05・八坂の地
遠江の国人衆は混乱に陥った。応仁の乱だからといって全国が無法状態なわけではない。将軍家は存在するし、守護家も途絶えていない。正規の命で、斯波氏に下った守護任命を、無視するかのように渡河した今川義忠こそ『他国の凶徒』で、それを討伐したといって責められる方がおかしい。
なのに狂ったかのように倅が乗り込んできたのだから、真相の把握どころか右往左往するしかない。それでも横地、勝間田の両氏に掛かりっきりになっていた間に、有力国人衆も多少は持ち直す事が出来た。
「今川勢、およそ10,000が遠江東部を支配下に置いた由。両氏の遺族や郎党の一部は駿河の今川館に送られたともっぱらの噂にございまず」
「……誅殺までされなんだか。てっきり怒り狂って、手に掛けたと思ったが」
報告を聞き駿河の国人、原満胤は顎髭を撫で付ける。まさか6歳の童が殴り込んで来るとは夢にも思わなかった。家督相続で揉め、しばらくこちらにちょっかいなぞ無理と思うが常道で。満胤の思考が普通で、氏親の思惑が外道なのである。
「武衛(斯波)様が尾張から出馬していただければ、何とかなると思うが……」
「とても間に合うとは」
郎党たちも不承不承頷き、雲行きが怪しい事を認める。遠江守護の斯波義廉は、斯波氏嫡流ではなく他家から養子に入った。足利一門、渋谷義鏡の子とされているが、それだけに一族郎党を掌握仕切れているとは言い難い面がある。先々代の義健で武衛家の嫡流は途絶えており、次も、その次も養子では如何ともし難い。
領国を把握しているとは言い切れず、尾張守護代の織田氏を頼って失地回復を図っているはず。距離的には来られない事もないが、自前の戦力まで当てには出来ない。
「将軍家に上奏して、矢止めを願うのはいかがでしょうか?」
「う、う~む……」
「今川は公方様の一族、おさおさ無視するとは思えませぬが」
「それは道理だが」
その道理を親父の義忠から破り、今、その息子も同じ禁を犯している。守護どころか守護代ですらない、国人衆の自分が泣きついたところで、重い腰を上げるとは到底思えない。幕府の失墜、失権は東海の片田舎まで轟いている。
「厄介な事に今川は遠江守護を拝命していた過去がある。これが甲斐の武田や信濃の小笠原なら、遠江国人衆を上げて刃向かうが」
「中には今川に与するのを由とする家もございましょうな」
「……頭の痛い事よ。出来星大名ならともかく、仮にも将軍家連枝、名門の今川とは」
下克上の萌芽こそ見受けられたが、まだ、そこまで露骨に国盗り合戦に勤しんでいたわけではない。精々が水争いに端を発した小規模な合戦擬きが主流で。一族の興亡を賭けた戦いとまではいかなかった。
戦国時代と後の世で喧伝される時代区分だが、当事者たちにその認識は希薄である。彼らの脳内では、鎌倉幕府の御家人制度の上に、室町幕府の守護制度が重なったと思っていた。
一例を挙げると、越後長尾氏がそれに悩まされた。越後の守護代だが、彼の国の守護は上杉氏。その上杉氏は、鎌倉公方の家宰を努めてきた。長尾氏も卑賤の出ではないが、鎌倉御家人の家格である。故に、越後に入部した際は他国から来た同輩とみなされた。土着勢力からすれば、守護上杉氏はともかく、長尾氏は同格という思いがある。守護代とは在地の比較第一等でしかない。他方、長尾氏自身は鎌倉氏の系譜と称しており、家の歴史自体は古く、上杉氏家中の筆頭と自負していた。その認識の齟齬があるからこそ、正史後世に於いて長尾景虎(上杉謙信)は越後国人衆の叛乱に悩まされ続ける。
遠江の国人衆に置き換えると、現時点での守護家は斯波氏である。彼らからすると将軍の威光はまだまだ消え失せていない。その将軍の任命が正規である以上は、斯波氏を戴くのは常道かつ穏当であった。
しかし、ここで厄介なのが先に述べた、今川氏も遠江守護を拝命していた実績である。ここで徹底的に今川に逆らうのは結構だが、将来、もし遠江守護が今川氏になるとしたら、どうなるか。斯波と今川、足利一門の名跡で家格に於いては群を抜いている。
