#01
手が小刻みに震えていた。アルミ製のプルタブを掴み、開ける。
ちゃぷちゃぷと水面が揺れる。コップを持つ手が震えている。
俺はコップに顔を近づけた。呑みなれた安酒の匂いが鼻をくすぐる。口をつけ、ごくり、と一口呑んだ。
喉を流れ落ちていく。胃袋に落ちると同時に、それが身体の隅々にまで染み渡っていくような感覚が湧き上がる。
ごくり、ごくりと喉を鳴らすたびに、俺の血がそれと音を立てて入れ替わっていく。
ふう、と息を吐く。ようやく本当の自分になったと思えた。
ついさっきまでの、自分の手すら制御できない、情けない自分ではない。自分で考え自分で制御できる、ちゃんとした自分だ。
むしろ、さっきまでの自分はニセモノなのだ、と思う。つまりは、今、ここに立っている俺こそが本当の自分だという事だ。
周りの連中はそれがわからない。
酒を呑むのをやめろ、あいつらはいつもきまって同じ事を俺に言う。俺は全然酔っちゃいない。自分の事は自分が一番わかっているんだ。
むしろ、こんなに冴えているのがわからないのか。
俺だけに見える。あのメッセージが。
気付いたのは半年前だった。テレビを観ていると、テレビに文字がぼんやりと現れる様になった。最初はわからなかったが、いつしかそれらははっきりと見えるようになってきた。
それは俺へのメッセージだった。
宇宙からの指令といった方がいいかもしれない。
この広大な宇宙に浮かぶ小さな星で、この俺に、この俺だけに、宇宙から指令が送られてくる。
何故なら俺は選ばれたのだから。
宇宙に選ばれたのだ。
そんな俺がやらなくてならない事。
俺の使命。
それはこの星を守ることだ。
コンビニ袋を片手に店を出ると、外はあいにくの曇り空だった。二月の空気は乾いている。身体も喉も乾いている。
俺は駐車場の縁石に腰を下ろすと、がさがさと乾いた音をたてて袋の中からカップ酒をひとつ取り出すと、その蓋を開けた。
なんとなく駐車場の端、ゴミの集積場があって、そこに目が止まった。
ゴミ袋が部屋の入口に置いたままだった事を思い出す。燃えるゴミは何曜日だったか、俺はそんな事を考えながらぼんやりとその集積場を眺めていた。
ふと、目が止まる。ゴミの袋から何かが飛び出していた。何となく見覚えのある大きさと形だった。俺は気になって飲みかけのカップ酒を縁石の上に置いて立ち上がると、そのゴミの袋に近づいた。
ゴミの袋から飛び出ていたのは、人形の上半身だった。頭の部分を掴んで袋の中からずるりと引き抜くと、大きさにして約三十センチ、見覚えのあるソフトビニール製の人形が出てきた。
黒のボディスーツに赤のマフラー。昆虫を模した顔と突き出した触覚。特徴的な風車のついたベルト。
思わず、懐かしいなぁ、という言葉が零れた。
見るとその人形は随分と色褪せていて、突き出した触角は片方が折れていた。
あの頃、俺がなりたかったもの、それがこのヒーローだった。
世界征服を企む悪の軍団を相手に戦うヒーロー。テレビで夢中になって見ていた記憶があるが、最終回がどんなだったか今となっては思い出せない。
時代は流れ、ヒーローは色褪せてゴミ袋に押し込まれ、そのヒーローに憧れた俺は、こんな風にコンビニ前のゴミ集積場で突っ立っている。
突然、大声が響いた。俺は咄嗟に、人形をジャンパーのポケットの中へと押し込んだ。若い男が走ってきた。誰かを探している様だった。男は全速力で走ってきたらしく肩で息をしていた。
男は真っ赤な顔で何かを叫んでいたが、見れば顔面中央、鼻の部分が赤く染まっていた。一見すると寒くてそうなっているのかとも思ったが、よく見ればそこにはうっすらと血が滲んでいる。
「おい、オッサン、何ジロジロ見てんだ」
声を掛けられ俺の身体は硬直した。怒気を孕んだ男の声。
「いや、別に」
俺はそう答えると、後ろを振り返り、この場を離れようとした。
「ちょっと、待て」男が俺の背中に声をかけた。
「こっちに、中学生くらいの女が走ってこなかったか?」
俺は何も考えずに「いや、見てないな」と答えると、俺の肩に男の手がかけられた。
世界が突然、何の前触れもなく裏返る。
後ろを振り向いた俺の体の正面、みぞおちの辺りに男の拳がめり込んでいた。
苦悶と苦痛。胃袋が身体の中でのた打ち回る。痙攣。俺は集積場の前で突っ伏し、げぇぇと胃袋の中身を吐き出した。昼間に食べた味噌ラーメンに入っていたモヤシが、消化不良のまま、びしゃびしゃとアスファルトの上に撒き散かされる。
「臭ぇんだよ、浮浪者。死ねよ」
男はそう言って、突っ伏した俺の、涙と鼻水と涎でまみれた俺の横面を蹴り飛ばした。俺の身体が一瞬だけ浮き上がって、そのまま吐瀉物の溜まりに顔から突っ込んだ。
その反動で、俺のポケットから人形が飛び出して、落ちた。