表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三泊四日  作者: 音樹える
9/24

合宿一日目 -2-

現在の時刻は午後二時三十分。合奏が始まるのは午後三時三十分なので、あと一時間もある。橋田たちは『下見に行ってくる』と言って部屋を出て行ったし、吉はたたみに座り込んで、熱心に本を読んでいる。何かしたいと思っても何も無いので、やることが無くて困る。せっかくだから、楽器のメンテナンスでもしていようかな。

 僕は一人、ホールを目指した。


 合奏をするホールはかなり広く、天井も高い。僕たちの部活よりも、もっと大きい規模の団体が合宿をすることもあるため、人は百人くらい入るだろう。広いだけでなく、設備だってしっかりしている。床は全面カーペット張りだし、壁には吸音材。天井のつくりは、響きを意識した構造になっているので、ここで楽器を吹くのはとても心地よい。


 まだ合奏まで時間があるので、ホールには誰もいない。最近は吉が出していたチューバを、久しぶりに出してみると、なんだかその作業に懐かしさすら感じた。いつも通り、マウスピースを取り出す。ヤマハ67C4。中学二年のときに買って以来、ずっと使ってきた。もっともポピュラーなマウスピースで癖が少ない。自分としては、もっと癖があるものが欲しかったけど、楽器店の規模が小さくて、種類に乏しかった。チューバだけ。

 取り寄せてもよかったけど、すぐ欲しかったこともあって、やめた。なんでこんな金属の塊に一万円近く払わなくてはならないのか、少し憤りを覚えながらも買ったのをよく覚えている。

 マウスピースの練習は、運指を覚えることよりもずっと大切だ。マウスピースを鳴らす技術は、思ったよりも進歩が遅い。よく、『音が出ているから大丈夫』と考える人がいるが、それは違う。マウスピースでなっている音は、一体どういった音色、音程で、それをどのように改善していくのかということを、常に考えなければならない。人それぞれ、出す音色が異なるので、完全に区別できるわけではないが、楽器につけて音を出したときに、その人がどんな音を出すのかということは大体予測が出来る。バンドとしては、張りのある音を求めているから、マウスピースでも張りのある音が出せなければならない。練習の初期の初期でマウスピース練習が大切だというのは、このためだ。

 慣れてくると、この練習は楽しくなってくる。自分の好きな曲を、楽器を使わず、マウスピースだけで演奏する。これで上手く音がはまるようになれば、マウスピースに十分慣れたということだし、おのずと音感も着いているという事になる。

 マウスピース練習を始める前に、表情筋を解す。こうすることで、顔中の筋肉がほぐれて演奏しやすくなるし、表情も付けやすくなる。その時には、すごく変な顔になってしまうので、絶対に人には見られたくない。いざという時は、タオルで顔を隠してからやっているが、その姿さえも、変だ。どこかで見られているのではないかと、いつも心配になる。


深呼吸をする。いつもと違う空間だから、空気の味が違う。とても澄んでいる。静寂に包まれた空間では、呼吸の音さえ響いているような感覚に陥る。


ホールには、運び込まれた楽器が整頓されて置いてある以外、一台のアップライトピアノと、椅子を積み上げた台車が三つあるだけだ。この部屋の風通しは良いが、コンクール本番の舞台を想定して、空調を効かせることが多い。うちの部活も、そうするようにしている。逆に空調を効かせすぎて、寒くなってしまうこともしばしばある。ホールの外と中での温度差が酷いので、外に出た瞬間に調子が悪くなる人もたまに出る。自分も気をつけないと。

 そんなことを考えながらも、マウスピースを吹く。今日の調子はどうだろうか。身体の調子が良いから、上手く吹けるかと言ったら、そうじゃない。こればかりは、どうしようもない。でも、毎日吹いていると、上手さの最小値は底上げされてくる。要するに、『経験の差』ということだ。

 マウスピースに、チューナーマイクを取り付ける。音階をたどっていって、今時分が思い描いている音のピッチがどれだけ正確なのかを確認する。マウスピース練の時に音感を矯正しておくと、チューニングにかかる時間が短縮できる。チューニングが早く合ということは、曲練をする時間が増えて、詰まるところ、上達のスピードがぐんとのびる。土台作りが大切という理由のひとつに、これがあるかもしれない。