原氏から見れば斯波氏の方が都合がいい。この理由も打算的なもので、斯波氏が在国していないからだ。ほとんど在京か越前、尾張に掛かりっきりで遠江まで出張って来る事は少ない。守護代の甲斐氏すら在地していないのだから、彼ら国人衆にしたら我が世の春である。
これで今川氏に守護職が代わってしまうと、この家は基本幕府の役職を拝命しない。駿河に居続けるのだから遠江の監視も今以上に厳しいものになるのは明白であった。
頼みになるかどうかで言えば、在国していない斯波氏より今川氏の方が何倍も頼りになるが。各々の既得権益に抵触するかどうかの視点でなら、今川を盟主に仰ぐのは甚だ危険と考えがいきつく。
将来に禍根を残しかねない先行きに頭を悩ます中、彼らの心胆を震わせる事態の変遷が起こる。
「殿、今川軍が堀越と合流した模様! 進路をこちらに向けた由」
「御苦労……堀越貞延は倅に付いたか」
「貞延は義忠とも昵懇、元々は同族ですから今川に与するのは特段おかしな話しでは」
遠江今川氏とも言われる堀越貞延が氏親率いる軍勢に合流した。その事実だけで暗澹たる思いが募る。道案内にこれほど相応しい者もいない。
「我が方の勢は、どの程度集まっておる?」
「1,200ほどかと。あと三日あれば1,500くらいには」
「う~むっ……」
半数が一族郎党とすると、他の衆がどこまで充てになるかが問題であった。原氏の拠点、掛川は遠江の平野部で遮るような天然の防壁は皆無である。大軍と正面決戦するのは愚の骨頂であった。
「八坂を越え、逆川まで至ってしまうと籠城しか手がなくなるな」
「もし、大軍を迎え撃つなら、八坂でないと不利になりもうす」
駿河から大井川を渡り、東海道沿いに西進している今川勢を迎え撃つなら、山と山の狭間である八坂の地が最後の線であった。ここを越えられると、後は掛川まで、ほぼ平野部になって防ぐのが困難になる。
「狩野や井伊がこちらに合力してくれれば……。使者は送り込んだんだろうな?」
「無論、今川勢の動きを察した日には、送っております」
「……今日に至るまで梨の礫か。龍王丸の小僧は最初から我らだけを潰しに掛かっておる。如何に応仁の乱で無秩序の時勢とはいえ、正気とは思えん」
従う連中も連中だと呆気に取られている。しかし、幼君を擁した軍勢に諸勢力が合力するのは源氏の伝統。過去、新田義貞率いる軍勢が東海道を下り、稲村ヶ崎から鎌倉に乗り込み、北條一門を討伐した。その際に足利からは尊氏の名代として嫡子・千寿丸(足利二代将軍・義詮)が御輿として参戦。三河など所縁の地を巡る度に豪族たちが、義貞ではなく、幼少の千寿丸を頼りに馳せ参じた実例がある。この時、義貞は足利一門の底力に凄味と恐怖を覚え、後の対立に繋がる遠因となった。
判官贔屓ではないが、弔い合戦を標榜する幼君に国人衆も同情的で。日本独特の貴種尊重の風土も多分に加味され、今川勢は拡大の一途を辿っていく。
文明8年(1476年)4月下旬。東海道の谷間、八坂の地を抜いた今川勢11,000余は、逆川の側に陣を敷き野戦に備えた。
大物見を慣行した原勢の目の前には、塹壕を畝のように掘り、左右から抜かれぬように簡易な土塁を築いた二引両の旗が翻っていた。
「何じゃあの陣は……」
「馬防柵が三重に敷かれておるぞ。それに……報告より兵が少なくないか?」
塹壕の中に潜り込んだ兵のため、見た目だけなら5,000かどうか程度の軍勢に見える。八坂を越える前に、先頭から頭を叩きたかった原氏にとって、兵の集まりの悪さだけは泣くに泣けない。
「数が十倍は違う故、ここは降伏も恥ではないかと」
「一戦も戦わずにか? それでは今川の好き放題ではないか。駿河の端武者に遠州兵の強さを見せつけるよき機会ではないか!」
そうは言うが、実際にぶつかる方からすれば堪らない。あんな野営陣地は記憶にないし、尾張の弱兵ならともかく、駿河兵が弱いなど誰が決めたのか。それぞれの思惑を余所に原陣営が戦の始まりを告げる、鏑矢が一矢放たれるのであった。