01・駿河今川氏
まともに完成させた事もない半端物が勢いで投稿しました。生温く見届けてください。
八幡太郎義家……、武門の嫡流にして源氏の長者。正史に於いて、彼の子孫だけが鎌倉以降の武家政権を担い続けた。
その義家から下り、下野国・足利荘を領したのが足利義康である。この人物は生まれ順で言えば次男に当たり、長男の義重は新田荘を持って新たな家を起こし、新田源氏の祖となった。
鎌倉期、長男が惣領と規定されていたわけでなく、母親の生まれが多分に惣領の座を左右した。婚姻とは家同士の繋がりであり、有力家門と血縁であれば、相続後に自家の繁栄に結びつく。母親の身分が低い、もしくは母方実家が凋落傾向だと、惣領家の座を次男以下に明け渡す事は、それほど珍しい事でもなかった。
次男以下が冷や飯食い、部屋住みなどと賤称されるのは、朱子学が本流を占めた江戸時代以降の話し。鎌倉期は母親の出自、室町期は前項と当人の器量、長男だからと無条件で嫡子になれるほど、武家というものの置かれた存在は甘いものではない。
足利一族、三代目・義氏にも長男・長氏と次男・秦氏の息子たちがいたが、足利の名跡を継いだのは、次男・奏氏であった。長男なのに庶流扱いされた長氏は特段に劣った人物ではなかったが、次男・奏氏の母が鎌倉幕府、得宗家である北條義時の娘であった事が不運である。
奏氏の諱からも察せられるように、北條奏時とは従兄弟関係に当たり、平氏の北條氏が源氏の名門、足利一族に気を使っていた点が思い浮かぶ。
長氏にしても庶流扱いとはいえ、冷遇されたわけではない。しかし、下野・足利荘も際限なく分け与えられるほど領域を保持しているわけではない。そこで長氏は足利一族が守護に任じられていた三河国・吉良荘に腰を据える事となった。
父親の義氏も何も息子が憎いわけではない。しかし、赤子ならまだしも、執権の血縁である次男の方を追い遣るのは風聞も悪く、また、族滅の危機を招きかねない。なにしろ北條氏は頼朝以来、孫の実朝で、その血を途絶させた前科があるのだから。
清和源氏の嫡流が公儀に於いて途絶した以上、その本流を継いだと見なされている足利一族としては、鎌倉の疑念を呼ぶような真似は不可能であった。
父・義氏も後ろめたさもあったが、そこは武門の倣いと割り切り、三河西尾に居を移した長氏に義家伝の御剣を密かに譲り渡した。この件で揉めた記録や風聞も無いところから、足利惣領家を継いだ奏氏も、腹違いの兄に何がしかの引け目を感じていたのかもしれない。その証拠に、室町期、長氏の子孫は厚遇されている。
さて、移り住んだ長氏にも男子が複数おり、こちらは長男・満氏が吉良の名跡を継いだ。そして次男・国氏は父・長氏と共に隠居所に逼塞した。この兄弟はそれなりに年齢差があったのかもしれない。後に隠居所であった三河国・今川を相続する。
この国氏を以て、今川氏の祖としているが、この事から後代俗伝にて『御所(足利本家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』と膾炙される所以である。
これは俗説も俗説で、仮に室町の足利家が滅んでも、関東の鎌倉には、足利尊氏の次男・基氏を祖とした鎌倉公方が存在する。後に古河公方に流れが変わるにせよ、室町将軍家直径の分流がある以上、分家の分家でしかない今川氏の出番は未来永劫有り得なかった。
足利氏は鎌倉期に三河と上総の守護を任じられていた。鎌倉期の守護は軍権の統制であり、室町期の守護大名とは実態が異なっている。どちらかと言えば、地頭職の方が実権を伴っており、後々に戦国大名化したのは、こちらの方が多かった。
その三河国で庶流に分かれたのは、吉良、今川だけではない。細川、斯波、一色などの後に三管領四職に就任する名族もこの地で産声を上げている。
今川氏は将軍家の連枝だから、家臣筋のように公儀の役職に就く事はないとされていた。しかし、これはおかしな話しで、管領職を襲名した細川、斯波、畠山はどれも足利一門なのは明白である。四職の一色、京極、山名、赤松にしても一色は足利の庶流であった。
何故、幕府の役職に今川氏が就任しないのか、答えは、その領国にある。室町幕府創設期、今川氏は一族を挙げて尊氏を盛り立てた。今川祖・国氏には五人の男子がおり、その内四男は仏門に入っていたので除外するが。残りの四子の内、末弟の五郎範国を残して悉く討死している。
