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心宿星

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 まだ耳にあいつの声が響いている。あたしの名を呼ぶその声は、繰り返し繰り返し、胸の内で谺する。深淵の闇の中、あたしはきつく自分を抱き締めて、解放の言霊を囁いた。

 …天狼(てんろう)

 瞬間、血の色をした焔が身体から吹き出し、服を剥いで膚を舐め、髪をなぶる。あたしは点した焔が消えないように、記憶を一つ火にくべた。



 あいつと目が合った、あの瞬間を覚えている。揺ぎない眼差しが、あたしを捉えた瞬間を。

「天狼、晶鵠(しょうこく)火辰(かしん)よ。この凍りつつある世界を救う為に、お前達は選ばれた。命に代えても、必ず使命を果たせ」

 あたしは無責任な長達の宣告を聞き流しながら、頭を巡らせて、これから旅をともにする相手を確かめた。

 雨上がりの梨花を思わす女性が晶鵠、こちらに気付くと、しっとりとした微笑と会釈とを寄越してくる。

 今一人は、野生の獣の如き鋭い眼をした男。彼と視線が合ったとたん、胸の奥で火花が散った。弾けた火花が、天狼という男の名を心臓に刻む。

 世界が氷に閉ざされていく原因は明白だった。火を司る朱雀が死に瀕しているからだ。無論、時が到れば新たな朱雀が生まれる。だがそれまでの間、大地を温めるものが必要となる。あたしたちはそれを探し出さねばならなかった。

 長い長い旅の途中で、何度あいつと口論したか分からない。あいつの激しいまでの真っ直ぐさと、あたしの意地っ張りな気の強さとが、事あるごとにぶつかり合った。

 当初あたしたちの仲を案じていた晶鵠だが、やがて微苦笑と共に見守るようになり、折に触れ、あたしたちを喧嘩友達だと評するようになった。あたし自身そうだと感じていた。

 いつからだったろう、それが変化したのは。

 いつ頃からだったろうか、あたしは前だけを見据えるようになった。ただひたすらに前だけを。そうすれば、あいつを見なくて済んだから。晶鵠をその瞳に映し続けるあいつを。

 あたしは目を閉じ、耳を塞いで、気付かない振りをし続けた。――いつまでも気付かないままでいたかった。



 睫に炎が宿り、眼窩まで埋め尽くす。唇を啄ばみ、耳朶を噛む。赤く染まる視界の向こうに夜の闇が透ける。あたしは思い出したくもない記憶を、火に放り込んだ。



 日に日を重ね、夜に夜を積み、一年が過ぎても何の手掛かりも得られなかった。東の果てなる暁の水府を訪ね、炎樹の林を彷徨い、北の黒き峻嶺を越え、溶岩たぎる祠を虚しく眺め、それでも何も見つからない。

 季節が三度巡り、里や畑が氷に閉ざされつつあるのに、あたしたちは希望が次々に砕かれていくのを見つけるばかりだった。

 虚しく当てのない旅路を続けるうち、荒れて乾いていく心を、晶鵠は穏やかに潤していた。彼女がそのしっとりとした微笑を湛え、傍にいるだけで、あいつの心が和むのが分かる。いつか、掛け替えのない存在に変わるほどに。

 あれは旅を始めて五年目の夏、あたしたちは偶然にも天狼の郷里を通りかかった。

 ひどく寒かったのを覚えている。肌を刺す冷たさよりもむしろ、心を凍らせるその現実が。

 里には何もなかった。家も人も何も。ただ小さな氷の欠片だけが風に弄ばれている。象牙や茶や赤黒い色をしたその破片は、凍結したまま粉々に砕けた、里人たちだった。

 膝を付いた天狼の背が、小さく震えていた。腕を伸ばし、友人たちの亡骸を掌にすくう。けれど固く凍らされたそれは、触れたとたん砕け、砂のようにこぼれていく。

 立ち上がり、振り向いたその時の、あいつの眼差し。真っ直ぐなその双眸が、悲しみと怒りに染まり、きつく己を責め立てている。

「天狼…」

 あいつの耳朶に届いたのは、晶鵠の柔らかな声だけだったろう。ようやく絞り出したあたしの声は、乾いてひび割れて掠れ、音にはならなかった。声を掛けるよりも早く、晶鵠だけを求め、呼んでいるあいつの瞳を見てしまったから。あいつの腕があたしの脇をすり抜け、彼女の肩を抱き寄せるのを見てしまったから。