 マウスピースを10分位吹いた。今日の調子はまあいいらしい。日々練習を積み重ねているだけあって、平均値は大分上がってきているみたいだ。吉だってこれくらい吹けたらいいのに…。と思うのは、無理な話だろうか。


 本当は楽器のメンテナンスをするつもりだったけど、気分が乗ってきたから楽器を吹くことにした。基礎練習くらい、いくらやっても損はしないだろう。やりすぎはよくないけど。

 楽器を取り出す。空調がよく効いているから、楽器を触るとひんやりしている。マウスピースの調子もそこそこ良いから、楽器の調子も良くあって欲しい。僕は椅子に腰掛け、マウスピースを楽器に取り付け、構える。ピストンの調子を確かめ、抜き差し管を引き出し、スライドグリスを塗ってやる。第二ピストンから出ている抜き出し管の調子が悪い。仕方なく、そこにバルブオイルを塗って、調子を見る。バルブオイルを注すことで、付着している汚れが取れてくるので、抜き差しが楽になる。ちょっとした裏技だ。

 やはり、汚れが溜まっていた。注したバルブオイルが、真っ黒になって管に貼りついている。汚れごとオイルを拭き取り、もう一度スライドグリスを塗ると、他の管同様、滑らかに動くようになった。こういう時のために、常に手入れをする道具を持っておくのは、楽器奏者として基本的なこと…だと思う。

 

 息を深く吸う。体中に空気が行き渡る。肺が冷たい空気で満たされていくのは、心地よい感覚だ。

 そのままゆっくりと息を吐く。空気が鼻を通って抜けていく。

もう一度息を吸い、今度は一気に吐き出す。そうして基礎練を始めた。



 現在時刻は三時ちょうど。合奏開始まであと30分なので、ぼちぼち他の部員が入ってくる。結局、集中して基礎練が出来たのは最初の10分位で、次第に周りの様子が気になってしまって、手に付かなかった。一人でいるホールは静かだけど、静か過ぎて逆に焦ってしまう。皆が入ってきてくれると、すこし賑やかではあるけど、落ち着く。


美紅は、皆といるのが怖いと言っていた。皆が、自分のことを睨みつけているように見えると言っていた。絶対にそんなこと無いのに。むしろ、みんな美紅の努力している姿に感心しているんじゃないかと思う。美紅ほど真面目な人は、そうそういないから。

 彼女の悲しみを、自分の手で拭ってやれるなら、痛みを押し付けられてでも、その悲しみから解放してやりたい。

 それで美紅が幸せになれるなら…な。


 合奏の時間になっても、美紅はホールに姿を見せなかった。どうしてかと後でパートリーダーに聞いてみたら、体調不良らしかった。長いバス旅で、疲れた部分もあたのだろう。


合宿で初めての合奏は、ほとんどの時間を基礎練習に費やした。時間が有り余るほどあるから、休憩をはさみつつも、普段はあまりやらない基礎練も入念にやった。特に音程に関しては、普段よりずっと厳しく、ずっとチューナーと睨めっこしていたから疲れた。

長旅で皆疲れているのに、いきなりこんなにハードになるとは、予想していなかった。この調子だと、三日目の夜には皆顔が死んでるんだろうな。

合奏中、何度もトランペットパートの空席を見ては、考え事をしていた。今日、高速のサービスエリアで会話した時はあんなに元気だったのに、合奏の時間になって急に体調が悪くなるということは、ちょっと考え難かったから。でも、本当はこの合宿を休むつもりでいたのに、苦しむことを分かっていながら来ているということ自体が進歩だから、無理を言っても仕方ない。きっと明日になれば、元気になっているだろう。

 合奏が終わった後の夕食にも、美紅は姿を見せなかった。よほど体調が優れないのだろうか。

仲のいい友人達が、夕食のメニューで持っていける物を持っていく姿を見た。その友人達の会話を聞く限り、美紅はもうほぼ回復しているらしいが、大事をとって休んでいたという。ならば大丈夫だろう。

 本来なら夕食後もう一度合奏が入るのだが、先生も美紅のことがあって少し考えたのか、合奏はなくなり、自由時間となった。練習したい者は楽器を吹いてもいいし、寝たい者はもう寝てしまっても構わない。バス移動で皆疲れていたこともあって、ほぼ全員の生徒が自分の部屋へと戻っていった。

 僕は、明日の合奏に向けて、詰めておかなければならない箇所がある。折角だから今日中にやってしまおうと思い、皆が行く方向とは正反対のホールを目指した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