#06
「お前が何故この世に生を受けたのか、その答えを知っておるか?」
しわがれた声。耳元で死神からささやかれたら、きっとこんな感じだろう。俺は引きつった顔のまま、後ろを振り返った。台所から直結した木製のドア。トイレのドアが開いていた。そしてそこには老人が一人、立っていた。多少の事では驚く事の出来ない空気の中で、俺はその老人に目をやった。見覚えのある顔。一昨年死んだ、親父がそこに居た。俺は思わず「親父」と口にした。
白髪頭の老人は、抜けた前歯を気にする様でも無く、虚ろな表情で「親父、ではない」と言った。そして少しの間をおいてから「お前だよ」と言い、その口元を歪めた。
三人目の俺は老人の俺。どう見ても親父にしか見えなかったが、さっきの歪んだ顔を思い出して、この老人が将来の自分である事を、とりあえず受け入れた。
常識で考えれば、到底理解できない事でも、どこかの感覚を遮断し麻痺させる事で、人は大抵の事を受容する。
「闇、光ときて次はジジイか。随分とシュールな展開だな、おい」
顔はむくみ、どす黒く見える顔は、所々が薄くなったぼさぼさの白髪頭と相まって、いかにもいつ死んでもおかしくない、アル中の浮浪者といった格好だ。この老人が、自分の将来の姿だと聞かされれば、誰だって落ち込むに違いない。
「今度は、年とった俺とは」
「で、ジジィは一体何しに出てきたんだ?まさか、人生について説教、ってわけじゃねぇだろうが」
「自分自身に説教などせんわ。息子に、というならまだしも」
「なんだ、違うのかよ」
「あの、飲んだくれの父親自体、お前に説教らしい説教など、した事はなかっただろうが」
老人はそう言って俺の顔を見たので、俺は「反面教師ではあったけどな」と吐き捨てた。
「だが、その反面教師であった筈の父親と、今のお前がダブって見えるというのは、一体何故だ?」
「同じだと?」
俺は思わず大きな声を出していた。
「そんな筈は無い。あの親父と違って、俺は暴れたりしない。女房、子供を殴ったりしない。誰にも迷惑を掛けていない」
老人は薄笑いを浮かべて、首を小さく横に振った。
「お前には自分が病人だという、自覚はあるか」
「俺が、病人?」
「アルコール依存症というのは、れっきとした病気だ」
「確かに酒は好きだが、それでも病人という訳ではない。俺はまともな人間だ」
「アルコール依存症とは、別名【否認の病】といってな、自分が病気である事を認めようとしない。どこかひとつだけでも、まともなところがある事を声高に叫び、自分は病気では無い、と言う」
「ご老人、あなたが司るのは、時間、ですね」
ようやく口を開いた白い俺がそう訊ねると、老人はいささか芝居じみた佇まいで「いかにも」と小さく頷いた。
「時間」
「そうだ、時間だ。お前という人間のなれの果てが、この私だ」
「随分と弱ってるみたいだけど、大丈夫なのか」
「大丈夫に見えるのか?」
「残念がら全く見えない」
「昔から視力だけは、良かったからな」
「ヤバいのか」
「そういう事だ」
「仕方ねぇ。誰だっていつかは死ぬんだ。とはいえ、こんな姿で死にたいかってのは別の話だがな」
「年長の方には敬意を持って接するという、人間としての常識を、やはりあなたは持ち合わせていないようですね」
「いつ死ぬかわからねぇようなジジィにケーイなんて必要ねぇ。要はあれだろ。ジイさん、アンタは【変身しなかった場合】の末路だろ」
「何故そう思う?」
「アンタの顔は、何もしなかった、ただ時間に流され続けた、死人同然の顔だよ。何かをやった。何かを成し遂げた男は、例え年とったジジィになったとしても、もう少しマシな顔してるハズだ」
「死人同然とは、侮蔑するにも程がありますよ」
「いいんだ。残念だが、その黒い私の言うとおりだ。私は、何もせずに、ただ流され、唯一無二の、この大切な人生を無意味なものにしてしまった。人はいずれ必ずこの世から消え失せるというのに、何もしようと、何も残そうとしてこなかった」
老人は力なくそう言うと、遠い目で何かを懐かしむ様に「いや、違うな。何かをしようと、何かを残そうとはした。したのだが、それが上手くいかなかった」
「やり方が上手くなかった」
「やる気が足りなかったんだろ、要は」
老人は小さく首を振ると「今更何を言っても、無意味だ。時間は後戻りできぬのだからな」
と呟いてから「やり残した事があってな」と言った。
「一応、聞いておきますよ。どんな事です?」
「あぁ、これだけは私にやらせて欲しい」
「何だよ」
首の辺りに、どんっという衝撃が伝わった。俺はおかしな体勢で後ろによろめいた。気がつくと、俺の喉元には、キリの様な物が突き刺さっていた。老人は更にそのキリの柄を右手で握り直すとそのままグリグリとこね回した。すると喉の奥で何かが音をたてて破裂した。同時にどろり、としたものが腹の奥に流れていく。声が出せない。
老人の俺は、刺したキリを一旦引き抜くと、今度は俺の眉間の辺りに、突き刺した。バチンという事がして、俺の世界は暗くなった。