 気付かぬ振りをしていた事実を、逃れようもないほど残酷に、突きつけられてしまったから。



 踵をじわりと焼いた炎は、その赤い舌先に足指を含み、膝頭を撫で、乳房を焦がす。

 あたしを燃やしながら夜空を巡るこの星の炉を、あいつはどこかで見ているだろうか。

 あたしはまた別の記憶を火にくべた。



 あちこちを放浪した末、あたしたちは夜の闇に浮かぶ星の炉が、唯一朱雀の代わりを務め得ることを知った。だがその炉の焔は絶えて久しく、再び火を点す術を知るのは朱雀しかいない。急ぎ、あたしたちは朱雀の棲まうという赤夏山に向かった。

 広大なその山を手分けして探すことになり、朱雀の元に辿り着いた時、あたしは一人だった。

「火種として己を燃やし、薪の代わりに記憶を一つ一つ火にくべよ」

 星の炉に火を点す方法を訊くと、いとも簡単に瀕死の朱雀はそう告げた。

「あの炉は邪鬼の呪いによって火を禁じられておる。その禁を破れるのは生命の炎のみ。新たな朱雀が生まれるは、今より百年の後。…人ひとりを燃やすのだ、どうにかその間は保つだろう」

 朱雀は冷淡なまでに事実だけを語る。言葉を飾っても仕方がないというふうに。あるいは、あたしが断っても構わないというふうに。

 星の炉に必要なのは火種になる誰かであって、それがあたしである必要はない。偶然この場にはあたししかいなかった、だから朱雀はあたしにだけ話した。ただそれだけのことなのだ。

 犠牲はあたしでも他の誰かでも、結果は変わらない。たとえ、それが天狼でも……晶鵠でも。

 彼女の顔が浮かんだとたん、心臓からどす黒い炎が燃え上がり、一瞬にして彼女を焼き尽くす。これを現実に変えてしまえる。そう自分に囁いてみる。けれどもその炎は、次の一瞬には消えてしまった。

 できるはずもないのに。焼け爛れて痛む心臓を鎮めて、あたしは自分が火種になると朱雀に伝えた。

「火辰よ、お前は生きながら焼かれ続ける」

 思わずあたしはひっそりと嗤った。行き場のない想いに身を焦がされるのと、実際の焔に焼かれるのと、いったいどこに違いがあるだろう?

「総ての記憶は火にくべられる。些細であれ、重要であれ」

 重ねられる朱雀の言葉に、唇がさらに歪む。消し去る術が分からずに苦しんでいるこの想いを、跡形もなく燃やし尽くしてくれるのなら、それこそ本望。

「肉体も記憶も焼かれ、果てに待つのは完全なる死だ」

 死ぬのは怖くない、なんて詭弁は言わない。けれどそれで終わりになるならば、それでいい。あいつの心が誰にあるかを知ってからずっと、その事実から目を背けられなくなってからずっと、あたしは終わりを望んでいたから。

 命が尽きることよりも、あいつにあたしの死を知られることの方が怖かった。

 郷里の家族や友人を喪った時、あいつがどれだけ悲しみ、彼らを救えなかった自分を責めたか。同じ想いをさせることだけは、絶対にしない。

 どこかであたしが生きていれば、たとえ遠くに離れていても、もう二度と会えなくても、あいつは苦しんだりしない。あたしが生きてさえいれば、あいつは容易くあたしを忘れ、そうして幸せに暮らしてゆくだろう――晶鵠と。

 だから、あたしはどこかで生きてなくてはいけない。ただの友人のまま、どこか遠くで。

 やがて朱雀のもとにやって来た天狼たちに、あたしは朱雀から火を点す言霊を授かったことと、星の炉の中にあたし一人だけで入らねばならないことを告げた。

「あたしは単に火が消えないよう、番をしていればいいだけ。ただそれだけのことよ」

 軽やかな口調で告げたあたしの嘘を、あいつは少しも疑わなかった。



 爪が焼け落ち、肉が灰も残さずに消え、剥き出しになった骨すら燃えてゆく。叫ぶ声さえ火に変わる。

 星の炉はあたしの点す火を抱いて、夜毎の闇を照らし天と大地を温める。

 十年が過ぎ、二十年が過ぎ、もう時が分からなくなった頃、新たな朱雀が生まれたと知った。

 もはや鼓動すら打たない心臓だけが、炎を噴き上げている。後はただ、この心が果てるのを待てばいいだけ。

 また一つ、あたしの記憶が火に変わる。



 星の炉は、創始、夜空を照らす灯台として造られたという。だが邪鬼の呪いによって火を禁じられ、長い間ただ虚しく天を巡っていた。それが今、火種たるあたしを中に入れる為、誰の目にも付かぬよう夜更けの闇を選び、天河の畔に下ろされている。

