするのが習いだけに、殲滅じみた蛮行に盛時は苦渋の表情を浮かべる。
氏親にしても好きでしているわけでなく、一罰百戒の意味を込めて、ここで手を抜くにはいかないのだ。若年とただでさえ侮られかねない自分が、駿河、遠江の二ヶ国を領するには、畏怖を以て支配するのが最良で最短と考える。
一人に五人が群がり、全身を膾斬りにされて遠江の兵は骸へと変わり果てていき。それを見ても微動だにしない氏親に、年長の伊勢盛時は底知れぬ恐ろしさを覚えるのであった。