同族の尊い犠牲に依って足利本家は覇権を固めたと言っても過言ではない。その礼と贖罪も含めた、今川氏は駿河守護職に任じられる。
室町期に於いて厄介な国がいくつか存在するが、この駿河もその一つである。他に挙げれば、信濃、越後となる。何が厄介と言えば、これら三国は鎌倉御分国と隣接しているから。
室町将軍家の支配領域は、九州から上記三国までの範囲に留まる。関八州に甲斐、伊豆は鎌倉公方の管轄で鎌倉御分国と称される。後に陸奥と出羽も加えられ、東国一帯は室町ではなく鎌倉を直接の主として戴くようになった。
その端境を守護する今川氏の権威や勢力が強大化するのは必然で。他の守護家のように京・室町で幕府に奉仕するなど無理な話しである。国許を当主が留守にしていれば、箱根を超えて鎌倉府の勢力が一路、上洛するかもしれない。室町将軍家にとり悪夢といえるこの事態を回避するには、要所毎に信頼の於ける者を配置するしかない。
幕府開祖・尊氏が定めた制度に依って、子孫が悩むのは歴史の皮肉とも言える。室町将軍としても駿河・今川氏を頼るしかない面が多分にあった。
北陸道に繋がる越後守護職は上杉氏である。元々は公家筋の出であるが、鎌倉公方の補佐役として関東管領を拝命していた。鎌倉公方と関東管領の蜜月は必ずしも長くはなかったが、傍目には鎌倉側の勢力で、事が起きた場合に信が置けるかと問われれば疑問としか言いようがない。
残り、中山道を要する信濃守護職は小笠原氏になるが、この一族の惰弱性というか、ビジョンの無さは壊滅的で、室町中期には早々に実権を失い、信濃という土地柄から盆地毎に勢力が割拠するようになった。
そうなると、大軍の進路として最良の東海道を要する駿河国の重要性が否が応でも目立つ事になる。正史に於いて、徳川幕府が駿河、遠江、三河の三国に譜代、親藩だけを配置したのも、西国から東へと矛先が向いた場合を考えた故の事であろう。
画して、駿河の地に今川一族は根を張る事になるのだが。時代に依って、遠江も領する場合もあった。これも時に斯波氏が任じられるので、今川氏の本貫地と問われれば駿河と答えるのももっともである。
代々、駿河を拠点に勢力を拡大してきた今川氏に転機が訪れたとすれば、それは言うまでも無く応仁の乱に帰結する。当主、今川義忠は敵対する斯波氏が西軍に属した事から東軍へ参陣した。遠江・斯波氏を囲むように、三河・細川氏、信濃・小笠原氏、甲斐・武田氏と東軍側なのだから、選択としては間違っていない。多分に私怨と私欲が混じっていたにせよ、時々の時流を見定めた上での行動となれば武門の惣領としては当然であった。
この時、幕府からの命で鎌倉府も占領し、鎌倉公方を古河の地へと追い遣り、堀越公方の誕生に一役買っている。それについては当代が望んだわけでないが、これにより関東の地で公方両立と関東管領家の分裂を促し、残り火のように東国の波乱要因を温存する事となった。
本貫地の隣接者と仲が殊の外悪いのは、よくある話し。管領家の斯波氏という点も今川氏にとって癪に触る部分であった。
文明6年(1474年)、今川氏は本格的に遠江へと侵攻を開始する。守護職に補任された過去もあるだけに勝手知った土地、しかし、斯波氏も指を咥えて見ているはずもなく一進一退の攻防を繰り広げた。この頃の動員兵力は多くて数千程度で、局地戦を繰り返した上での盤上塗り潰しと捉えた方が理解し易い。
遠江の守護は斯波氏だが、この家は越前と尾張の守護職にも就いている。近接の尾張はともかく越前では遠国過ぎて話しにならない。また管領職の任も考えれば、在京期間も長いだろう。ならば守護代を設置して、それに任せれば事が済むが。守護代家の甲斐氏は越前の守護代も兼ねており、謂わば上位者無き国と遠江はなる。
そなると在地勢力の国人領主が幅を効かせ、今川氏の直接敵対勢力も彼らになる。この時代、上意下達のピラミッド組織にはまだ成熟していない。今川氏にしても、親族、譜代、そして在地の国人勢力の支持があって初めて軍事行動を起こせる。
地の利に関しては向こう側にある。在京の守護職より一族の興亡が係った彼らの方が戦に於いても手強い。
駿河、遠江領国の境に勢力を有する、横地、勝間田という一族が存在するが、彼らに依って今川氏は未曾有の危機に陥った。
今川、こんな平凡な名字なのに名門なところが堪らない。