 初めて間近で目にしたそれは、円い氷の塊に見えた。触れてみて、ようやく星石で造られたものと知れる。冷たく凍えきった炉だ。大きさこそ人の背丈ほどあるが、それが特別なものとは感じられない。ごくありきたりな、どこにでもありそうな印象の、透明な星石の塊だ。けれどその平凡さが気に入った。命尽きるまで過ごす場所として悪くはない。なによりあたしらしい。

 あたしは静かに息を吐き、右の人差し指の先を小刀で軽く切り裂くと、滴る血で星の炉の外壁に自分の真名を刻んだ。

 真名とは、己の名の意味を-即ち己自身を-表す呪紋。天狼ならば、天駆ける蒼き狼。晶鵠ならば、星の煌きを放つ白鳥。そしてあたしは赤い蠍だ。

 血と火の色をした毒虫を意味する名とは、名付け親は実にいい趣味をしている。あるいは、あたしには相応しいと見抜いていたのだろうか。何にせよ、あたしは自分の名前を、どうしてか嫌いにはならなかった。

 血で真名を刻んだことによって、星の炉とあたしは一体と化す。星の炉の外壁へ触れた手に力を込めると、何の抵抗もなく硬い水晶の塊の中へ入り込む。

 中は凍えるほど静かだった。当然だろう。星の炉が通すのは、中で灯される焔の熱、光と影、そして一体となったあたしだけだ。それ以外は音も物も何一つ通さない。届かない。

 そのまま星の炉の中心へと向かい掛けて、あたしは思わず足を止めた。振り向かなくてもわかる。星の炉のすぐ傍に天狼が来ている。天河の放つ淡い光が、背後から長い影を作る。

 こんなときまで二人で来なくていいのに。

 寄り添うように伸びる二つの影から目を背け、あたしは唇を皮肉気に歪めた。

 振り向くことはできなかった。笑顔はもう使い果たしてしまった。昼間、見送らなくていいと別れを告げて来た時に。

 振り向いてしまったら、きっと言ってしまう。星の炉に阻まれて音が届かなくても、指先が、唇が、視線が、あたしの全身がきっと叫んでしまう。ずっと隠してきた真実を。だから振り向けない、振り向いてはいけない。

 言い聞かせる胸の内に、もう一つの声が囁く。言ってしまえばいい。何もかも曝け出してしまえばいい。そうすれば、あいつはあたしを忘れない。

 あいつの心にあたしは永遠に刻み付けられる。決して消えない、醜い火傷の痕のように。

 心が真っ二つに引き千切られる。世界なんてどうなったって構わない。この痛みが永遠に続くとしても、あいつのそばで生きていられればそれでいい。

 それができないのなら、せめて、あいつにあたしを残したい。消えてしまいたくない。

 ただ言うだけでいい。ずっと抑えてきたものを、ただ吐き出せばいい。そうすればたった一つのあたしの望みは叶うんだ。

 歪めた唇が、震えて微かに開く。視線が僅か、背後に向かう。その刹那。

『……火辰』

 声はしなくとも、あいつがあたしの名を呼ぶのが聞こえた。止める間もなく、鼓動があいつを呼ぶ。

 天狼。

 堪え切れずに、想いがほとばしりそうになる。けれど、まだ耳元で響いているあいつの声が、砕け散る寸前のあたしの心を繋いだ。

 喉が嗄れるほど叫んでも、絶対にあいつの耳には届かない。そう思いはしたものの、それでもあたしは声を殺し、前を向いたまま唇だけを動かした。

「………、………………………」

 それから右手を上げ、ひらひらと軽く横に振る。ごく自然に、何気ないふうに、再会を約した別れの時のように。

 そうして私を宿した星の炉は、静かに夜空へと昇っていった。



 肉の一片一片、記憶のひとかけひとかけが焔に変わってゆく。吐息の一つ一つが、囁きのひとつひとつが。

 ただ一つ残った心臓がまだ、じりじりと焦げ付くような火を宿している。あたしは苦痛よりもむしろ歓喜の声を上げていた。

 あたしは火に焼かれているんじゃない。あたしが焔になっているんだ。行き場のなかった想いが、封じていた心が、まるで解放されてゆくかのよう。

 天狼。

 いつかこの焔が消えたなら。いつか、この心臓を焦がす燠火も埋火も消え去って、総てが灰燼となり、それすらも風に飛ばされて散ったなら。あの時殺した声で紡いだ嘘を真実に変え、あなたに逢いにゆけるだろう。

『ずっと、あんたが好きだった(・・・)。』

 

 そうして、あたしはまた火を点す。



読んで頂いて、ありがとうございます。

この小説は、以前、とある同人誌即売会の企画で、『火』をテーマにした小説を募集していた時に、提出した小説を手直しした作品です。

いかがでしたでしょうか。


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